リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件(リンゼイ・アン・ホーカーさつがいじけん)は、2007年(平成19年)3月26日に千葉県市川市において、英会話学校講師リンゼイ・アン・ホーカー(英表記:Lindsay Ann Hawker ・英国籍・当時22歳)が市橋 達也(いちはし たつや・当時28歳)によって殺害された殺人事件。なお、千葉県警察本部の正式な事件名は「市川市福栄における英国人女性殺人・死体遺棄事件」である。
リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件 | |
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正式名称 | 市川市福栄における英国人女性殺人・死体遺棄事件 |
場所 | 日本・千葉県市川市福栄二丁目(マンション4階の部屋) |
座標 | 北緯35度40分36.18秒 東経139度54分42秒 / 北緯35.6767167度 東経139.91167度 東経139度54分42秒 / 北緯35.6767167度 東経139.91167度 |
標的 | リンゼイ・アン・ホーカー |
日付 | 2007年(平成19年)3月26日 |
懸賞金 | 1,000万円 |
攻撃手段 | 拳で殴る・絞殺 |
攻撃側人数 | 1人 |
武器 | 手結束バンド粘着テープ |
死亡者 | 1人 |
犯人 | 市橋達也 |
容疑 | 殺人罪・強姦致死罪・死体遺棄罪 |
動機 | 恋愛感情のもつれ 暴行目的 |
対処 | 逃亡した市橋を指名手配し、約2年半後に逮捕・起訴 |
謝罪 | あり(遺族は受け入れず) |
賠償 | 手記の印税での賠償を希望(遺族は受け取り拒否) |
刑事訴訟 | 無期懲役(2012年4月25日確定) |
管轄 | 千葉県警察本部刑事部捜査第一課・千葉県行徳警察署 千葉地方検察庁 |
事件当日の2007年3月26日、被害者と同居していた女性から行方不明の相談を受けた千葉県船橋警察署の警察官が被害者宅を捜索。市橋達也の電話番号・メールアドレスと被害者の似顔絵を描いたと思われるメモを発見し、市橋達也宅の家宅捜索に急行した。
同日21時40分ごろ、千葉県市川市福栄二丁目の市橋宅(マンション4階)に、千葉県船橋警察署生活安全課・刑事課の署員数人が到着した。市橋は部屋から出てきてマンションの共用廊下で応対しようとした。捜査員が部屋に入ろうとすると、市橋は非常階段を駆け下りて同マンション裏の駐車場を経て東京メトロ東西線行徳駅方面に逃走した。予め逃走を防ぐ為に非常階段などにも捜査員が配置されていたが、取り逃がす結果となった。
千葉県警察本部刑事部捜査第一課は3月27日、千葉県行徳警察署に捜査本部を設置し、市橋について死体遺棄容疑で逮捕状を取って公開指名手配した。同日22時ごろ、市橋宅のベランダに置かれていた浴槽の内部で、全裸様の前傾座位で土に完全に埋められた被害者の遺体が発見された。
逃走後の市橋はしばらく近隣の住宅地の物陰に潜んでおり、そこで探索中の捜査員に発見されて一旦羽交い締めにされるが、ここでも逃走することに成功している。
捜査本部は、当初100人体制をとっていたが、のちに150人体制に捜査強化し、手配ポスターも3万枚余作成された。
後にこの事件は「公的懸賞金制度」の適用を受け、捜査特別報奨金の上限を100万円として、別の4事件とともに懸賞金が掲出された。これを受け、同年6月29日、被害者遺族が駐日英国大使館において記者会見を開催し、市橋逮捕とその契機となる情報提供を広く訴求するとともに、新たに製作された手配ポスター約6000枚を配布し、その後も市橋の捜索に関してしばしばコメントを寄せた。のちに、報奨金額は1000万円まで引き上げられた。
2008年(平成20年)3月13日、捜査本部は、市橋が茶髪で眼鏡をかけた姿と女装姿の2つのイメージ画像を掲載した手配ポスターを新たに公開し、A3版を約4000枚掲示するとともに、A4判チラシ約3万枚をホテルや駅などで配布した。さらに2008年3月18日には、市橋が記した被害者の似顔絵つきのメモと、市橋の遺留品であるリュックサックや靴・靴下の写真を公開している。
2008年10月24日、イギリス紙『タイムズ』が「日本の警察は市橋が自殺したと断定した」という記事を掲載したが、同日、佐藤勉国家公安委員会委員長が記者会見席上で市橋自殺について否定した。
被害者の家族は、単独あるいはイギリスのマスコミと一緒に何度も訪日し、事件現場へ慰霊に通ったり、駅でのビラ配りを行い市橋逮捕への協力を訴えた。2007年6月27日には専用サイトを立ち上げ、市橋の顔を印刷したTシャツをネット販売するとともに、事件の風化を防ぐため繰り返しマスコミへの出演を行った。
捜査協力はあらゆる方面に及び、イギリスのメディア『Mail Online』は、父親が日本のマフィア、つまりヤクザにも接触し、市橋探しの捜査を依頼していたと報道した。
当時のグレアム・フライ駐日英大使も2007年4月1日、東京都内で記者会見を行い、市橋逮捕への協力を求め、家族の活動を支援した。テレビ朝日『奇跡の扉 TVのチカラ』(2007年6月30日放送)において特別番組が編成され、来日中の被害者両親も出演して、日本国内に広く情報提供を求めた。
この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。(2011年7月) |
市橋は逃走開始直後に靴と靴下、上着を紛失したが、ゴミ捨て場からサンダルと上着を入手した。所持金は5万円程度であった。自家用車を所有する当時交際中であった女性に公衆電話から連絡を取り、共に逃亡すべく依頼を試みるが、女性が通話中だったため実現しなかった。
逃走初日のうちに放置自転車や電車を利用して、市川市の自宅から上野経由で秋葉原まで移動し、途中立ち寄った東京大学医学部附属病院の障害者用トイレで、人相を変えるために鼻翼を左右から縫い縮める自己整形手術を行っている。後に自らカッターナイフでほくろを切り落とし、下唇を小さくするためにハサミで切っている。
その後は埼玉県・群馬県・茨城県などの北関東周辺を放浪し、静岡県熱海市を経て駿河湾付近まで南下した後に青森県まで北上することを決める。事件前に福岡県の知人宛てに近々遊びに行く旨のメールを送信しており、パソコンの記録解析によって南方への逃亡が察知される危険性を考えた行動であった。東京から新潟県を経て青森まで移動したが、青森駅前公園で1週間ほどの寝泊りを経て青森の経済状況が芳しくないと感じ、働いて生活するために大阪市西成区の公共職業安定所を訪れた。ここでは職に就くことはなく、すぐに岡山県を経由して四国に移動した。
四国では香川県高松市から徳島県~高知県~愛媛県と遍路道を歩いた。これには贖罪の意味があったとしている。一方で「逮捕されればさらしものになる」「指名手配されると、自首しても刑は軽減されない」として、自主的な出頭は考えていなかった。お遍路の先々では手配写真が掲載されており、このままでは逮捕まで時間の問題と考え、無人島での生活を考え始める。高知の図書館で無人島について調べ、滞在地として沖縄県のオーハ島を選択した。お遍路を途中で止め、松山港からフェリーで別府港に移動し、その後鹿児島県を経て沖縄に渡った。
初回のオーハ島渡航は準備不足により1週間ほどで頓挫した。資金が尽きた市橋は、沖縄本島の建設現場で偽名で働き金を稼いだ。この沖縄での経験で、市橋はオーハ島と大阪での住み込み労働を繰り返す生活スタイルを考案した。住み込みでの仕事は解体現場や建設場を選んだ。他にも船に乗る仕事や風俗に女性を派遣する仕事などをしないかと誘われたが市橋は断っている。勤務態度は良好であったが、宿舎付近で警察らしき車両を発見すると、身近に捜査が及んでいるのではと疑い、所持物を部屋に残したまま逃げ出すことを繰り返した。2008年春には自宅の近隣に所在し、卒業論文のテーマであった東京ディズニーランドを訪れている。住み込み労働で得た貯金で、2009年10月23日・24日に名古屋の形成外科にて眉間の形成手術を受けた。この手術がのちに逮捕に繋がることになる。
市橋は、逃亡中に沖縄県島尻郡久米島町のオーハ島を4回訪れており、最長で3ヶ月ほど滞在した。最初の滞在では海岸近くの岩場に潜伏していたが、2回目以降の滞在は海岸近くのコンクリートブロック造りの小屋に移動した。オーハ島はダイビングスポットや海水浴としては人気があったが、当時居住していたのは70歳代の男性が1人であった。隣の久米島で仕事を探したが適当な仕事がなく、自給自足の生活をしていた。最初の滞在は準備不足で魚釣りも満足にできず食料調達に失敗し1週間で頓挫した。オーハ島から沖縄本島に戻る際、フェリー代金が足りずキセルをして職員に捕まっているが、事件の市橋とは察知されず放免されている。
2回目以降の滞在では図書館でサバイバルに関して調査し、魚や蛇・ヤシガニを食べたり、野菜を栽培するなどして生活した。飲料水は奥武島に泳いで渡り、1週間分の飲料水をペットボトルに詰めて持ち帰るなどした。燃料となる薪は流木が豊富に得られたので困ることはなかった。逮捕されたときも、この島を目指して移動途中であった。初公判で市橋は、もはや逃げ切れないと思い、オーハ島の小屋で死のうと思っていたと供述した。2011年1月23日千葉県警は捜査員を派遣して、小屋の残留物を証拠品として押収した。
市橋は、逃亡生活の様子や心境などをまとめた手記「逮捕されるまで―空白の2年7カ月の記録」を、2011年(平成23年)1月26日に幻冬舎から出版し、手記による収入はすべて遺族への弁済に充てるとした。接見はできないため、間接的な原稿のやりとりだったが、編集担当者は「(被告の)観察眼、感性の豊かさを感じた」と話しているが、英国の遺族は「裁判の前に、こうした本を書くことが許されるのか。強い嫌悪感を抱いており、傷つけられた。私たちが求めているのは公正な処罰だけだ」と話した。
2011年7月までに印税は1100万円となり、市橋は税引き後の912万円を遺族に渡したいとしたが、被害者の両親は「娘を殺したことをネタに金儲けをしている」として、1銭たりとも受け取らない立場を千葉地裁で明らかにした。手記には遺族が受け取らない場合は、印税を公益に代えるように記載されている。
千葉地方裁判所における初公判は2011年7月4日。起訴状の公訴事実は、殺人罪・強姦致死罪・死体遺棄罪。被害者の両親と姉妹の計4人が被害者参加制度を利用して裁判に参加した。検察側は市橋が事件の発覚を恐れて殺害に至ったとしたのに対し、弁護側は強姦と監禁、死に至らせた事実は認めたものの、殺意については否認し、殺人罪と強姦致死罪ではなく、傷害致死罪と強姦罪だと主張した。
検察側は、市橋は非常に強い力で3分以上に頚部を絞めており殺意は明らかで、蘇生措置をしたというのは被害者の肋骨に損傷がないことから信用できないと主張した。千葉地検は「市橋には前科がなく、犠牲者が1人のことから死刑は躊躇せざるを得ない」として、同年7月12日に無期懲役を求刑した。
2011年7月21日、千葉地裁(堀田真哉裁判長)は検察側の求刑通り、市橋に無期懲役の判決を言い渡した。検察の主張する殺人罪と死体遺棄罪は認定したが、「首の圧迫は強姦後に相当の時間が経った後で、時間的に接着していない」として強姦致死罪ではなく、弁護側が主張する強姦罪にとどまるとした。また、「計画性がなく、更生可能性がないとはいえない」と無期懲役とした理由を説明した。判決に対し、被害者の遺族は「4年半、リンゼイのために正義が下される日を待っていた。今日、それに到達できた。とても満足している」とコメントした。
上記の一審判決に対し、弁護側は強く反発。事実認定の誤りと量刑不当を理由に、8月2日に東京高等裁判所に控訴した。弁護団と接見した市橋は「自分の言っていることは事実である。どうして信頼できないと言われるのか」と不満げな様子だったという。
2012年(平成24年)3月15日、東京高裁(飯田喜信裁判長)で控訴審初公判が開かれ、弁護側が殺意を否認し「有期刑(懲役20 - 30年)が妥当」とする旨の弁論を行った一方、検察側は一審の無期懲役判決を維持して控訴を棄却するよう求める陳述を行い、控訴審は即日結審した。
同年4月11日、東京高裁(飯田喜信裁判長)は「被告人に真摯な悔恨が見られない」などとして、弁護側の控訴を棄却(第一審判決を支持)する判決を言い渡した。
同年4月25日の上告期限まで検察・弁護側双方が上告せず、判決が確定。市橋は2023年(令和5年)時点で、長野刑務所に服役していることが報じられている。
他4名
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