道上 洋三(どうじょう ようぞう、1943年〈昭和18年〉3月10日(公称) - )は、朝日放送テレビ(ABCテレビ)元・アナウンサー。
どうじょう ようぞう 道上 洋三 | |
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プロフィール | |
出身地 | 山口県熊毛郡平生町 |
生年月日 | 1943年3月10日(81歳) |
最終学歴 | 日本大学法学部 |
勤務局 | 朝日放送テレビ |
職歴 | 編成局アナウンス部(1992年前後に次長) 取締役(ラジオ担当、国際室 長) |
活動期間 | 1965年 - 2022年 |
ジャンル | ラジオパーソナリティ |
配偶者 | 熊谷瞭子(ナレーター) |
著名な家族 | 道上拓人(長男・俳優) |
公式サイト | アナウンサープロフィール 道上洋三 |
出演番組・活動 | |
出演経歴 | 朝日放送時代 ABCヤングリクエスト おはようパーソナリティ道上洋三です 歴史街道~ロマンへの扉 Club JONR 道上洋三の健康道場 TBSへの出向期間中 ヤング720 モーニングジャンボ奥さま8時半です 朝日放送テレビ キャスト |
備考 2021年9月11日に脳梗塞を発症してからは、療養とリハビリに専念。 |
山口県熊毛郡平生町出身。2014年7月にワニブックスから刊行された自著『ふたつめの誕生日 〜おはようパーソナリティ道上洋三の「なんで?」〜』にて、実際には1942年9月に出生していたこと を明かしている。血液型については、幼少期から「A型」と思い込んでいたが、朝日放送への入社後(39歳の時)に受診した人間ドックで「B型」と判明している。
出生の時点で実父が太平洋戦争に出征していた ことなどから、5歳までは広島県甲奴郡上下町(現在の府中市)の母方の祖父母宅で育った。ちなみに実母は、祖父の勧めで1947年に再婚すると、再婚相手との間で道上の弟に当たる一卵性双生児を出産。道上も一時再婚相手と同居していたが、道上や弟に対する冷遇振りに業を煮やした祖父が、道上・実母・双子の弟を実家(母方の祖父母宅)に連れ戻したという。結局実母は、道上が6歳の時に双子の弟を養子に出したうえで、道上が18歳になるまで平生町で道上と生活を共にした(詳細後述)。
平生町立佐賀中学校(現在の平生中学校)への在学中に軟式テニス部で活動した後に、山口県立熊毛南高等学校へ進学。進学後には一時、校内の硬式野球部へ所属した。もっとも、後述する家庭の事情で夜遅くにまで及ぶ練習へ参加しにくい状況にあったことに加えて、試合に1度だけ出場したところ「(チームとしては相手より)弱すぎる」と感じたことからすぐに退部した。陸上競技部への転籍当初は短距離走に取り組んでいたが、複数台のハードルを購入できるだけの予算が部に付いたことを機に、顧問教諭の勧めでハードル走の選手に転向。転向後に県大会で2位を記録するなど、「山口に道上あり」と言われるほどの好成績を収めた末に、日本大学法学部への推薦入学を果たした。
日本大学では、110メートルハードル走の選手として1964年の東京オリンピックを目指していた。しかし、1年生の夏季休暇中の練習で、腰を痛めたことを機に陸上競技部を退部。「選手としてはオリンピックに参加できなかったけど、報道する人間として参加できないものか」との思いから、2年生の時に「オール日大放送研究会」へ入る とともに、スポーツアナウンサーを志すようになった。3年生の時に「オール日大放送研究会」の部長に就任すると、後に日本教育テレビ → テレビ朝日のアナウンサーになる北村元からの依頼で、吹奏楽研究会のコンサートの司会も務めた。
1965年に、アナウンサーとして朝日放送(ABC、旧法人)に入社した。同期入社のアナウンサーに、因田宏紀や辻豊人などがいる。
入社してすぐに、今井音也(後の桂音也)が作った落語研究会へ強引に入会させられた。新人アナウンサーとして共通語の講義を受ける一方で、落語研究会の一員として桂枝雀に上方落語の稽古もつけてもらっていた。その影響で話し方が混乱したため、共通語の講師にも枝雀にも「訛がとれていない」と指摘された。ちなみに、落語研究会の発表会では「煮売り屋」を演じた。
入社2年目の1966年には、自身の希望でビートルズの初来日公演(日本武道館)の模様を取材した。道上は、「日本のディスクジョッキーで、東京公演を実際に武道館で鑑賞したのは自分だけ」と語っている。
1966年4月1日から1974年3月まで、ABCラジオの深夜番組『ABCヤングリクエスト(ヤンリク)』で初代のパーソナリティを務めた。1974年4月から1年間は、当時のABCテレビのキー局であったTBSへ出向。ネットチェンジによってABCのキー局がTBSからNETテレビ(現在のテレビ朝日)に変更された1975年4月からABCに復帰すると、『あすは日曜 道上です!』のパーソナリティへ起用されたことを皮切りに、『歌謡曲ぶっつけ本番』などへ出演した。
1977年3月28日からは、『おはようパーソナリティ中村鋭一です』の後継番組『おはようパーソナリティ道上洋三です(おはパソ)』で、45年間にわたってパーソナリティを務めている(詳細後述)。
また、2009年10月から2011年10月1日までは、土曜深夜(日曜未明)の『Club JONR』で久しぶりに深夜放送へ出演。『ヤンリク』のパーソナリティを経験した(元)アナウンサーの1人として、ナビゲーターやをパーソナリティを担当していた。2011年11月8日放送の特別番組『パーソナリティ秋の交流戦セカンドステージ 角からすみまで道上洋三です』では、ABCラジオの番組初出演の角淳一(毎日放送出身のフリーアナウンサー)と共演している。
2014年10月からは、『おはパソ』に加えて、『道上洋三の健康道場』(『おはパソ』の同名コーナーから派生したABC制作の事前収録番組)のパーソナリティも務めていた。
『ヤンリク』でパーソナリティを務めていた時期には、スポーツアナウンサーとして、ABCラジオのプロ野球・全国高等学校野球選手権中継で実況したこともある。プロ野球中継では、大阪スタヂアム(南海ホークス)や藤井寺球場(近鉄バファローズ)などで開催のパシフィック・リーグ公式戦での裏送り向け実況 を主に担当した。しかし、道上曰く「トイレが近い(便意を催しやすい)体質」とのことで、少年時代からの大ファンである阪神タイガースの試合を自社向けに実況する機会のないままスポーツの担当から離脱した。
『ヤンリク』での人気を受けて、『ヤング720』(当時ABCが属していたTBS系列・平日早朝の全国ネット生放送番組)土曜日の司会に抜擢。『ヤング720』の土曜分はABC本社スタジオから放送されていたため、1971年3月の番組終了に際しては、TBSへの出向を前提に『モーニングジャンボ』(後継番組)への出演を打診されたが固辞している。もっとも、実際には1974年4月から1年間、『ヤング720』と同じパターンで『モーニングジャンボ奥さま8時半です』木曜日のコーナーをレギュラーで担当していた。道上によれば、TBSの番組では、ミクロネシアとポーランドでの長期取材も経験。東京のプロダクションから、フリーアナウンサーへの転身を打診されたこともあったという。
『おはパソ』を始めてからは、『歴史街道』などでナレーションを担当。1980年代に放送された『それゆけ!タイガース』や、阪神のセントラル・リーグ優勝記念特別番組などにも登場した。
『おはパソ』が月~金曜日の生放送であることなどから、2018年度までは、スタジオレギュラーとして番組に出演する機会は少なかった。2019年度(2019年4月5日 - 2020年3月27日)には、毎週金曜日の16時台に、『キャスト』で「道上さんの中継」を担当。津田理帆(当時『道上洋三の健康道場』で共演していた後輩アナウンサー)とのコンビで、テレビ番組としては旧朝日放送時代を含めて48年振りに、生中継のリポーターをレギュラーで務めていた。
2003年にABC(旧法人)の取締役へ就任してからも、アナウンサーとしての活動も続けていた。同局の取締役がアナウンサーを兼任した事例は、この時の道上が初めてである。しかし、「アナウンサー業務と取締役との兼業が成り立たなくなった」ことを理由に、2007年6月27日付で取締役を退任。常勤顧問へ就任するとともに、エグゼクティブアナウンサーの待遇を受けるようになった。
朝日放送主催のイベントをはじめ、関西各地で開かれるシンポジウムやコンサートには、司会・パネリスト・ゲストとして頻繁に登場している。2011年には、自身初の著書として、朝日新聞出版から『おはようパーソナリティ 道上洋三のないしょ話』を刊行。2014年には、前述の著書『ふたつめの誕生日 ~おはようパーソナリティ道上洋三の「なんで?」~』が発売された。
2018年4月1日にABC(旧法人)が放送持株会社の朝日放送グループホールディングスへ移行したことに伴って、旧法人からテレビ放送などの事業を継承した朝日放送テレビへ自動的に転籍したが、朝日放送ラジオ(旧法人から同日付でラジオ放送の事業・免許を継承した法人)が制作する『おはパソ』などのラジオ番組にも「ABCアナウンサー」という名義で出演を続けてきた。
その一方で、2006年に脳腫瘍の摘出手術・2018年に髄膜腫の放射線治療を受けたほか、2021年9月には脳梗塞を発症。このような事情から、朝日放送ラジオでは、家族などとの関係者と協議を重ねた末に『おはようパーソナリティ道上洋三です』を2022年3月25日で終了させた(詳細後述)。2022年3月31日を持って、57年間を務めいた、ABC朝日放送のアナウンサー生活を定年退職した。
これまで『ヤンリク』や『ヤング720』で実績を積み重ねてきた道上が『おはパソ』を担当するようになったきっかけは、前任者の中村鋭一が第11回参議院議員通常選挙への出馬を表明したことによる。土曜版として放送された『おはようパーソナリティ藤川延子です』の後番組『あすは日曜 道上です!』を担当していた道上は当時30代半ば。道上自身が「朝に弱い」こと、また「中村さんの番組は完成され尽くしている。私ごときが後任とはおこがましい」として出演を固辞していた。しかし、後任を打診していた筑紫哲也などとの交渉が不調に終わったという局内事情 を背景に、「お前以外に考えられない」という強い要請、いわば社命として『おはパソ』を引き継ぐことになった。こうして1977年3月28日に始まったのだがこのような経緯もあって、担当開始から3年間は、常に「辞めたい」「しんどい」「もうええわ」という思いを抱きながら放送していたという。2017年に当時の心境を聞かれた道上は「(中村を)尊敬し、好きな番組ではあったが、いざ自分がやってみたら羨望と嫉妬ばかり」と答えている。またこの期間は何をやっても中村と比較され、今や代名詞の「六甲おろし」も「六甲おろしは鋭ちゃんのもんや!」といわれるほどで、多くのリスナーからそのような投書が多かったことを明かしている。しかし、レギュラーゲストである高石ともやの勧めで、1981年12月に130名のリスナーとホノルルマラソンへ出場。フルマラソン初挑戦ながら、6時間39分49秒で完走した。この完走を境に、「自分のカラーで番組を続けていけるのではないか」との勇気を持てるようになった道上は、現在でもホノルルマラソンを「『おはパソ』の原点」と称している。と同時に「体を使って何かやったら対抗できるのかな」と思いはじめたという
『おはパソ』では、プロ野球シーズン中の生放送において、前日に阪神タイガースが勝利を収めると阪神タイガースの歌(いわゆる「六甲おろし」)をフルコーラスで歌うことで有名。また、番組の企画でホノルルマラソンの完走(後述)や水泳の長距離完泳を果たしたほか、和太鼓やマスターズ陸上の予選会(短距離走)などにも挑戦した。
道上が披露する「六甲おろし」には、メロディーの一部(「輝く 我が名ぞ 阪神タイガース」の太字部分)を誤って歌っていたことがあったが、その点についてキダ・タローは、「『どこが違うんですか?』と聞いて来た上で、何度も聴いて直してくれた。あなた(道上)が日本で一番正しい『六甲おろし』を歌っている」と語っている。。
当番組を聴いたことがきっかけで、道上を目標に放送業界を志した人物(アナウンサーやラジオパーソナリティなど)が(関西地区を中心に)少なからずいる。そのほか、リスナーとの関係性も深めていく。その一例としてあるリスナーが「今週末北海道に旅行に行くのだが北海道の天気を教えてほしい」というファクシミリが届いた。それを受け取った他の番組から来た若いスタッフは「北海道の天気なんて、関西在住の他のリスナーに関係ない」とボツにしたのだが、道上は「君な、ウェザーセンターに問い合わせて、今週末の北海道の天気と服装を聞くぐらい五分もかかれへんやろ。その情報をこの人本人に電話かファックスで伝えてあげる、全部あわせて五分でできるやろう」と指示をし、情報を本人に直接伝えさせた。その翌週、そのリスナーはお礼状とお土産を番組宛に送付。そのことに驚くスタッフに「何びっくりしてんの、うちの番組はそういうことで成り立ってるんや」「教えてほしいと言われたことを教えて差し上げたらお礼が届く、そしたらおいしかったですってお礼状を出す。人のつきあいってそんなもんでしょう」と返したという。
1984年には、当時のアシスタント・唐川満知子とのデュエットによるオリジナルの楽曲「さそわれて大阪」を3月10日にリリース。4万枚の売上を記録するほどのヒットによって、同年の全日本有線放送大賞新人賞を受賞した。当時は『11PM』(読売テレビ制作日)の中で大賞の発表と表彰式を実施していたため、道上は唐川と共に同番組への出演を果たしている。
2006年、右目奥に脳腫瘍が見付かったことを公表。視覚・嗅覚の神経を塞いで生活に支障を来すほどになっていたため、番組を休んで腫瘍の摘出手術を受けることを決めた。同年8月3日に手術がおこなわれ、同25日に退院。術後の回復も順調であったため、9月25日の放送から番組に復帰した。
2015年には、『おはパソ』へ折に触れて出演しているジャーナリストの今井一が、3ヶ月半にわたって道上への密着取材や周辺取材を敢行。その成果が、『AERA』2016年2月15日号の「現代の肖像」に掲載された。ページの表紙には、2015年11月15日に万博記念公園で開かれた「開局65周年記念 ABCラジオまつり2015」で、吉田詩織(当時の『おはパソ』アシスタント)と共に山口県の特産物販売ブースに立った際の写真が用いられている。
なお、『おはパソ』が放送40周年を迎えた2017年に、中村は肺炎のため87歳で逝去。道上は、中村の逝去から2日後(11月8日)の放送で訃報を伝えた際に、「(担当開始から)40年かかっても、『大先輩(の中村)に追い付き、追い越せた』と思えた日は1日もありません」とのコメントを添えた。
その一方で、2006年に受けた髄膜腫の手術で4~5%程度の髄膜腫が残っていることが、2018年の経過診察で判明。主治医と相談した結果、例年全国高等学校野球選手権本大会の期間中(8月上旬 - 中旬)に取得している2週間の夏季休暇を延長したうえで、髄膜腫の放射線治療を受けることを2018年6月18日(月曜日)の放送中に発表した。このため、同年7月9日(月曜日)から8月31日(金曜日)まで『おはパソ』を再び休演。休演期間中は、番組のタイトルを変えずに、堀江政生がパーソナリティ代理を務めた。
道上は1995年3月を目途に、ラジオパーソナリティからの引退を検討していた(のちに1997年へと変わっている。後述。)。その矢先である1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。発生から44分後開始である『おはパソ』も被災地からの情報を伝えた。それだけでなく、「皆さん大変でつらくて嫌になった。でも、番組をする以上、とにかく現場に行こう。何と言われようが現場に行って、そこのにおいを嗅いで、そこの人の声を聞く。それをしないと意味がない。」と決めた道上は幾度となく現場へ足を運ぶ。しかし、社内には「偽善だ」と反対した人間もいたが、道上はその人物に「辞めぇ、お前は! 制作であろうが、報道であろうが、どの部署であろうが、この状況を前に現場にも行かんと番組を作るというのは、放送局に勤めてる者として意味が分からん」と声を荒らげたこともあるという。しかし、被災地の取材・被災者とのやり取りを重ねるにつれて、ラジオパーソナリティとしての無力さを痛感したという。
道上の転機になったのは、朝日放送のテレビ取材クルーが淡路島内にあった北淡町(現在の兵庫県淡路市)の町民会館を取材した際のリスナーのエピソードを、取材担当の岡元昇(当時は同局アナウンサーで道上の部下)から伝えられたことにある。岡元などによる取材では、震災で自宅が全壊したものの、瓦礫の中でたまたま梁が重なって助かった80歳前後の老婆が、ラジオから流れ続ける音声をきっかけに間一髪で救出されたことが判明。島内に身寄りのいない彼女は、取材クルーが朝日放送の関係者であることに気付き、「私の命の恩人は道上さんやさかいよろしゅう言うといてな」「こんなときはあれやね、遠くの親戚より近くのラジオやね」という言葉を残した。このエピソードを岡元から聞いた道上は、喜びのあまり、その言葉を半紙に書いてスタジオに貼り、自身の持つ価値感すら変えた。後年の回想によれば、もともと番組開始から20年の1997年に番組を降りようと考えていたが、このような体験から、「声が出なくなるまで」ラジオパーソナリティを続けることを決意したという。さらに、避難所から家に帰ってラジオをつけて道上の声を聞いたときに、「ああ、いつもの生活が帰ってきた」 「この人、生きてはったんや、ほれやったら私も大丈夫や」って思ったなど、たまたま聴いた人が、普通の生活、いつもの朝、これまでと同じ生活が戻ってきたと口々に言ってくれたのだという。
ちなみに、髄膜腫の放射線治療による約2ヶ月間の休演を発表した2018年6月18日には、放送中の7:58に大阪府北部地震が発生。大阪府北部の一部地域で震度6弱(発生時点の地震観測体制下での府内最大震度)、朝日放送グループ本社のある大阪市福島区で震度5弱を観測したことから、発生の直後からリスナーのメッセージを交えながら地震発生関連の情報を本番の終了(8:59)まで伝え続けた。
後年も、1月17日にはこの経験を生かして番組内で「いつもの朝と違うようだけど、いつもの朝なんです。」「災害時のラジオの有用性を見いだされてはいるけれど、災害の時〝も〟ラジオ。いつものラジオがあるから皆に支えていただいているんだ。」とコメントしている。
2021年9月11日(土曜日)の午前中に自宅で脳梗塞を発症したため、救急車による病院への搬送を経て、投薬治療を目的にそのまま入院した。脳梗塞と診断された時点では生命に別状がないものの、退院までの期間が見通せないため、『おはパソ』を9月13日(月曜日)放送分から休演。休演期間中には堀江をはじめ、後輩のアナウンサーをパーソナリティ代理へ順次立てている(当該項で詳述)。
道上は後に、リハビリ専門の施設が備わった病院へ転院。脳梗塞を発症する前のように右足を動かすことや発話することが難しい状況にありながらも、体調の回復に向けてリハビリを続けている。番組スタッフがこのような状況で道上の家族などと協議を重ねたところ、「道上の体調が今後回復しても、(2021年度の時点で1日当たり)2時間半にわたる『おはパソ』の生放送へ高齢(脳梗塞を発症した時点で78歳)の身で週に5日臨むことをお願いするのは厳しい」との結論に至ったことから、道上を脳梗塞の治療に専念させるべく『おはパソ』のパーソナリティを2022年の3月末で卒業させることを決断。2021年12月20日(月曜日)の『おはパソ』で、その旨がパーソナリティ代理の伊藤史隆(代演の時点では朝日放送テレビのアナウンサー)から発表された。
『おはようパーソナリティ道上洋三です』としての放送は2022年3月25日(金曜日)で終了したが、同日までは他のアナウンサー(伊藤・小縣裕介・古川昌希など)による代演体制を事実上継続。翌週(3月28日)からは、『おはようパーソナリティ』というタイトルを残しつつ、月 - 木曜分を『おはようパーソナリティ小縣裕介です』、金曜分を『おはようパーソナリティ古川昌希です』として放送している。その一方で、朝日放送ラジオでは、道上の体調が回復した場合に道上を早朝以外の時間帯の番組へ迎える方針を立てている。
なお、『おはようパーソナリティ道上洋三です』では2021年に、放送の開始から45周年を記念した企画の一環として『虹へ』というテーマソングを制作することを企画。道上は、10月12日(火曜日)の本番後にいがらしあみ(2020年10月からアシスタントとして出演していたフリーアナウンサー)と揃って歌のレコーディングへ臨むべく、9月4日(月曜日)の時点で歌詞を仕上げていた。ちなみに、歌詞には阪神・淡路大震災の発災を境に実感したことなどが盛り込まれていて、番組と縁の深いピアニストの沼光絵理佳が曲を付けている。
『虹へ』の制作企画については、道上が脳梗塞を発症したことを境に中断を余儀なくされていたが、『おはようパーソナリティ道上洋三です』としての放送の終了が決まったことを受けて再開。道上の休演期間中にパーソナリティ代理を務めたアナウンサー全員・毎週金曜日に番組内のニュースを担当していた後輩アナウンサーの桂紗綾・番組と縁の深いプロの歌手(高石・加藤登紀子・平原綾香)が道上に代わって歌を吹き込むことや、リスナーから歌唱音源を募集することによって番組の最終週(2022年3月21日)に披露へ漕ぎ着けた。もっとも、朝日放送ラジオでは「『虹へ』は道上が歌うことによって完成する」というスタンスを崩しておらず、道上が歌える状況にまで体調が回復すれば『虹へ』の「完成版」を制作する方針を立てている(当該項で詳述)。
結局、道上本人が最終回までに復帰することは叶わず、最終回は小縣といがらしのコンビで生放送を進行。小縣は、「毛筆でしたためた」という道上への「送辞」をエンディングパートで朗読した後に、道上へのエールを交えた歌詞に変更した『六甲おろし』を独唱することによって45年間の放送を締めくくった。また、日刊スポーツ新聞西日本では、「感謝状 道上洋三殿」と銘打った全面特集を最終回当日の大阪本社発行版(25面)に掲載。『おはパソ』へ定期的に出演していた寺尾博和編集委員が番組の歴史を物語るエピソードを資料写真と合わせて紹介したほか、最後のプロデューサーであった小川鉄平をはじめ、当番組や道上と縁の深い人物から多数のコメントが寄せられた。
長年兵庫県伊丹市に在住。『おはパソ』の出演で朝日放送に出社する前には、自宅近くの昆陽池公園を散歩することが、長年の習慣になっていた。同番組のオープニングなどで散歩の模様をよく話していたこともあって、2008年には、伊丹市役所から伊丹市をPRする「伊丹大使」の委嘱を受けている。
道上が出演するラジオ番組を少年時代から愛聴している山田雅人は、自身がレギュラーで出演している『ドッキリ!ハッキリ!三代澤康司です』(朝日放送ラジオ)の2020年12月8日(火曜日)放送分へ道上をゲストに迎えたことをきっかけに、道上の半生をライフワークの「ひとり語り芸」で表現することを決意。関係者への独自取材などを通じてつかんだエピソードを、3部構成の「道上洋三物語」に仕立てた。同月16日(水曜日)の『おはようパーソナリティ道上洋三です』へゲストで出演した際には、その一節を2部構成で披露している。
阪神タイガースの熱烈なファンとして有名。小学6年時の1953年春に広島カープとのオープン戦を観戦すべく実母の同僚に連れられて広島県営球場へ出向いたところ、阪神の4番打者(いずれも当時)・藤村富美男が試合前に他の観客とのやり取りで「今日は本塁打を2本打つ」と予告した光景に遭遇したことが応援のきっかけになった。この試合を観戦してからは、小学校のクラスメイトが数人しかいなかったもかかわらず、藤村の出席番号「10」を希望。藤村にファンレターを出しても返事がなかったため、「藤村の写真を売って欲しい」という旨の手紙をベースボール・マガジン社へ送ったところ、同社の記者からの厚意で個人的に保有していた藤村のサイン入り写真が届けられた。ちなみに、上記のオープン戦については、かつて「藤村が予告どおり自分の目の前で2本の本塁打を放った」と語っていた。しかし、この試合を報じた当時の新聞記事を後に調べたところ、藤村が本塁打を放った形跡が見当たらなかったという。
藤村が1958年限りで引退してからは、翌1959年に入団した村山実を応援。「亡き父の面影を村山に重ねていた」とのことで、中学生時代にファンレターを送ったところ、本人直筆の年賀状が実家に郵送された。陸上競技に没頭していた高校・大学生時代には阪神ファンとしての関心がやや薄れていたものの、日本大学への在学中に競技生活を故障で断念してから、ファンとしての情熱が甦ったという。
本拠地の阪神甲子園球場内にある甲子園歴史館では、2010年3月の開館当初から、「ファン代表」の立場で顧問を務めている。2003年に朝日放送(旧法人)のアナウンサー・解説者・番組出演者や著名人が「チーム 虎バン主義。」という応援団を結成した際にも、顧問として名を連ねていた。
実母は、大阪に本社を置く商社の支社長付秘書兼看護師として、1939年(昭和14年)からオーストラリアで生活。当時のオーストラリアがいわゆる「連合国」の一員として日本と対立していたことから、「太平洋戦争開戦のきっかけになった」とされる真珠湾攻撃(1941年12月8日)の直前に日本へ帰国すると、オーストラリアで生活する前まで交際していた男性(薬局経営者の息子)との間に道上を授かった。この男性と再び別れてからは、山口県平生町の阿多田半島にあった特別少年院(第二次世界大戦中に「大日本帝国海軍潜水学校柳井分校」として使われていた施設)で看護師として勤務。勤務期間中に5歳の道上を祖父母から引き取ると、道上が18歳で日本大学へ進学するまで、平生町内で同居を続けた。
朝日放送への入社2年目(23歳)で高校時代の同級生と結婚した が、25歳の時に離婚。29歳の時に、『ABCヤングリクエスト』のアシスタントだった3歳年下の熊谷暸子と再婚した。かつて劇団スーパー・エキセントリック・シアターで活動していた俳優の道上拓冬は、再婚後に授かった一人息子(長男)で、3歳の頃から子役俳優として活動していた。ちなみに、道上が実母を平生町から大阪へ呼び寄せたのは最初の離婚後(27歳)で、熊谷と再婚してからも実母が永眠するまで同居を継続。1974年度には、自身が朝日放送からTBSへの出向に伴って東京へ単身で赴任していたのに対して、実母は熊谷と生活を共にしていた。
道上自身は、プライベートで熊谷のことを(旧姓の)「クマ」と呼ぶ一方で、『おはパソ』で家族の話題を出す際に「家人(かじん)」と称している。熊谷もフリーアナウンサーとして長らく活動し、現役ナレータでもあることから、自宅のあらゆる部屋に置いたラジオで『おはパソ』を聴いた熊谷から、アドバイスや厳しい指摘を受けることもある。曰く、「(私の)悪口を言うからそれを確認し、『あれはひどいじゃないか』と返したり、(特に)野球の話が長すぎるときに指摘するため」らしい。理由は不明だが、熊谷からも、本人の署名・捺印済みの離婚届を4回にわたって突き付けられたという。2021年9月に自宅で脳梗塞を発症した際には、体調の異変に気付いた熊谷が救急車を自宅に呼んだことで一命を取り留めた。その日、寝息がおかしかったらしく、熊谷が「どうかした」と聴くと「起き上がれない」といったので、すぐに救急車を呼んだという。
俳優の原田大二郎は平生町立佐賀中学校在学中の2年後輩で、道上の3年時に軟式テニス部の新入部員だった縁で交流。道上が朝日放送のアナウンサーになってからも、折に触れて『おはパソ』のゲストに迎えるなど、担当番組で何度も共演している。また、シンガーソングライターの高石ともやとも、長年にわたって交流を続けている。
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