M4中戦車(M4ちゅうせんしゃ、Medium Tank M4)は、第二次世界大戦時にアメリカ合衆国で開発・製造された中戦車(30トン級)。通称はシャーマン (Sherman)。高い機動力と火力を誇るアメリカの代表的な戦車である。
M4A1E8 | |
性能諸元 | |
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車体長 | 5.84 m (19.2 ft) |
全幅 | 2.62 m (8 ft 7 in) |
全高 | 2.67 m (8 ft 9 in) |
重量 | 30.3 t |
懸架方式 | VVSS(垂直渦巻きスプリングサスペンション)M4A2E8などのT84履帯を使用する車体はHVSS(水平渦巻きスプリングサスペンション) |
速度 | 38.6 km/h(整地) 19.3 km/h(不整地) |
行動距離 | 193 km |
主砲 | 37.5口径75mm戦車砲M3(90発) 52口径76.2mm戦車砲M1(71発) 22.5口径105mm榴弾砲M4(66発) |
副武装 | 12.7mm重機関銃M2×1(600発) 7.62mm機関銃M1919×2(6,250発) |
装甲 |
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エンジン | コンチネンタル R975 C4 4ストローク星型 9気筒空冷ガソリン 400 HP |
乗員 | 5 名 |
総生産数 約50,000輌 |
第二次世界大戦が勃発した1939年、アメリカ陸軍は戦車保有数が少なく、唯一の中戦車M2中戦車も時代遅れで、陸上戦力には不安があった。これは、アメリカがヨーロッパから大西洋を隔てていた事や、当初は中立的な立場(孤立主義)を採っていた事にも起因するが、ナチス・ドイツにより欧州の連合国が次々と陥落し、さらに東南アジアに進出した日本との関係悪化などから、1940年頃には連合各国へのレンドリース法を適用した支援やアメリカ自身の参戦に備えて、全周旋回砲塔に大型砲を搭載した戦車が必要と認識された。しかし、当時のアメリカでは大直径の砲塔リングを量産できる体制がなかったことから、M4が開発されるまでの繋ぎとして車体に75mm砲搭載のM3中戦車(25トン級)が先行生産された。
その後、M3のシャーシをベースに75mm砲を搭載した大型砲塔を持つ新戦車T6の開発と同時に、航空・自動車産業を中心に生産体制の整備が急ピッチで行われた。1941年10月にM4中戦車として制式採用されたが、鋳造生産能力の不足からT6と同じ鋳造一体構造の上部車体を持つM4A1と鋼板溶接車体のM4とが同時に量産される事になり、M4A1はアメリカ参戦直後の1942年2月から量産が開始され、M4は1942年7月から量産が開始された。
車体前部左右に正操縦席と副操縦席兼前方機関銃座が設けられている。砲塔内には車長・砲手・装填手の3名が搭乗。砲塔上面ハッチは車長用のみ設置されたが、左側に砲手・装填手用ハッチが追加され、車長用ハッチは防弾窓付きキューポラに発展した。左側面に設けられた対歩兵射撃用の開閉式ガンポートは防御力向上のために一時廃止されたが、弾薬搬入や薬莢搬出に便利だったことから短期間で復活している。車体下部には脱出ハッチが設けられている。
履帯は、全金属製の物とゴムブロックを含む物とに大別され、さらに滑り止めパターンの形状の違いなどで多くの種類がある。
初期の圧延装甲溶接車体の前面は避弾経始を考慮して(垂直線から)56度の傾斜が付けられ、操縦席・副操縦士席部分が前方へ張り出した構造になっていたが、後に生産性の向上と車内容積の増加(76mm砲塔や湿式弾薬庫搭載のため)などの目的で、(垂直線から)傾斜角47度の一枚板に変更されており、併せてA1の鋳造車体も含めて操縦士用ハッチの大型化が行われた。これらは一般的に「前期型」「後期型」と呼ばれているが、これらの改良も各生産拠点による差異や現地改修などにより千差万別であり、車体分類なども後世の研究によるもので定まっていない。
砲架は75㎜砲搭載型の場合は、回転防楯とも呼ばれる搭載砲の仰俯角時に砲と一緒に動く外装防楯と、砲塔に固定される内装防楯からなっており、それぞれが湾曲し重なり合っていた。外装防楯は88.9㎜の装甲厚があり、内装防楯は38.1㎜の厚みがあった。
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後部のエンジンからドライブシャフトで最前部の変速機に動力を伝える、M3を踏襲した前輪駆動型式を採用し、航空機用である星型エンジンの使用を前提とした設計のために、エンジンデッキとドライブシャフトの位置が高くなっている。
サスペンションは、前期型ではM3と同形式のVVSSが採用されたが、強化対策による重量増加に対応するため、後期型ではより耐久性の高いHVSSが採用された。
無線機は砲塔後部の張り出しに納められていたが、送信機・受信機の両方を備えていたのは指揮官用戦車など全体の四割にすぎず、他は受信機のみであった。全車が送信機も完備するようになったのは1944年後半になってからであった。
主砲は当初75mm戦車砲M3(M61弾で初速619m/s)と105mm榴弾砲M4(M67弾で初速381m/s)の搭載が構想されていたが生産簡略化ため75mm戦車砲M3のみに絞られ、105mm榴弾砲の搭載は後回しにされている。
次いで76mm戦車砲M1(口径3インチ=76.2mm、M62弾で初速792m/s)を搭載した車輌も生産された。開発自体は1942年から行われていたが、実戦配備は1944年になってからであった。76.2mm砲は75mm砲に比べて装甲貫徹力に優れていたが、砲弾が長く搭載数が少なくなったこと(71発)、発射時の砲煙が多いこと、榴弾の炸薬量が75mm砲より少ないなどの欠点もあることから、それぞれの砲を搭載した車輌が並行生産された。大型化した76.2mm用砲塔は、75mm用砲塔と共通の砲塔リングであるが、前期型車体では搭載スペースが不十分なため、前面装甲板の一体化などで車内容積が増えた後期改良型車体にのみ載せられていた。砲身を含むと全長が7.47メートルとなる。
当初、75mm砲型と平行して生産することを構想されていた105mm砲型は、生産簡略化及び砲架の不具合などの理由により、その生産開始は1944年となった。この搭載された105mm砲は、105mm榴弾砲M2を車載用に改造したものであり、105mm榴弾砲M4と呼ばれた。使用弾薬には、榴弾であるM1や発煙弾のM84の他、対戦車戦闘用の成形炸薬弾のM67などがある。(この成形炸薬弾は距離にかかわらず、約100mmの垂直装甲板を貫通する性能があった)このタイプの欠点として、弾薬のサイズが車内の広さに対し少々過大気味であり、装弾数も76.2mm砲搭載型よりも少なかった。
イギリス軍では75mm砲搭載型を無記号、76.2mm砲型をA、105mm砲型をB、17ポンド砲型をCと分類していた。シャーマンICは、シャーマンI(M4)ベースのファイアフライ、シャーマンIIIAはM4A2ベースの76.2mm砲型ということになる。また、イスラエル国防軍では、車体に関係なく搭載火砲の種別のみで、M1、M3、M4と分類していた(これはM50/M51スーパーシャーマンも同様である)。
名称 | 主砲 | 車体 | エンジン |
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M4(75) | 75 mm | 溶接車体 | コンチネンタルR-975 星型ガソリン |
M4(105) | 105 mm 榴弾砲 | ||
M4 コンポジット | 75 mm | 前面が鋳造、後部は溶接 | |
M4A1(75) | 鋳造車体 | ||
M4A1(76)W | 76 mm | ||
M4A2(75) | 75 mm | 溶接車体 | GM6046 複列12気筒ディーゼル |
M4A2(76)W | 76 mm | ||
M4A3(75)W | 75 mm | フォード GAA V型8気筒ガソリン | |
M4A3(76)W | 76 mm | ||
M4A3(105)W | 105 mm榴弾砲 | ||
M4A3E2 | 75 mm | ||
M4A4 | 75 mm | 溶接車体(延長) | クライスラー A57 直列6気筒×5 複列ガソリン |
M4A6 | 前面が鋳造、後部は溶接(延長) | キャタピラー D200A 星型ディーゼル |
76mm戦車砲M1がタングステン鋼芯入りの高速徹甲弾(HVAP)M93を用いた場合は、ドイツ軍88mm砲並みの貫徹力(距離914m、30°で135mm)だが砲身寿命が半減する。加えて発射時の反動が大きいため砲口にマズルブレーキが追加された。この砲弾は、1944年8月から前線に支給されるようになったが、月産10,000発しか製造できなかったので、M10駆逐戦車などに優先して供給され、シャーマンへの供給は十分では無く、バルジの戦いの頃においても、シャーマンには常時1~2発程度の支給に留まった。後の朝鮮戦争では十分に供給され、T-34を撃破する威力を見せた。
なお、被帽付徹甲弾であるM62弾を用いた場合は、距離500mで116mm厚の装甲を、1000mでは106mmの装甲を貫通できたが、実戦においてはドイツ軍戦車であるパンターの防盾を打ち抜く場合は180mの距離まで接近する必要性があった。M93弾の場合は730m~910mの距離でパンターの防盾を貫通できた。しかし、いずれも車体正面は貫通不可能であった。
ドイツ軍はパンターなどの自軍戦車の強みである、強力な戦車砲と厚い装甲を活かした長距離での戦闘を望み、戦車兵に1,800mから2,000mでの戦闘を指示したが、ドイツ軍の想定通りの距離での戦闘とはならず、アメリカ軍がドイツ軍の戦車を撃破した平均距離は893mに対しドイツ軍がアメリカ軍の戦車を撃破した距離は946mであり、自軍戦車の強みを十分に活かすことはできなかった。これはパンターが関係した戦闘でも同じであり、パンターが直面した平均交戦距離は850mで、1,400mから1,750mのドイツ軍が望んだ長距離での戦闘はわずか5%、それより長い距離の戦闘は殆どなく、結果的に多くのパンターがシャーマンに撃破されて、76.2mm砲と高速徹甲弾はシャーマンの対戦車能力を大きく向上させることとなった。
副武装に、1挺の12.7mm機銃、2挺の7.62mm機銃を搭載する。しかしイギリス軍の車輌では12.7mm機銃を装備していない物が大半である。M4A1とA2の極初期型には、M3中戦車のように車体前方に2挺の7.62mm固定機銃が付いていたが、すぐに廃止された。
部位 | 距離 | 備考 |
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防楯 | 100 m | 戦車が飛翔している徹甲弾に対し30度の角度をとった場合を想定。 |
砲塔正面 | 1,000 m | |
車体正面上部 | 0 m | |
車体正面下部 | 1,300 m |
ドイツ軍兵器局が1944年10月5日に作成した資料によると、IV号戦車やIV号突撃砲などに搭載された7.5cm48口径戦車砲を使用した場合、車体正面下部は1300m、砲塔正面は1000mで撃破可能としているものの、車体正面上部(傾斜部分)は貫通不可能であり、防楯(砲身付近)は100m以内に接近しなければ貫通できないと分析している。
主砲弾薬庫は前期型車体では左右袖部(スポンソン)に設けられていたため、敵弾貫通時に破れた薬莢から漏れ出た装薬に引火、火災がM4の撃破原因の60-80%という高い割合を占めていた。あまりにM4が激しく炎上するため、アメリカ軍やイギリス軍の戦車兵の中ではM4のことを「ジッポー」や「ロンソン」(いずれも有名なライターのこと)と呼んだり、また敵のドイツ兵は「トミー・クッカー」(トミーはイギリス兵の俗称、クッカーは野戦調理用の固形燃料缶のことで、イギリス兵調理器という揶揄)と呼んでいたという。M4が炎上し易かったのは、ガソリンエンジンを搭載したためという誤解もあるが、実際には前述の通り被弾しやすい位置に弾薬庫があったことが原因であった。
応急対策として、弾薬箱の位置の車体側面に補助装甲板が溶接された。後期改良型車体では全体を不凍液(グリセリン溶液)で満たして引火を防ぐ湿式弾薬庫を床下に設置(湿式弾薬庫搭載型は末尾にWaterの略である「W」が付けられている)されて、火災の発生率は約10-15%と大きく低下した。これにより、前期型車体では装填手が砲塔バスケットのフロアに立っていたのが、後期型車体では床下から砲弾を取り出すのに邪魔な足元のフロアが無くなり、砲塔旋回の際には自力で動いてついていかなくてはならなくなった。また、これとは別に、イギリス軍はシャーマン ファイアフライの改造時にスポンソン上の弾薬箱を撤去し、床上や副操縦席のあった場所に装甲弾薬箱を新設している。
また、前線では予備の履帯や転輪、土嚢を増加装甲代わりに積載したり、コンクリートを厚く塗布するなど、追加防御策が行われている。多くは調達や交換が容易で、パンツァーファウストの成型炸薬弾対策にもなる土嚢が用いられた。しかし、この効果に対しては賛否両論あり、逆に貫徹力を高める間合い(スタンドオフ)を作ってしまうという意見が出る反面、実戦で効果があったと主張する者もいた。パットン将軍は、「軍人の所業らしくない」とこれを嫌って土嚢装甲を禁止し、麾下のアメリカ第3軍では撃破された友軍やドイツ軍の戦車の車体から切り出した鋼板を貼り付けていた。
アメリカ海兵隊においては、太平洋戦線で日本軍の速射砲に側面や後面を狙い打たれて撃破されるM4が続出したこともあり、現地で鉄板やコンクリートや木材など手に入る材料は何でも増加装甲代わりに装着した。
戦後、イスラエル国防軍が独自改良を行ったM50/M51スーパーシャーマンでは、火力はフランス製のAMX-13用75mm砲やAMX-30用105mm砲の装備により一線級を保っていたのに対し、装甲防御力については重量的限界からほとんど対策されないままであった。
第二次世界大戦の連合国の主力戦車で、アメリカの高い工業力で大量生産された。生産に携わった主要企業は11社にも及び、1945年までに全車種で49,234輌を生産した。各生産拠点に適したエンジン形式や生産方法を採る形で並行生産させたため、多くのバリエーションを持つが、構成部品を統一して互換性を持たせることにより高い信頼性や良好な運用効率が保たれていた。
M4が最初に戦闘に投入されたのは、北アフリカ戦線のエル・アラメインの戦いであった。ガザラの戦いでトブルク要塞を失ったイギリス首相ウィンストン・チャーチルが、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに第2回ワシントン会談の席でレンドリースを直談判し実現したものであった。このときにはまだM4の生産が軌道にのったばかりで、完成していた300輌は既にアメリカ軍の戦車師団に配備されていたが、ルーズベルトの政治的判断で、そのM4中戦車300輌をそのままイギリスに供与することとなった。さらにM101 105mm榴弾砲をM4中戦車の車体に搭載したM7自走砲100輌の供与も決定された。ドイツの情報機関もアメリカ製の新型戦車が、輸送艦に搭載されて北アフリカに向かっているという情報を掴んでおり、その性能の分析に躍起となっていたが、その分析資料となったのが、エジプトカイロで入手した南アフリカ軍の雑誌で、その雑誌に掲載されていたクリスマスカードの広告にM4の写真が使われており、ドイツ軍の情報機関はこの写真から主砲の口径などを類推している。
M4中戦車の初陣は1942年10月23日から開始された第二次エル・アラメインの戦いとなった。作戦開始時にイギリス第8軍(司令官:バーナード・モントゴメリー中将)は1,200輌の戦車を有していたが、そのうち500輌がアメリカから供与されたM4とM3中戦車であった。エルアラメインに送られたM4は初期型のM4A1、M4A2であったが、作戦開始早々から猛威を振るい、ドイツアフリカ軍団主力戦車50mm 60口径砲搭載のIII号戦車を圧倒し、これまで散々イギリス軍戦車を苦しめてきた88mm砲も、今までのイギリス軍戦車にはなかった破壊力の75㎜榴弾で次々と撃破していった。
それでもアフリカ装甲軍司令官エルヴィン・ロンメル元帥はM4を“重戦車”と呼んで警戒し、その対策としてドイツ軍の兵器で唯一M4に対抗可能な8.8 cm FlaKをかき集めて、なるべく集中運用して対抗しようとしたが、モントゴメリーは、クルセーダー巡航戦車やバレンタイン歩兵戦車など従来のイギリス軍戦車を先行させ、M4を後方に控えさせて、ドイツ軍が先行しているイギリス製戦車に砲撃を開始すると、上空から偵察しているイギリス空軍偵察機がドイツ軍火点を特定し、M4が2,500mもの長距離から無尽蔵の弾薬で弾幕を張るという対策をとった。この距離では8.8 cm FlaKでもM4の前面装甲を貫通するのは困難であったが、M4の75㎜砲はドイツ軍兵器の全てを撃破することが可能であり、戦車も陣地も歩兵も全て覆滅されていった。こうしてエル・アラメインの勝利の立役者となったM4はドイツ兵にとって恐怖の的となり、これまでロンメルの指揮の下で高い戦意で戦ってきたドイツ兵は、ドイツ軍戦車と比較すると高い砲塔を見る度に戦意を失っていたという。
M4を巧みに運用して勝利を重ねていたイギリス軍に対し、トーチ作戦で北アフリカ戦線に参戦したアメリカ軍は、アメリカ軍戦車兵が戦車戦に不慣れなこともあって苦戦しており、カセリーヌ峠の戦いではドイツ軍がティーガーIを有していたこともあって、M3中戦車、M3軽戦車も含めて183輌の戦車を失っている。その後のアメリカ軍はティーガーIの脅威を知ると共に、ソ連からV号戦車パンターの情報を仕入れていたが、どちらの戦車も接触頻度が稀であったので、少数が配備される重戦車であると誤った認識をして、既に決定していた76.2㎜砲を搭載する以上の対策をとることはなかった。一方で、イギリス軍はM4の対戦車能力向上のため、アメリカ軍の76.2mm砲よりは強力な17ポンド(76.2mm)対戦車砲を搭載したシャーマン ファイアフライの開発を行っている。
アメリカ軍の分析とは異なり、ノルマンディー上陸作戦からのフランスでの戦いで、M4とパンターやティーガーIとの交戦頻度は高く、75mm砲搭載型はおろか76.2mm砲搭載型も非力さが明らかになった。東部戦線で経験を積んだ一部のドイツの戦車エースたちの活躍もあって、M4がドイツ軍戦車に一方的に撃破されたという印象も強く、とくにエルンスト・バルクマン親衛隊軍曹はパンターに乗って多数のM4を撃破したとされている。バルクマンの有名な逸話は、1944年7月27日にサン=ローからクータンセへ続く街道の曲がり角のところで、アメリカ軍のM4隊と交戦し、たった1輌で9輌のM4を撃破してアメリカ軍の進撃を足止めしたとされる、のちに『バルクマンコーナー』と称された活躍談であった。このような一部の限られた活躍談をもって、大戦中のアメリカ軍の証言では、1台のパンターに5台のM4で戦わなければならない、と徹底されていたと主張する者もいるが、それは単に大戦時のアメリカの戦車小隊が5両から編成されているからに過ぎない。また、『バルクマンコーナー』でのバルクマンの活躍談も、歴史研究家で多くの戦車戦記での著作があるスティーヴン・ザロガの調査によれば、アメリカ軍に該当する戦闘記録がないことが判明し、ドイツ軍のプロパガンダではなかったかとの指摘もある。
限られた活躍談での印象とは異なり、M4はパンターを相手にしても善戦している。ノルマンディの戦いにおけるサン マンヴュー ノレの攻防戦では、進撃してきた第12SS装甲師団のパンター12輛を、第2カナダ機甲旅団の9輛のM4シャーマン(一部がシャーマン ファイアフライ)が迎撃し、一方的にパンター7輛を撃破して撃退している。アラクールの戦いにおいては、アメリカ軍第4機甲師団がドイツ軍第5装甲軍に大損害を与えて勝利したが、なかでもクレイトン・エイブラムス中佐率いる第37戦車大隊は多数のパンターを撃破しており、1944年9月19日の戦闘では、巧みに地形を利用したM4シャーマンによって、待ち伏せ攻撃や追撃で11輌ものパンターを撃破して撃退している。第37戦車大隊は、アラクールの戦いで55輌のティーガーIとパンターを撃破して連合軍の勝利に貢献した。
アメリカ軍はパンターやティーガーIへの対策として、新型の高速徹甲弾の生産を強化した。この徹甲弾は、M4戦車隊に十分な量は行き届かなかったが、500mで208mmの垂直鋼板貫通力を示し、76.2mm砲搭載型M4の強力な武器となった。また、M4は信頼性・生産性など工業製品としての完成度は高く、大量の補充と整備性の良さ、高い稼働率によって、高価すぎて且つ複雑な構造のドイツ軍戦車を総合力で圧倒するようになり、ドイツ軍戦車兵が大量の消耗により次第に質が低下していったのに対して、アメリカ軍は熟練した戦車兵が増えて、M4がパンターを圧倒する戦闘も増えている。バルジの戦いにおいて、1944年12月24日に、フレヌーに接近してきた第2装甲師団第2戦車連隊第2戦車中隊のアルフレッドハーゲシェイマー親衛隊大尉とフリッツ・ランガンケ親衛隊少尉が率いる11輌のパンターG型を、第3機甲師団第32機甲旅団D中隊のM4シャーマン2輌が迎えうって、遠距離砲撃で6輌撃破し、2輌を損傷させて一旦撃退している。その後、ハーゲシェイマー隊は残った3輌のパンターで再度フレヌーを目指し、途中で接触したM5軽戦車1輌を撃破したものの、またM4シャーマンからの砲撃で1輌を撃破され、ハーゲシェイマー車も命中弾を受けて損傷している。一旦退却したドイツの戦車エースの1人でもあったランガンケは、命中弾を受けて自身のパンターが損傷していたため、フレヌー付近の森の中のくぼ地に身を潜めていたが、その後、監視任務からフレヌーに無警戒で帰還してきた他の部隊のM4シャーマン4輌を撃破して一矢報いている。翌12月25日にもノヴィルを巡る戦いにおいても、M4シャーマンがわずか45分間の間に、一方的にパンターG型を6輌撃破して、ドイツ軍の攻撃を撃退している。
バルジの戦いにおいて、最初の2週間でM4シャーマンはあらゆる原因によって320輌を喪失していたが、1,085輌が前線にあり、うち980輌が稼働状態とその抜群の信頼性を誇示していたのに対して、投入された415輌のパンターは、2週間で180輌が撃破され、残り235輌もまともに稼働していたのは45%の約100輌といった有様だった。結局は、正面からの撃ち合いではパンターに分があったが、生産性、整備性、耐久力などすべてを比較すると、M4シャーマンの方が優れていたという評価もある。1944年8月から1944年12月のバルジの戦いまでの間の、アメリカ軍の第3機甲師団と第4機甲師団の統計によれば、全98回の戦車戦のなかでパンターとM4シャーマンのみが直接戦った戦闘は29回であったが、その結果は下記の通りであった。
攻守 | 交戦数 | 交戦したM4の数 | 撃破されたM4の数 | 交戦したパンターの数 | 撃破したパンターの数 |
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攻撃 | 9回 | 68輌 | 10輌 | 47輌 | 13輌 |
防御 | 20回 | 115輌 | 6輌 | 98輌 | 59輌 |
合計 | 29回 | 183輌 | 16輌 | 145輌 | 72輌 |
29回を平均して、M4シャーマンの数的優勢は1.2倍に過ぎなかったにもかかわらず、M4シャーマンの有用性はパンターの3.6倍で、特にM4シャーマンが防御に回ったときにはパンターの8.4倍の有用性があったとの評価もあるが、データの数が不十分であり両戦車の性能の差が戦闘にどのような影響を及ぼしたのかを証明するまでには至っていない。
アメリカ軍はドイツ軍とは異なり、戦車の撃破数で賞されることはなかったが、第37戦車大隊大隊長エイブラムスは、自分が搭乗したM4シャーマン『サンダーボルト』でも多数のドイツ軍戦車を撃破し、終戦までに50輌のドイツ軍戦闘車両を撃破している。またラファイエット・G・プール准尉も、M4を3輌乗り換えながら、兵員1,000名殺害、捕虜250名確保、戦車12輌を含む戦闘車両258輌撃破の戦果を挙げている。 また、イギリス、カナダ、オーストラリアなどイギリス連邦加盟国のほか、ソビエト連邦に4,000輌以上、自由フランス軍やポーランド亡命政府軍にもレンドリースされた。カナダ軍ではシドニー・ヴァルピー・ラドリー=ウォルターズ少佐がM4にて18輌のドイツ軍戦車と多数の戦闘車両を撃破して、第二次世界大戦における連合軍戦車エースの1人となったが、ウォルターズが撃破した戦車のなかには、ドイツの戦車エース・ミハエル・ヴィットマンの乗るティーガーIも含まれていたとも言われている。
「M4の75mm砲は理想の武器」「敵重戦車も76mm砲で撃破できる」とするAGF(Army Ground Force/陸軍地上軍管理本部)の判断はM26パーシングの配備を遅らせ、終戦まで連合国軍の主力戦車として活躍した。
北アフリカおよびヨーロッパに加えて太平洋戦争にも投入された。戦車戦力が弱い日本軍にとってM4は非常な難敵で、サイパンの戦い、グアムの戦い、ペリリューの戦いなどでM4と日本軍の九七式中戦車や九五式軽戦車との戦車戦が戦われたが、日本軍戦車の九七式五糎七戦車砲や九八式三十七粍戦車砲はM4に命中してもまるでボールのように跳ね返されたということで、日本軍の戦車が一方的に撃破されることが多かった。日本軍の戦車兵はそのようなM4を「動く要塞」と称して恐れた。それでも、戦車第2師団が戦ったルソン島の戦いにおいては、重見支隊(支隊長:重見伊三雄少将。戦車第3旅団基幹の戦車約60両他)がリンガエン湾に上陸してきたアメリカ軍を迎撃し、太平洋戦争最大の戦車戦が戦われた。九七式中戦車改に搭載された一式四十七粍戦車砲は、500ヤード(約457.2m)で67㎜の装甲、1,000ヤード(約914.4m)で55㎜の装甲を貫通したので、M4の側面や後面の装甲であれば、かなりの遠距離からでも貫通可能であり、戦車戦で撃破されるM4も少なくはなく、アメリカ軍は九七式中戦車新砲塔型を「もっとも効果的な日本軍戦車」と評して警戒した。戦車戦での不利を痛感した日本軍は、その後の硫黄島の戦いや沖縄戦では、戦車の車体を地面に埋めて、即席の対戦車トーチカとして使用するようになった。
そこで日本軍のM4対策は、待ち伏せによる速射砲と地雷と歩兵による肉弾攻撃となっていった。速射砲のなかでも一式機動四十七粍速射砲や九四式三十七粍速射砲がM4の側面装甲を至近距離から貫徹でき撃破したこともあった。沖縄戦ではM4を主力とするアメリカ陸軍の戦車隊が221輌撃破されたが、そのうち111輌が速射砲や野戦重砲などの砲撃による損害であった。また、海兵隊の51輌のM4の損失を含めると合計272輌が撃破されたことになり、これは、沖縄に投入されたアメリカ軍戦車のうち57%にも上っている。また沖縄戦においては、日本軍は段ボール大の木箱に爆薬を詰め込んだ急造爆雷を多数準備した。日本兵はこの急造爆雷をアメリカ軍戦車のキャタピラに向けて投げつけるか、もしくは爆雷をもったまま体当たり攻撃をかけた。この特攻戦術は効果があり、激戦となった嘉数の戦いでは、この歩兵による体当たり攻撃で1日に6輌のM4が撃破され、アメリカ陸軍の公式報告書でも「特に爆薬箱を持った日本軍兵士は、(アメリカ軍)戦車にとって大脅威だった。」と警戒していた。
アメリカ軍戦車兵は、急造爆雷や磁力吸着式の九九式破甲爆雷で対戦車特攻を行ってくる日本兵を警戒し、戦車を攻撃しようとする日本兵を見つけると、優先して車載機銃で射撃したが、日本兵が抱えている爆雷に銃弾が命中すると爆発し、周囲の日本兵ごと吹き飛ばしてしまうこともあった。また、戦車内に多数の手榴弾を持ちこみ、対戦車特攻の日本兵が潜んでいそうな塹壕を見つけると、戦車のハッチを開けて塹壕に手榴弾を投げ込み、特攻するため潜んでいた日本兵を掃討している。ほかにも、ハッチに爆薬を密着させないように多数のスパイクや金網を周囲に溶接、そのほか車体側面に木の板を装着、またはこれを型枠のように取り付け、車体との間にコンクリートを流し込み磁力吸着式の九九式破甲爆雷対策とした例も見られる。
M4は朝鮮戦争でも活躍した。主に投入されたのは52口径76.2mm戦車砲M1A2を搭載したM4A3E8(イージーエイト)となったが、M24軽戦車の138輌、M26パーシングの309輌、M46パットンの200輌に対してM4A3E8は679輌も投入されており、依然として数的には主力戦車であった。朝鮮戦争ではアメリカ陸軍と海兵隊の戦車部隊は北朝鮮軍のT-34-85(一部SU-76)と合計119回の戦車戦を行ったが、そのうちの59回(50%)はM4A3E8によるものであった。アメリカ軍は合計で97輌のT-34-85を確実に撃破し、さらに18輌の不確実な撃破を記録したのに対して、失った戦車は合計34輌に過ぎず、そのうちM4A3E8は20輌であり、さらに完全に撃破されたのはその半分以下であった。アメリカ軍が確実に撃破した97輌のT-34-85のうち、M4A3E8が撃破したのは47輌とされ、依然として十分に戦力になることを証明した。
その後の中東戦争などで使用され、特にイスラエル国防軍はM4の中古・スクラップを大量に収集再生し、初期の地上戦力の中核として活用、その後独自の改良により「最強のシャーマン」と呼ばれるM50/M51スーパーシャーマンを生み出している。第一線を退いた後も装甲回収車などの支援車両に改造され、最近まで各国で使用されていた。
M4A3E8型はMSA協定により日本の陸上自衛隊にも供与されて1970年代半ばまで使用され、同年代末に61式戦車と交代する形で全車が退役した。21世紀を迎えてもなお少数が運用されていたが、2018年にパラグアイで運用されていたM4A3の最後の3輌が退役し、これをもって正規軍で使用されていたM4は全車輌が退役した。
この他にも、フランスのBatignolle-Chatillon社による改造で、シャーマンの車体にフランス製AMX-13軽戦車の砲塔を搭載した「ニコイチ」戦車がエジプト軍に配備され、第二次中東戦争でイスラエル国防軍がM4A1(76)の砲塔にAMX-13の主砲を搭載したM50スーパーシャーマンと交戦した。これはM4A1後期型車体を使った試作型「M4A1 Revalorisé FL10」が最初に作られ、後にM4A4の車体にM4A2用のディーゼルエンジンを載せて改修したものが、1955年頃にエジプトに売却された。
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