T-34/T-34-85(Т-34 テー・トリーッツァチ・チトゥーリィ)は、1939年に開発され第二次世界大戦から冷戦時代にかけてソビエト連邦を中心に使用された中戦車、主力戦車の一つ。
T-34-85 ソミュール戦車博物館展示の戦後チェコ生産型。 | |
性能諸元 | |
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全長 | 8.15 m |
車体長 | 6.10 m |
全幅 | 3.00 m |
全高 | 2.72 m |
重量 | 32 t |
懸架方式 | クリスティー方式 |
速度 | 50 km/h(整地) 30 km/h(不整地) |
行動距離 | 300 km |
主砲 | 54.6口径85mm戦車砲 S-53またはZiS-S-53(56発) |
副武装 | 7.62 mm DT機銃×2(1890発) |
装甲 |
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エンジン | 4ストロークV型12気筒水冷ディーゼル 500 馬力 |
乗員 | 5 名 |
諸元はT-34-85(1944年型)のもの |
1930年代前半に導入されたBTシリーズは、スペイン内戦(1936年~1939年)やノモンハン事件(1939年)の戦訓で機動力は申し分ないが、防御力に問題のあることが浮き彫りとなり、その快速性を受け継ぐ新たな中戦車が求められるようになった。そこで開発されたのがT-34である。
1939年の時点で、ソ連軍で最も数が多かった戦車はT-26軽戦車と、BTシリーズの快速戦車であった。T-26は、動きの遅い歩兵戦車で、戦場の歩兵と同じペースで進軍するように設計されていた。一方、BT戦車は巡航戦車で、敵の歩兵と戦うのではなく敵の戦車と戦うために非常に快速の軽戦車として設計されていた。少数のT-35などの多砲塔戦車も存在したが、いずれも装甲は薄く、小銃・機関銃の射撃に対しては耐弾性があったが、対戦車ライフルや PaK 36 対戦車砲の攻撃には耐えられなかった。いずれも1930年代の初期からソ連が外国の設計を基にして開発したもので、T-26はイギリス製のヴィッカース 6トン戦車、BTはアメリカ人技術者ジョン・W・クリスティーの戦車が原型であった。
1937年、ソ連軍は技師のミハイル・コーシュキンをBT戦車の後継戦車開発チームのリーダーに指名し、その作業はハルキウのハリコフ機関車工場 (KhPZ) で行われた。
A-20型(別名BT-20)と呼ばれた試作戦車は、装甲の厚みを20 mm とし、45 mm 砲 M1934を装備し、ガソリンよりは燃えにくい軽油を用いたV型12気筒の新型エンジンであるV-2ディーゼルエンジンを採用した。また、BT戦車の8×2輪のコンバーチブル・ドライブ(道路を走る場合には履帯を取り外して車輪で走行できる機能)を継承し、A-20では8×6輪のコンバーチブル・ドライブを採用しており、これにより履帯無しでも走行できた(Zheltov 1999)。この特長により、1930年代の信頼性の低い履帯のメンテナンスや修理作業を大幅に削減でき、更に舗装道路上では時速85キロメートルでの走行が可能となったが、戦闘にはあまり役立たない特長であるとも言えた。結局、設計者らは空間と重量の無駄であると考えるようになった(Zaloga & Grandsen 1984:66, 111)。
A-20には、先行する研究(BT-IS および BT-SW-2 計画)から傾斜装甲を取り入れた。A-20は全方向が傾斜装甲で、これは垂直に立ててある装甲板と比べると、徹甲弾を弾いて逸らしやすい。
日ソ国境紛争の1938年7月の張鼓峰事件や1939年のノモンハン事件で、ソ連軍は日本陸軍に対してBT-5、BT-7等多数の戦車を使用した。当時のソ連戦車は、日本軍の対戦車砲である九四式三十七粍砲によって容易に撃破された。従来のソ連戦車は、日本歩兵の火炎瓶攻撃を受けると容易に火災をおこした。当時のソ連戦車はガソリンエンジンを装備しており、被弾でガソリンに引火して火災を起こしやすく、 (Zaloga & Grandsen 1984:111)また車体塗装のペンキは可燃性で、火炎瓶攻撃で引火炎上しやすかった。スペイン内戦においても、共和派に供与されたT-26がフランコ派の火炎瓶攻撃や対戦車砲撃で大きな打撃を被った。さらには、装甲板をリベット留めした部分も脆弱であることが分かった。リベット留めの装甲板は「破砕」(spalling)の問題につながった。これは、敵弾が当たった時、その弾そのもので戦車や乗員を無力化できなかったとしても弾が当たった時の衝撃でリベットや、断裂した装甲板の破片が車内に飛散し乗員を殺傷してしまう現象でもあった。
この戦訓から、赤軍指導部は以後戦車の塗料を不燃性のものとし、装甲板に電気溶接を採用し、ディーゼルエンジンを搭載するようになった。これらの戦訓はT-34開発に生かされることになった。また歩兵支援を重視する守旧派から、独立した戦車部隊の集中運用を主張する、トハチェフスキーやゲオルギー・ジューコフが赤軍内部で主導権を握り、のちの独ソ戦における戦車用兵思想に影響を与えた。
コーシュキン技師は、ソ連の指導者スターリンを説得して別の試作戦車を開発する許可を得た。それはT-26 および BT戦車のいずれの後継戦車にもなりうるようなより重武装・重装甲の「万能戦車」を開発するという計画であった。コーシュキン技師は二番目の試作戦車を、32 mm の前面装甲にちなんでA-32と命名した。A-32には、45 mm 砲 M1938または76.2 mm 砲 L-10を採用し、A-20と同じV-2ディーゼルエンジンを採用した(Zaloga 1994:5)。なお、構造が複雑な割に実用性が低いクリスティー式戦車譲りのコンバーチブル・ドライブは、A-32の時点で廃止されている。
A-20とA-32は、1939年にクビンカで性能試験を受けた。試験の結果は両車とも良好で、より重装備のA-32がA-20と同等の機動性を持っている事が証明された。そして、スターリンの裁定でA-32がT-32として正式採用されることになった。
しかし、冬戦争でもBTシリーズの装甲の脆弱性が問題となり、A-32の装甲を45mmにするとともに、より幅広の履帯が採用された。また備砲を76.2mm砲 L-11に強化することとなった。
この改良試作車A-34の完成を待たずに、1939年12月にはT-34として正式採用された。T-34という名前は、機甲兵力の拡張を命ずる命令が出されてグリゴリー・オルジョニキーゼが戦車生産を率いることとなり、コーシュキンが新型戦車に関するアイデアをまとめ始めた1934年の年号にちなんで、コーシュキンが命名したものである(Zaloga 1994:6)。
コーシュキンのチームは、1940年1月にT-34の試作車を2輌完成させた。T-34は、同年4月と5月にハリコフからモスクワまでの2000キロメートルの走行試験を行って、クレムリンの指導者たちに姿を披露したあと、フィンランドのマンネルハイム線まで行き、ミンスクとキエフを経由してハリコフに戻った(Zaloga 1994:6)。伝動機構(ドライブトレイン)にいくつか欠点が見つかり修正された(Zaloga & Grandsen 1983:6)。軍の司令部からの反対論や、生産コストが高い事についての懸念はフィンランドとの冬戦争において露呈したソ連戦車の性能の低さや、ドイツの電撃戦の有効性を示すことによって克服され、1940年9月に量産第1号の戦車が完成した。ハリコフ機関車工場ではT-26、BTシリーズ、そして多砲塔のT-28中戦車の生産を打ち切り、全ての生産ラインをT-34に変更した。コーシュキンは同月の末に、試験走行により悪化していた肺炎で亡くなった。後任の主任設計技師にはT-34の伝動装置の開発者であるアレクサンドル・モロゾフ技師が指名された。
T-34は、サスペンションには過去の設計の延長としてBTシリーズから引き継いだコイルスプリングを用いたクリスティー式サスペンションを採用していた。駆動部分としては、重量に対して比較的出力の高いエンジンを持ち駆動輪は後輪とし、ソ連の大地に適した幅広の柔軟な履帯を備えていた。履帯が上滑りしたときに巻きもどすしくみはなく、重量がかさむ割に効果の低いコンバーチブル・ドライブは廃止されている。装甲に置いては、優れた傾斜装甲であった。武装については初期型は76.2mm砲を装備しており、しばしばT-34/76と呼ばれる(第二次世界大戦当時のドイツ軍側がこの名称で呼んだのが初出である。)。1944年には2番目の改良型の生産が始まり、これはT-34-85(あるいはT-34/85)と呼ばれる。これは85mm砲を搭載した大きな砲塔を備えている。
T-34が実戦に投入されたのは、1941年7月のバルバロッサ作戦からで、初期の戦闘では乗員の未熟さや、無線設備の不備により連携しての戦闘ができなかったり、トランスミッションを故障させ放棄されたり、性能的に劣っているはずのドイツ軍の戦車や突撃砲に撃破されたりもした。
T-34は、ソ連工業にとって新たなる挑戦だった。T-34の装甲はそれまで作られていた中戦車のどれよりも厚いもので、いくつかの工場で作られた部品を組み合わせて作る必要があった。例えば、V-2エンジンは第75ハリコフディーゼル工場が供給し、レニングラードのキーロフスキー工場(前身はプティロフ工場)が76.2 mm 砲 L-11の原型をつくり、モスクワのダイナモ工場が電気部品を作るといった具合である。当初、T-34は第183ハリコフ機関車工場のみで作られたが、1941年初期からはスターリングラード・トラクター工場がこれに加わり、ドイツが侵攻してきてからしばらく経った7月にはゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)の国営第112クラスノヤ・ソルモヴォ工場でも生産が始まった。この頃は不完全な装甲板が生産される問題があった(Zaloga 1983:6)。新型のV-2エンジンの数が不足したため、国営第112クラスノヤ・ソルモヴォ工場での初期の生産においてはBT戦車にも使われたガソリン式のミクーリン M-17航空機エンジンや、性能の劣った変速機やクラッチを取り付けていた(Zheltov 2001:40-42)。無線機は高価である上に供給量も少なく、中隊長用の戦車にのみ取り付けられた。当初装備されたL-11砲は期待通りの性能を発揮しなかったため、ゴーリキーの第92工場にあったワシリー・グラビン技師の設計チームはより優れたF-34 76mm戦車砲を設計した。官僚たちは生産を認めなかったが、第92工場とハリコフ機関車工場はそれに構わず新型の砲の生産を始めた。前線の部隊からこの新型砲への賞賛の声が届いた後、スターリンのソ連国家防衛委員会から、ようやく新型砲生産の正式な許可が届いたのだった(Zaloga & Grandsen 1984:130)。
ソ連陸軍の保守派からは「旧式のT-26やBT戦車の生産も継続すべき」とか、「より発展したT-34Mの設計が固まるまでT-34の生産は延期すべき」といった政治的な圧力が掛った。こうした政治的圧力は、T-34と競争関係にあったKV-1戦車やIS-2戦車の開発グループが吹聴したものであった(Sewell 1998)。
1941年6月22日、ドイツがソ連を奇襲攻撃したバルバロッサ作戦が開始された(独ソ戦の始まり。)。これを受けてソ連軍は戦車の改良を凍結し、戦車の大量生産に舵を切った。
ドイツ軍の進撃は速かったため、それまでに前例がないほどのスケールと速さで戦車工場をウラル山脈へ疎開させねばならなかった。ハリコフ機関車工場はニジニ・タギルのジェルジンスキー・ウラル貨車工場の近辺に移設されることとなり、第183スターリン・ウラル戦車工場と改称した。キーロフスキー工場は、その一週間前にレニングラードから避難して、ハリコフ・ディーゼル工場と共にチェリャビンスクのスターリン・トラクター工場となり、間もなくチェリャビンスクには「タンコグラード」(戦車の町)という別名が付けられた。レニングラードから避難した第174ヴォロシーロフ戦車工場はウラル工場に吸収されて新たに第174オムスク工場として再出発した。いくつかの小さい工場はエカテリンブルクのオルジョニキーゼ・ウラル重機械工具製作所(UZTM)に吸収された。これらの工場が記録的な速さで移動している間、スターリングラード・トラクター工場周辺の工業地区がT-34の全生産量の内の40パーセントを生産していた(Zaloga & Grandsen 1983:13)。この工場はスターリングラード攻防戦の激戦の中で包囲されてしまい、状況は絶望的になった。物資の不足により生産方法を変更せざるを得ず、塗装されていないT-34が周辺の戦場へ出て行ったとする主張もある(Zaloga & Sarson 1994:23)。スターリングラードの工場は1942年9月まで生産を続けた。
スターリングラードのように生産が妨害された場合は別として、生産現場に許されたのは戦車をより簡単に、より安く作るための変更だけであった。エフゲニー・パトン教授による技術革新などにより、板の溶接および硬化を自動化する方法が開発された。F-34 76mm戦車砲は初期型では部品数が861点あったが、それが614点まで少なくなった(Zaloga & Grandsen 1984:131)。その後の2年間で、戦車の生産コストは1941年時点の26万9500ルーブルから、19万3000ルーブルへ下がり、その後更に13万5000ルーブルにまで抑えられた(Zaloga & Grandsen 1984:131)。そして戦車の生産に要する時間は、熟練工員が戦場に送られて、50パーセントが女性・15パーセントが少年・15パーセントが身体障害者や老人という勤労団が生産を行うという状況にもかかわらず、1942年末までに半分の時間にまで短縮された。それと同時にT-34は、それまでは「美しい外面仕上げで立派に作られた機械であり、西欧やアメリカと並び立つ、あるいは優れている」と言われていたが、この頃になると表面の仕上げは雑になっていた。しかし機械的な信頼性には妥協がなかった(Zaloga & Grandsen 1983:17)。
1942年になって、既に放棄されていたT-34M計画において考えられていた六角形の砲塔を生産に移す事になった。この新型砲塔は砲塔内の窮屈さを解消すると共に、車長が全方向を見渡せるように、車長席にコマンダーズキューポラも付けられる事になった。ゴムの供給量が限られていたため、転輪は鋼鉄製であった。この頃から、改良された5段変速の変速機とエンジン、そして新型クラッチが採用された。
1942年には、長砲身の優れた貫徹力を持つ 75 mm 砲を装備したドイツ軍戦車が戦場に登場した。モロゾフ技師の設計チームはT-34を発展させたT-43戦車の開発を計画した。これは、装甲を更に強化する一方で、トーションバーサスペンションや三人式の砲塔といった最新の特徴を取り入れる狙いを設計に持たせていた。T-43はT-34ばかりでなくKV-1重戦車の代替にもなりうるような万能戦車として計画されたため、KV-1重戦車を開発していたチェリャビンスクの重戦車設計チームによるKV-13計画と真正面から競争する事になった(Zaloga et al. 1997:5)。
1943年になると、ソ連軍は新型のドイツ軍戦車ティーガー戦車やパンター戦車と戦わねばならなくなった。クルスクの戦いにおける経験により、T-34の76.2 mm 砲ではもはや十分に戦えないという報告が前線から届いていた。また、既にあった85 mm 高射砲は新型ドイツ軍戦車にも有効であるという事も分かったので、この砲を戦車に搭載する事になった(Russian Battlefield 1998b)。しかし、より厚くしたT-43試作車の装甲でさえもティーガーの88 mm 砲に対しては十分ではなく、また機動性の面でみても、より重い85 mm 砲を搭載する前の状態であったにもかかわらずT-34の機動性よりも劣っていた。T-43の部品は70パーセント以上がT-34と共通であったが、T-43の生産も並行して行うと、生産の速度はかなり低下する事が予想された(Zaloga et al. 1997:5)。
結局T-43計画は中止される事になり、ソ連の司令部はT-34の新型を製造するように工場を再改装するという難しい決断をした。T-34の新型では砲塔を嵌め込むターレットリングの径を1425mmから1600mmに広げ、より大きな砲塔を取り付けられるようにした。T-43の砲塔の設計をクラスノヤ・ソルモヴォ工場の V.ケリチェフ技師が急遽やり直して、T-34に合うようにした(Zaloga 1984:166)。こうして完成した新型のT-34-85は以前よりはるかに優れた砲を持ち、遂に無線付きの三人式の砲塔となった(無線機はそれまで車体の方にあった)。これにより車長は砲手や装填手の役割を兼務する事から解放され、戦車の指揮に集中できるようになった。もう一つ重要な点はポーランドで戦前に設計され、イギリスでライセンス生産されていたものをコピーしたヴィッカース 戦車用ペリスコープ MK.IV(戦車用の潜望鏡)が砲塔の屋根に取り付けられた事で、これにより車長は全方向の視野を得る事ができるようになった。
T-34は85mm砲を装備したT-34-85になっても依然としてティーガー戦車やパンター戦車に不利な戦いを強いられたが、それでも火力が増したことにより500メートル前後にまで接近出来ればティーガー戦車やパンター戦車に正面から有効打を与えられる様になったため、正面からの撃破がほぼ不可能だったそれまでよりは格段に戦いやすくなった。また、ドイツ軍機甲戦力の実質的な主力であったIV号戦車やIII号突撃砲に対して優位に立った事がそれ以上に大きな意味を持った。ソ連側は最新型の武装を追い求めず、既存の設計を発展させるという決断をした。この事によって、ソ連は性能の差が問題にならなくなる程の、大量の戦車を製造する事が出来た。1944年5月、ドイツ国防軍は東部戦線で304輌のパンターを持っていただけであったのに対し、ソ連は1200輌/月というスピードでT-34-85の数を増やしていったのである (Zaloga et al. 1997:6)。
T-34-85の生産コストは当初、16万4000ルーブルで、これは1943年型より30パーセント高かったが1945年までに14万2000ルーブルまで下がった(Harrison 2002:181)。戦争期間中に、T-34の価格は1941年の27万ルーブルからほぼ半分に下がった(Harrison 2002:181)。しかもこの間、戦車の最高速度は同じまま保たれ、主砲の装甲貫通力と砲塔の前面装甲の厚みはいずれもほぼ2倍になったのである(Zaloga 1984:113, 184, 225)。
1945年末までに、5万7,000輌以上のT-34が作られた。このうち3万4780輌は1940年から1944年に掛けて製造された初期型のT-34で、残りの2万2,559輌は1944年から1945年に掛けて作られたT-34-85である(1998a, 1998b)。
最も生産量の多かったのは当初ハリコフ、その後ニジニ・タギルに移転した第183工場 (KhUTZ) で、1941年から1945年にかけて、T-34とT-34-85を合わせて2万8,952輌製造している。次に多かったのはゴーリキーの第112工場(クラスノエ・ソルモヴォ)で、同時期に1万2,604輌製造している(Michulec & Zientarzewski 2006:220)。戦後の1946年には2701輌が製造され、大規模な生産はそこで打ち切られた。
その後、ポーランド人民共和国やチェコスロバキアで生産が再開され、1956年までの集計でそれぞれ1951~1955年に1,380輌、1951~1958年に3,185輌のT-34-85が製造された。その後、T-54/55やT-72もまたソ連の外で製造された。
1960年代後半には、ソ連のT-34-85は輸出用と予備役用とするために近代化改修を受け(T-34-85M)、T-54/55シリーズのドライブトレインを組み込まれた。この事実もソ連の戦車設計の標準化の水準の高さを示す一つの証拠となるものであった。
T-34は合わせて8万4,070輌が製造されたと推定され、この他にT-34の車台を用いて作られた1万3,170門の自走砲がある(Zaloga & Grandsen 1996:18)。これらの内のいくらかは冷戦下で起こった、朝鮮戦争など世界各地の軍事衝突の中で失われた。
T-34の特徴は、
である。
T-34を調査したドイツ軍は、既存戦車の改良と共に新型戦車(ティーガー、パンター)の開発を促進することになる。特にパンター戦車の設計にはこのT-34の構造が非常に強い影響を与えた。ダイムラー・ベンツ社によるVK3002(DB)はT-34に似たシルエットであったが、実際に採用されたのはT-34の影響はうかがえるものの、大分異なった形状のMAN社製のVK3002(M)であった。
さまざまな部分において当時のドイツ戦車を圧倒していたこの戦車であるが、同時に多くの欠点を有していた。その多くは工作精度と人間工学的な問題である。これはドイツとソ連の技術的な問題と同時に、戦車による地上戦の戦術・思想に対しての差であったといえるであろう。
T-34は非常に高い生産性を誇り、損害を上回る数が次々に戦場へ投入された。
T-34は大戦中だけで3万5,000輌あまり、T-34-85は2万9,480輌が生産され、合計すると6万輌以上に上り、アメリカ軍のM4シャーマンの生産数をも上回る当時世界最多の生産数を誇った。このため生産数だけを見て最優秀戦車であるという意見もある。しかしながら当時のソ連はレンドリースによってアメリカなどから戦車、ジープ、トラックなどの提供を受け、生産力を主力兵器に全て振向けることができた。このことがこの生産数の大きな要因であったといわれる。
第二次世界大戦後、T-34-85はチェコやポーランドでも生産され、共産圏諸国や中東諸国等に輸出された。これら東欧製は1944年型の製造ラインを受け継いで作られたが、表面仕上げや工作精度が大戦中のソ連製より良く、また鋳型が変更されたため砲塔の形状などに微妙な違いが見られる。
1941年6月22日、ドイツは対ソ侵攻作戦、バルバロッサ作戦を開始した。ドイツ軍兵士らは装備の劣ったソ連軍と戦うだけだと考えていたが、1941年夏にT-34が戦場に現れた事により心理的なショックを受けた(T-34ショック)。T-34は当時就役していたドイツ軍戦車のどれよりも優れており、ドイツ軍は当初T-34を撃破するのにかなり苦労した。当時のドイツ軍の標準的な対戦車砲ではT-34の分厚い傾斜装甲には有効打を与えられなかったからである。アルフレート・ヨードルの日記でも、リガにT-34が現れたときは驚いたようである。そのため、T-34はしばしば独ソ戦におけるソ連軍反撃の象徴とされる。。また、現代の歩兵戦闘車のようにT-34の車上にタンクデサントとして歩兵を乗せて移動することがあった。この例はスターリングラードなどで見られる。
1941年はT-34はドイツ軍の全ての戦車と有効に戦う事ができた。しかし新型戦車であるT-34には深刻な問題があった。初期のPomonフィルターにはほとんど防塵効果が無く、塵や砂がエンジンに入り故障させた。変速機とクラッチにも深刻な機械的トラブルが頻発した。1941年夏の戦車の損失の少なくとも半数は、ドイツ軍の攻撃によるものではなく、故障による損失であった(但し、この統計にはT-34以前の古い戦車も含まれている)。修理用の器材が不足したため初期のT-34はエンジンデッキの上にスペアの変速機を積んで戦場に向かうのが珍しい事ではなかった。
1941年から1942年にかけての冬、T-34は泥や雪の中でも埋まらずに移動できる特長を生かしてドイツ軍戦車に対して再び優位に立った。T-34はドイツ軍戦車が移動できないような地形でも移動できたのである。IV号戦車は性能の劣るリーフ式サスペンションと狭い履帯を使っていたため深い泥や雪の中で沈み易かった。
当時のドイツ歩兵部隊は大部分がPaK 36(37ミリ対戦車砲)を装備していたが、これはT-34には効果がなかった。バトル・オブ・フランスでは、PaK 36 は最も薄い部類の装甲以外は何も貫通できず、ただ対戦車砲の位置を敵に知らせるだけでしかなかったため、「ドア・ノッカー」という異名を取ったものだった。東部戦線を戦っていたドイツ軍兵士らはソ連軍戦車と戦うにはこの対戦車砲では力不足であると考え、より大きな牽引式の砲の火力に頼らねばならなかった。例えば、数は少ないが効果的な5.0 cm 砲PaK 38、新型でより強力な7.5 cm 砲PaK 40、88ミリ高射砲などがあるが、88ミリ高射砲は戦場に運び込むのが容易ではなかった。しかしながら、それでもT-34が大きな戦果を挙げるには至らなかった。それはソ連軍の戦車乗員の練度が低く、ソ連軍指揮官の指揮も拙く、またT-34の配置も疎らであったからだった。当時のソ連は戦車戦術の理解度、洗練度の点でドイツ軍より劣っていた。
1942年から1943年にかけて、ソ連軍は1941年の損害を挽回する事を目指し、作戦面でも進歩しつつあった。T-34の生産台数は急増したが、生産能率を上げるための改善が行われただけで、その設計はほぼ「凍結」されたままだった。ソ連の設計者らはいくつかの設計上の欠点を修正する必要性は認識していたが、その改良を行うと生産に要する時間が長くなるため、改良は実施されなかった。1943年、T-34の生産量は平均で1300輌/月に達した。これはドイツの1ヶ月当たりの戦車生産量よりかなり多い。しかしながら、ソ連軍は引き続き作戦面での拙さによりドイツ軍よりもかなり多く戦車を失っていた。
圧倒的な数のT-34が戦場に現れ、重火器の必要性が増したため、ドイツ軍は砲口初速の大きい PaK 40(75ミリ対戦車砲。牽引式と自走式の両方があった)を多数配置するようになり、これらが1943年までの対戦車砲の主力となった。また、遅くとも1942年末頃から1943年中ごろに至るまで、ドイツ軍は強力なティーガー重戦車およびパンター中戦車を配備し始めた。これらの事によって、T-34の改良の必要性もまた高まる事となった。こうしてできたT-34の改良型には二つの主要な形式があった。一つは装甲を強化した1942/43年型で、燃料の容量や信頼性も向上し、砲塔も改良された。もう一つは 85 mm 戦車砲D-5(後にZiS-S-53)を採用した新しい砲塔を持つT-34-85である。T-34-85の火力はそれまでのF-34 76mm戦車砲に比べると大きく向上した。T-34に強く要望されていた攻撃力の強化はこのT-34-85において達成された事になる。
それまでの数年の戦いの中では、ソ連軍の作戦はドイツ軍の作戦に比べると拙かったが、ソ連軍も運用や戦術の技術を高めつつあり、また戦車の数において優位に立っていた事から、損害率は減少していった。1944年初期から登場したT-34-85型は、ドイツ軍のIV号戦車やIII号突撃砲よりも装甲や機動性において優れていたが、パンターの砲や装甲よりは劣っていた。ソ連側の有利な点は、T-34に比べればパンターの台数は遥かに少なく稼動率が低い点であった。従って、練度の高い乗員と戦術的な条件が整えば、T-34-85によってパンターを撃破しえた。
開戦当初、T-34はソ連戦車の内のわずか数パーセントに過ぎなかったが、終戦時までにソ連の膨大な戦車生産台数の少なくとも55パーセントを占めるまでになっている(の図より。Zheltov 2001はより大きな数字を挙げている。)。終戦までにはT-34は旧式の戦車と置き替わり、多くの台数を配備できた。攻撃力や防御力ではパンター、ティーガーらドイツ軍新鋭戦車に劣っていたものの、数で上回る事ができたのである。
1945年8月9日未明、機甲部隊の通過は不可能な地形と日本軍側が考えていた地帯を通ってソ連軍は日本占領下の満州に侵攻した。赤軍の諸兵科連合部隊は完全な奇襲に成功し、古典的な二重包囲戦形の中で、T-34-85、IS-2、IS-3とISU-152を先鋒とする強力な長距離貫入攻撃を展開した。対する日本軍は、既に精鋭部隊を他の戦線に引き抜かれた後で兵力が減少しており、再配備の途上であった。日本軍に残されていた戦車は全て後方に留め置かれ、戦闘には使用されなかった。日本軍は陸軍飛行戦隊、工兵、通信兵からの支援もあまり得られなかった。日本軍はある程度の抵抗は示したが、数と質共に圧倒された。これを受け、昭和天皇は8月14日に降伏を伝達したが、関東軍は8月17日まで正式な停戦命令を受け取っていなかった。
ソ連軍では後継のT-54が1950年に正式採用されるまで、主力戦車であり続けた。T-34-85型などは、第二次世界大戦後もソ連から輸出されて各地で使用された。
例えば、1950年6月の朝鮮戦争における北朝鮮軍の侵攻の先鋒は、約120輌のT-34-85を装備した第105機甲旅団であった。第一次侵攻部隊が韓国に入ってから後も更にT-34が送り込まれた。
T-34はM24軽戦車、M4中戦車、M26パーシング中戦車、M46パットン中戦車と戦ったが、国連軍のセンチュリオン戦車とは、いずれも戦っていない。北朝鮮軍の第105機甲旅団は、戦争初期には韓国軍の歩兵や、アメリカ軍のスミス支隊、M24軽戦車などに対して劇的な勝利をおさめた。アメリカ軍は第二次世界大戦の時代の2.36インチバズーカを依然として使っていたが、これはT-34には無力であった。しかしアメリカ軍のM26中戦車、航空機による地上攻撃、そしてアメリカ軍歩兵がアメリカから急遽空輸された3.5インチ・スーパー・バズーカを使い始めた事などにより、北朝鮮軍のT-34の進撃速度は鈍化した。
共に第二次世界大戦で連合国を代表する存在となったM4中戦車との戦いにおいては、主力となった52口径76.2mm戦車砲M1A2を搭載したM4A3E8(イージーエイト)と59回の戦車戦を戦い、T-34が47輌撃破されたのに対して、M4中戦車の完全損失は10輌(他10輌が損傷したが修理復帰)であり、圧倒されている。他、M26パーシングやM46パットンなども含めた、T-34対アメリカ軍戦車の戦いのキルレシオとしては、T-34が97輌撃破されたのに対してアメリカ軍戦車の損失は34輌(うち半数は修理復帰)であり、アメリカ軍側の圧勝に終わっている。
一連の戦闘で北朝鮮軍が大部分の戦車を失った一方、国連軍側には新しい装備が供給され続け、1950年8月になると形勢は国連軍に有利となった。アメリカ軍による9月15日の仁川上陸作戦によって北朝鮮の補給路が断ち切られ、北朝鮮軍の機甲兵力と歩兵には燃料・弾薬・その他の物資が補給されなくなった。その結果として北朝鮮軍は退却を余儀なくされ、多くのT-34と重火器が放棄された。北朝鮮軍が朝鮮南部から撤退したこの時までに、239輌のT-34と74輌のSU-76が失われた。その後、北朝鮮軍の戦車とは稀にしか出会わなくなった。
フィンランド軍は攻撃してきたソ連軍から鹵獲したものや、ドイツ軍から戦中・戦後にかけて購入したT-34を1960年まで使用していた。それらは光学系などをフィンランドや西側の装備によって改良されていた。
また多くの東欧諸国(後のワルシャワ条約機構)の陸軍でも採用され、1953年6月17日の東ドイツにおける蜂起や1956年のハンガリー動乱の鎮圧に使用された。
T-34は、中東戦争やベトナム戦争、チェコ事件、ソマリア紛争、中越戦争などでも使われ、1974年のキプロス紛争では、キプロス国家守備隊がユーゴスラビアから供給された35輌ほどのT-34-85を装備していた。それは、民主的選挙で劇的にキプロス大統領に選ばれたマカリオス3世(ギリシャ・キプロス合邦運動の中心人物と目されていた)が(ギリシャ軍事政権にとって。)想定外の現実主義的政策を採ったため、ギリシャ(及び西側諸国)との関係が急速に悪化した。孤立化したキプロスは、武器の調達を旧ユーゴスラビアなど旧東側諸国に求め、少量の装備が供与された。T-34もそうした装備の一つであった。しかし、そのマカリオスに対して、皮肉にもギリシャ軍事政権が煽動した1974年7月15日のクーデターにおいてT-34が用いられた。7月20日のトルコ軍のキプロス侵攻においても、これらのT-34が広範囲に活動したのが目撃されており、その内の主な戦いは20日のキオネリやキュレニアの二つの戦いである(Drousiotis 2006)。
冷戦終結後のユーゴスラビア紛争におけるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争等の地域紛争においてもなお使われている。1995年5月、ボスニアにおいてセルビア人のT-34が国際連合保護軍のイギリス陸軍王立工兵(Royal Engineers)第21連隊の前哨を攻撃し、イギリス人兵士を負傷させた。クロアチアはユーゴスラビアから25輌乃至30輌を引き継いだが、既に退役させている。コソボ紛争ではユーゴスラビア陸軍がT-34をNATO空爆に対する囮として使った。又、コソボ解放軍も若干数のT-34を使用していた。
アフガニスタンでもT-34は時々利用されている(T-34が有志連合軍(Coalition Force)に対する攻撃に用いられたかどうかは不明)。イラク軍は1990年代初期までT-34を使用していた。アンゴラやソマリアなどのいくつかのアフリカ諸国においてもT-34-85を近年でも使用している。キューバのT-34-85がアフリカで作戦行動をしているのも目撃されている。
レバノン内戦では、PLOやイスラム教左派民兵組織が主に運用し、さらには一部のキリスト教民兵組織がイスラエルから供給されたM50スーパーシャーマン等と共に使用していた。
21世紀に入っても実働するT-34-85が実戦で使われている例が存在しており、2011年のリビア内戦でも前線で活用されたとの情報が多数入っている[要出典]。
2006年、ハンガリーでのデモ活動で市民側が展示されていたT-34-85を稼働させたという情報もある。
2015年には内戦状態に陥ったイエメンにおいて、T-34-85がSU-100と共に用いられているのが目撃されている。イエメンのT-34-85は、主砲弾に、戦中に使われていた徹甲弾よりも遥かに強力な、戦後開発の3UBK1翼安定成形炸薬弾を使用しており、T-55程度は余裕で貫徹可能であり、こうした新型弾薬を使えば、大戦期の戦車でも十分脅威となる。
2019年1月10日には、ラオス人民軍に配備されていた30両が退役し、ロシアに返還された。
2020年、ロシア陸軍第4親衛戦車師団「カンテミーロフスカヤ」にてT-34-85からなるT-34戦車大隊が設立された。
2022年ロシアのウクライナ侵攻におけるリシチャンシクの戦いでも、公園でモニュメントとして飾られていたT-34-85がウクライナ軍により稼働させられたものの放棄され、ロシア軍に鹵獲されて検問所でかかしとして使用されている。
T-34は、その生産工場の違いと改良により細部の異なる数多くのバリエーションがある。主砲の口径により、T-34-76とT-34-85に大別され、さらに(主に西側の研究家により)主な生産年、製造工場名で細分される。
なお、T-34-76はソ連ではもともと単にT-34と呼称、85 mm 砲搭載型登場後、区別のためにT-34-76と呼称されるようになった。かつて、西側ではT-34/76、T-34/85等と表記するのが普通だったが、ソ連の崩壊以降に公表されているロシア発の資料ではT-34-76、T-34-85等となっている。
形式 | T-34 1940年型 | T-34 1941年型 | T-34 1942年型 | T-34 1943年型 | T-43(試作) | T-34-85 | T-44 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
重量 | 26トン | 26.5トン | 28.5トン | 30.9トン | 34トン | 32トン | 31.9トン |
主砲 | 76.2 mm L-11 | 76.2 mm F-34 | 85 mm ZiS-S-53 | ||||
搭載弾数 | 76発 | 77発 | 77発 | 100発 | 60発 | 58発 | |
燃料 | 460リットル | 460リットル | 610リットル | 790リットル | 810リットル | 642リットル | |
航続距離 | 300 km | 400 km | 400 km | 465 km | 300 km | 340 km | 300 km |
装甲 | 15 – 45 mm | 20 – 52 mm | 20 – 65 mm | 20 – 70 mm | 16 – 90 mm | 20 – 90 mm | 15 – 120 mm |
生産コスト | 27万 ルーブル | 19万3,000 ルーブル | 13万5,000 ルーブル | 16万4,000 ルーブル |
その形状から、「ピロシキ」と呼ばれた背の低い1940/41年型砲塔は当初は圧延鋼板の溶接型のみであったが、直に量産性の優れた鋳造製砲塔が並行生産されるようになった。当時、ソ連は大型部品の鋳造技術ではドイツを大きく上回っており、以後のT-34改良型やIS-2などに積極的に鋳造製砲塔を採用した。
しかし鋳造装甲は製法上、同じ厚さの圧延鍛造装甲より一割ほど強度が劣り、鋳造砲塔に被弾すると、割れることも少なくなかった。また大戦中の粗製濫造のため鋳巣(空洞)が装甲の中に発生し、更に強度を落としていた例もある。このため、当時の乗員は「鋳造砲塔は37 mm 高射機関砲弾程度の被弾ですら安全ではなかったと」証言している。一方、圧延鍛造の傾斜装甲を採用している車体前面装甲は乗員達から多くの信頼を得ている。
1942年型以降では「チェリャビンスク砲塔」と呼ばれる六角形状の新型砲塔が使用された。この砲塔は試作戦車T-34Mの砲塔を元に設計され、鋳造製の外周部と圧延鋼板からなる天板を組み合わせた構造をしていた。また、「チェリャビンスク砲塔」に似た形状であるものの、外周部と上面との間に継ぎ目なく、一体に成型された「フォルモチカ」と呼ばれる砲塔がウラルマシ(国営第9ウラル重機械工具製造所、UZTM)で生産されていた。
「フォルモチカ」砲塔に関しては、昔からの鋳造一体成型説とプレス機での熱間鍛造説があった。後者は1994年にスティーヴン・ザロガの著書により発表された。当初は 5000トンフォージングプレス機を用いたとされたが、側面で52 mm もある装甲の成型は不可能と指摘され、ザロガも翌年、1万トンプレス機であると訂正した。しかし、当時ソ連に存在しない 2万トンプレスでないと不可能とする異論、また現代のプレス業者から見ても不合理な工程であるとの意見もあり、未だ真相はハッキリしていない。一説では52 mm厚というのは鋳造製ナット型砲塔での数値であり、実際にはより薄い25~30 mm程度の鋼板をプレスしたもので、ウラジオストックで記念碑として展示されている砲塔 [2] のように、薄い装甲が主砲発射の反動に耐えられず、次第に下端部に特徴的なたわみが発生するのではないか、と言われている。一方、他所でもこの砲塔にキューポラ付きのT-34 [3] が展示されているが、こちらには下端部のたわみ具合が小さい。
ドイツ軍でも独自に1940年型をT-34A、1941年型をT-34B、1941年戦時簡易型をT-34C、1942年型をT-34D、1943年型をT-34E、そして1942年型で砲塔上面まで一体成型されたタイプをT-34Fと分類した。もっとも、前述の通りソ連では76.2 mm 砲搭載型の全てが単に"T-34"であり、細かい分類はされなかった。またソ連軍が新型戦車を開発していることを知ったドイツ軍は、新たに現れたT-34-85を誤って(別の戦車である)T-43と呼んだ。
ドイツ軍は鹵獲したT-34をPanzerkampfwagen T-34 747(r)と名づけ使用した(「Panzerkampfwagen」を「PzKpfw」と略記する場合もある)[4]。そのまま使用しただけでなく、車長用キューポラやサイドスカートを増設したり、対空戦車などにも改造して使用した例もあった。
大戦中にもT-34M、T-43(この二種の戦車は全くの別物だが、古い資料では混同されている)といった装甲強化型の試作が行われたが、それ以上に火力の増強が必要とされて却下され、代わってT-34-85や後継戦車として開発されたT-44が生産された。
ソ連では派生車として、下記の自走砲他が生産されている(形式番号は搭載火砲の口径を示している)。SU-85やSU-100は対戦車戦闘を目した駆逐戦車の性格が強いが、ソ連ではまとめてSU(СУ)=自走砲と分類されている。
戦後、エジプト、シリアなどでも、ソ連製やチェコ製のT-34-85を独自に自走砲や対空自走砲を改造し、製作、使用した。
なお、大戦中のソ連軍にも、T-34-85をベースに砲塔形状その他を改め、試験的に100 mm 戦車砲を搭載した「T-34-100」が存在する。また、1942年にU-12 122mm榴弾砲を搭載した車両が計画・試作され、これは「T-34Г(T-34G)」もしくは「T-34щ(T-34Sh)」の名称で計画されたが、“T-34-122”と通称されていた。
独ソ戦によるドイツ軍のソ連領内侵攻で、工場は大規模な疎開を行って生産を続けることとなった。これら数カ所あった工場によって砲塔、車体の構成などが異なることがわかっている。
第二次世界大戦後、「友好国」に生産ラインの設備が譲渡され、ライセンス生産もおこなわれている。
なお、59式戦車の完成後は59式用の装備品が58式戦車にも追加で装備され、サーチライトとその架台、新型の照準器などが装着されている。それらの改修車両は西側の分類では“Type58-IIM”と呼称されている。
これらの他、T-34-Tがソ連より供与、及び購入されて使用されており、58式戦車の一部も同様の戦車回収車に改装されて使用された。
T-34は大量に生産されたため、半世紀を経た現在でも数百輛程度が現存している。第三世界の軍において第二線級の兵器として保管されている車両(主にT-34-85)は、21世紀に入った現在でも数多くあると見られている。
2010年のモスクワにおけるロシア対ナチス・ドイツ戦勝65周年パレードでは現存するT-34やSU-100などがパレードに自走参加した。2015年10月に北朝鮮の平壌で開催された朝鮮労働党70週年記念の軍事パレードでも、起動輪と履帯をT-54/55のものに換装したT-34-85の近代化改修型が参加している。
より古いT-34-76に関しては、現存する有名なものとしてはアメリカ・メリーランド州アバディーンのアメリカ陸軍兵器博物館が所蔵する1941年型のT-34がある。これは旧西側に現存する車輛としては最古級のものだった。更に古い76mm L-11砲を搭載した1940年型のT-34は、ロシア、ベラルーシに少なくとも各1輌、1941年型および1941年戦時簡易型は最近になって昔の戦場から回収されたものを含め少なくとも10輌以上が現存する。フランスのソミュールにある「Musée des Blindés(ソミュール戦車博物館)」では2輛のT-34を保有しており、その内の一輛は完全に稼働する状態で、それは夏の「Carrousel」戦車走行展示会において、走行する様子を展示される。フィンランドが継続戦争中に鹵獲した1941年型(Ps.231-1)も走行可能な状態となっている。ナット砲塔を搭載した1942年型・1943年型はさらに多く、走行可能状態までレストアされたものも多い。
T-34の耐久性は、最近の修復作業においても示された。エストニアで56年間にわたって沼の底にあった1943年型のT-34が、2000年に復活した。その戦車はドイツ軍によって鹵獲され、退却中のドイツ軍が使用したが、その燃料が切れた所でドイツ軍が沼の中へ投棄したものであった。油漏れ・錆・その他水による機械系統への損傷の徴候は見られなかった。エンジンは完全に稼働する状態に回復した。
2019年1月10日にはラオスで稼働状態だった30輌のT-34/85が退役し、協定によりロシアに返還されると報じられた。戦後にチェコスロバキアで生産・輸出された型式でベトナムに納入後、ラオスに引き渡された物という。ロシアでは博物館展示のほか、戦争映画や軍事パレードで用いられる予定。その後2020年6月24日にロシアの戦勝記念パレードで自走する大量のT-34-85が各メディアで報道された。 2023年5月のモスクワで行われたパレードには、この内の1輌のみが、本パレード唯一の戦車として登場したと報道されており、未確認ながらT-34-85がウクライナへの軍事侵攻に使用されている可能性が示されている(一方、他の地域でのパレードには複数の戦車が登場したという報道もあり、本当にロシアがT-34-85をウクライナに出撃させているのかについては不明な点が多い)。
T-34の各型は、世界各地の軍事博物館で収蔵品として展示されている他、100輛以上が戦争記念のモニュメントとして展示されている。コレクターやマニアの私有物として保有されている車両もあり、非武装化されて運転可能な状態の戦車は、2万から4万米ドルの間で取引されている。
その他に、民間で主に映画製作に使用されているものもある。第二次世界大戦を題材とした多くの映画(例えば『ネレトバの戦い』『戦略大作戦』『誓いの休暇』『プライベート・ライアン』など)では、T-34-85戦車をティーガーI戦車に見えるように改装して使用した。これは実働するティーガーIを撮影用に用いることが難しかったためである。
これらの改造ティーガーは改造の度合いにもよるが、ティーガーIにそれなりに似ている。しかし車体の幅の狭さ、砲塔の位置(T-34の砲塔は車体のかなり前寄りにある。)、転輪や履帯の形状などから見分けられる。
別の有名な例として、マンデラ・ウェイのT-34戦車がある。これは個人所有のT-34-85で、それが置かれている通りの名にちなんで、こう呼ばれている。マンデラ・ウェイはロンドンのBermondsey近くにある。このT-34は画家や落書き芸術家たちによって、頻繁に塗り変えられている。
T-34は、第二次世界大戦におけるソ連軍の主力戦車の1つであり、第二次世界大戦を扱った作品には頻繁に登場している。
T-34は現存車両が多いこともあり、第二次世界大戦を扱った戦争映画には数多く登場する。ソ連軍の戦車としての他に、外観はそのままにドイツ軍の国籍標識を描かれて「ドイツ戦車」として登場する例も多い。「現存する車輛」の項で述べたように、大改造を施されてティーガーIその他のドイツ戦車を模した外観に改装されて登場している例もある。
これらの作品以外にもT-34の登場する映像作品は多い。
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