棟方 志功(むなかた しこう、1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)は、日本の板画家。従三位。最晩年には約半年間、棟方志昂と改名した。
1920年 - 1930年代 | |
誕生日 | 1903年9月5日 |
出生地 | 日本 青森県青森市 |
死没年 | 1975年9月13日(72歳没) |
死没地 | 日本 東京都杉並区上荻 |
墓地 | 青森市三内霊園 |
国籍 | 日本 |
配偶者 | 棟方千哉子 |
親 | 棟方幸吉 棟方さだ |
子 | 棟方巴里爾 棟方令明 宇賀田けよう 小泉ちよゑ |
運動・動向 | 民藝運動 |
流派 | 創作版画 |
芸術分野 | 板画(木版画) 倭画(水彩画) 油画(油彩画) 墨書 |
出身校 | 旧長島尋常小学校 |
代表作 | 『二菩薩釈迦十大弟子』 『湧然する女者達々』 『東海道棟方板画』 『大世界の柵』 『禰舞多運行連々絵巻』 |
受賞 | ヴェネツィア・ビエンナーレ国際版画大賞 1956年 『湧然する女者達々』 毎日芸術賞 1969年 『棟方志功板画大柵』『板芸業四十年記念棟方志功障壁画展』 (受賞歴) |
会員選出組織 | 日本版画協会 国画会 イタリア芸術院 |
後援者 | 柳宗悦 |
メモリアル | 鯉雨画斎 勝烈庵 (ゆかりの施設) |
活動期間 | 1924年 - 1975年 |
影響を受けた 芸術家 | ゴッホ 川上澄生 平塚運一 |
影響を与えた 芸術家 | 恩田秋夫 渥美大童 井上勝江 (弟子) |
青森県青森市出身。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。1942年(昭和17年)以降、棟方は版画を「板画」と称し、一貫して木版の特性を生かした作品を作り続け、その偉業から板画家として世界的に知られる。墨書や「倭画」(やまとえ)と名付けた肉筆画も残している。
1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの十五人きょうだい(九男六女)の三男(第六子)として生まれる。豪雪地帯出身の影響で、囲炉裏の煤で眼を病み、以来極度の近視となる。1910年(明治43年)、長島尋常小学校(現在の青森市立長島小学校)に入学する。幼少期から家業を手伝うかたわら、善知鳥神社の祭りの灯篭の牡丹絵や凧の絵に惹かれ、自然美とは異なる、人工美としての絵画に目覚め、自然と絵心も育まれていった。
1915年(大正4年)10月、棟方は大日本帝国陸軍 第八師団の演習中に校舎の裏に不時着した複葉機に走り寄り、水田の川でつまづいて転ぶ。倒れた棟方は目の前に咲いていたオモダカの花の美しさに感動し、この美しさを表現することを決意する。1920年(大正9年)、棟方が十八歳のとき父親が隠居し鍛冶屋を廃業、棟方は青森地方裁判所弁護士控所の給仕となる。棟方は勤務中も暇を見て合浦公園へ写生に出かけたが、その能筆ぶりを認められて書記も務めるようになり、好きな絵を描く時間がなくなり裁判所を退職する。10月25日、母さだが死去する。
1921年(大正10年)秋に、棟方は親友の松木満史、古藤正雄、鷹山宇一らと「青光画社」という洋画のグループを作り、第一回展覧会がのちに東奥日報を経て青森県知事となる竹内俊吉に激賞される。自信をつけた棟方は画家になる意志を固め、青森市立中学校の美術教師であった小野忠明からゴーギャン、セザンヌ、ロートレック、マティス、ピカソなどの洋画家たちについて教えを受け、とくにゴッホの話に感動し、棟方は「日本のゴッホになる」ことを目標に掲げた。この頃、棟方はゴッホとは洋画家そのものを指す言葉だと考えていた。
1924年(大正13年)に上京する。大和町に家を借り、始めは中村不折の門を叩く。不折は外遊中で不在だったが、棟方は邸内の私設博物館にあったギリシャ彫刻の女の臥像に感動して帝展入選を誓った。果たして帝展や白日会展などに油彩画を出品するも落選が続いた。10月26日、父幸吉が死去する。1925年(大正15年)、麹町区紀尾井町の東京教材出版社に勤め、教科書の表紙や図版を描く。
1926年(昭和2年)、国画創作協会の展覧会で観た川上澄生の版画『初夏の風』(はつなつのかぜ)に感動し、棟方は版画家になることを心に決める。棟方は1927年(昭和2年)から平塚運一に師事して版画を習うかたわら、本の仕事や靴の修理、納豆売りをして糊口をしのぎ、1928年(昭和3年)第9回帝展で「雑園」(油彩)が初入選する。1930年(昭和5年)4月9日、赤城千哉子と結婚。文化学院で美術教師を務める。
1932年(昭和7年)、日本版画協会会員となり、ロサンゼルスオリンピックの芸術競技に出品する。1934年(昭和9年)、佐藤一英の詩「大和し美し」を読んで創作意欲を掻き立てられ、1936年(昭和11年)に国画展に出品した『大和し美し』(やまとしうるわし)が出世作となり、これを機に柳宗悦や河井寛次郎などの民藝運動関係者や、保田與重郎や蔵原伸二郎などの文学者たちとの知遇を得、棟方の芸術も彼らから多大な影響を受ける。1937年(昭和12年)に初めて裏彩色の技法を用いた『観音経板画巻』全三十七柵を制作。1941年(昭和16年)、大原總一郎邸にて倭画による襖絵『御群鯉図』(おんぐんりず)を描く。1942年(昭和17年)、随筆集『板散華』を刊行。棟方は同書のなかで、今後自身の版画作品を「板画」(ばんが)と呼ぶことを宣言する。蔵原伸二郎の詩『崑崙』を題材とした『繧𦅘頌・崑崙板画巻』(うんげんしょう・こんろんはんがかん)全十六柵を制作。唯一の油画集『棟方志功画集』(昭森社)を刊行。
1943年(昭和18年)に渋谷区に移転、自宅は大原孫三郎の命名により「雑華山房」(ざっけさんぼう)と名付けるが、1945年(昭和20年)5月25日に空襲のために雑華山房が全焼し、版木もすべて焼失した。棟方は戦時疎開のために富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住し、1954年(昭和29年)までここに住んだ。棟方は同地の自然をこよなく愛し、河井寛次郎の仕事ぶりを讃えた『鍾渓頌』(しょうけいしょう)全二十四柵や、『龍膽の柵』(りんどうのさく)などの多くの作品を制作し、地元の僧侶や近隣に疎開していた書家の大澤雅休の知己を得て、本格的に墨書に取り組む。
1946年(昭和21年)、富山県福光町栄町に住居を構え、自宅の八畳間のアトリエを「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付け、住居は谷崎潤一郎の命名により「愛染苑(あいぜんえん)」と呼んだ。栄町にあった住居は移築保存され、現在は「鯉雨画斎」として一般公開されている。1947年(昭和22年)秋、京都市左京区南禅寺下川原町にある谷崎の自宅「潺湲亭」(せんかんてい、現在の石村亭)の表札を彫る。1949年(昭和24年)には岡本かの子の詩『女人ぼさつ』を題材とした板画『女人観世音』(にょにんかんぜおん)全十二柵を制作。6月に日本民藝館にて肉筆・板画を含む百点余りに及ぶ『棟方志功特別展』を開催する。
1951年(昭和26年)、スイス、ルガーノで開催された第二回国際版画展で優秀賞を受賞。1952年(昭和27年)にはサロン・ド・メに招待出品し、同年秋にはニューヨークで初の個展を開催する。ベートーヴェンの交響曲第九番を題材とした板画『歓喜頌』(かんきしょう、六曲一双)、いろは歌に「ん」を加えた『いろは板画柵屏風』(六曲一双)を制作。河井寛次郎の紹介により東急グループの五島慶太と高橋禎二郎の知遇を得る。毎日新聞社により文化映画『板画の神様』が制作され、初めて棟方の創作風景や暮らしぶりが記録された。11月に明治天皇の生誕百年を記念して、著書『板響神』(祖国社)を刊行。1953年(昭和28年)、戦後富山県八尾町に疎開していた吉井勇が詠んだ短歌を題材とした『流離頌』(りゅうりしょう)全三十一柵を制作。1954年(昭和29年)には初めての日展出品作『御華狩頌・乾坤妙韻板画柵』(おんはなかりしょう・けんこんみょういんはんがさく)を制作。
1955年(昭和30年)、ブラジル、サンパウロ・ビエンナーレで版画部門の最高賞を受ける。1月16日、淡交社の企画により、「実験茶会」の亭主を務める。テーマは『ベートーベンの第九を主題とする草々の茶・イロハ茶会』であった。1956年(昭和31年)、ヴェネツィア・ビエンナーレに「湧然する女者達々」(ゆうぜんするにょしゃたちたち)全二柵などを出品し、日本人として版画部門で初となる国際版画大賞を受賞した。ふたたび淡交社の企画により、茶掛けとして『茶韻十二ヶ月板画柵』(ちゃいんじゅうにかげつはんがさく)全十二柵を制作。花札の十二か月を題材とした『柳緑花紅頌』(りゅうりょくかこうしょう)全十二柵を制作。文学方面では谷崎潤一郎の『歌々板画柵』(うたうたはんがさく)全二十四柵、『鍵板画柵』全五十九柵、江戸川乱歩の「犯罪幻想」(創元社)を題材とした、『幻想板画柵』全十一柵、草野心平の『山脈板画柵』全三柵などを制作し、『板画の道』(宝文館)、『板画の肌』(河出書房)などの自著も刊行した。1958年(昭和33年)1月にはみたび淡交社の企画で北大路魯山人、勅使河原蒼風、岡本太郎との座談会、『戌年談義』(いぬどしだんぎ)に参加し、江戸川乱歩の『緋薔薇頌』(ひばらしょう)を制作した。7月、筑摩書房から柳宗悦の監修による『棟方志功板画』を刊行。1935年から1958年までの作品から91点を選出した、英文解説つきの本格的な選集となった。
1959年(昭和34年)1月にはデイヴィッド・ロックフェラー夫人とジャパン・ソサエティーの招きにより渡米 、ベアテ・シロタ・ゴードンがコーディネートと通訳を務め、各大学で日本美術や板画についての講義をする。その後、8月から9月にかけてオランダ、フランス、スペイン、イタリア、スイスを周る。この時、ニューヨークではトーテムポールとピカソの『ゲルニカ』に感動し、バチカンではシスティーナ礼拝堂のフレスコ画『最後の審判』を鑑賞、フランスではオーヴェルにあるゴッホの墓を訪ねた。11月に帰国し、半年間中央公論社の雑誌『週刊公論』の表紙画を描く。1961年(昭和36年)、京都法輪寺より法橋位を受ける。9月に台東区東本願寺茶室「紫雪亭」の襖絵を描く。1962年(昭和37年)、富山県日石寺より法眼位を受ける。大原孫三郎の妻で歌人の大原寿恵子の歌集の挿画を制作。装幀は柚木沙弥郎が手がけた。1963年(昭和38年)1月にはチリにて板画展を開催し、4月には藍綬褒章を受章、この頃から東海道の取材旅行を始める。9月、還暦を機に、好きな物に囲まれた自画像『歓喜自板像 第九としてもの柵』(かんきじはんぞう だいくとしてものさく)を制作。大原總一郎の依頼により、12月に竣工する倉敷国際ホテルのための板画壁画『大世界の柵・坤 - 人類より神々へ』を制作。1964年(昭和39年)1月には宮中の歌会始に招かれ、10月に初の自伝『板極道』を出版した。1965年(昭和40年)には1月に紺綬重飾褒章を受章。2月にセントルイス、ワシントン大学の招きにより渡米し、4月まで日本の板画について講義を行ない、日本から携えてきた草野心平の詩集『富士山』(昭森社)を題材とした板画を制作した。棟方は滞米中にダートマス大学から名誉文学博士号を贈られ、6月の帰国後にはイタリア芸術院より名誉会員に推挙されている。1966年(昭和41年)、倭画『富士十題』を制作。劇団民藝公演『バラが問題だ』(演出:菅原卓)のために同名の油画を描く。7月から平凡社『太陽』で連載が開始される「日本名匠伝」の題字を揮毫する。
1967年(昭和42年)、日本版画院より名誉会員に推挙される。10月にクリーブランドにて開催される「棟方志功板画屏風形体ワンマンショー」出演のために渡米し、板画のほかリトグラフも制作した。その後ブルックリン美術館、スミソニアン美術館で巡回展示され、翌年1月に帰国する。なお、棟方はこの時訪れたセントルイスで、知人のグッドマン夫妻宅の音楽会に招かれている。1968年(昭和43年)4月、劇団民藝公演のアーサー・ミラー作『ヴィシーでの出来事』の舞台美術を手がける。1969年(昭和44年)2月17日、青森市から初代名誉市民賞を授与される。10月に講談社から芸業四十周年記念出版『棟方志功板画大柵』が刊行され、朝日新聞社主催の『板芸業四十年記念棟方志功障壁画展』が開催される。保田與重郎の短歌を彫り上げた『炫火頌板画柵屏風』(かぎろいしょうはんがさくびょうぶ、全十二柵)を制作。
1970年(昭和45年)、日本各地を巡る『海道シリーズ』の制作開始。NHKにて本人出演のドキュメンタリー『板画まんだら 棟方志功の世界』(音楽:高橋竹山・宇野誠一郎、ナレーター:籠野博嗣)が放映され、8月には大阪万博・日本民芸館のための板画壁画『大世界の柵・乾 - 神々より人類へ』が完成した。11月には文化勲章を受章し、文化功労者に叙された。1971年(昭和46年)2月に沖縄へ旅行。5月に天皇・皇后が主催する赤坂御用地での園遊会に招待され、天皇・皇后・皇族から話しかけられる。陸奥新報の創刊二十五周年を記念して、この年の弘前ねぷた祭りのために『天の磐戸』(あまのいわと)、『天照大神』(あまてらすおおみかみ)の扇ねぷた絵を描く。1972年(昭和47年)、草野心平とともに、2月から3月にかけてインドへ取材旅行し、7月にカジュラーホーの神々を題材とした、幅七メートルに及ぶ『厖濃の柵』(ぼうのうのさく)を制作。10月にインド大使館の後援により、インド独立二十五周年記念展覧会『棟方志功芸業頌厖濃展』(げいごうしょう ぼうのうてん)を開催した。1973年(昭和48年)、河井寛次郎記念館の開館記念に看板の文字を揮毫。材料となる欅の木工は黒田辰秋が手がけた。7月には新横綱、輪島大士の化粧まわしを描き、8月には八甲田山系の連作倭画『八甲田連山図』を制作。12月31日、第24回NHK紅白歌合戦に審査員として出場する。
1974年(昭和49年)1月、平凡社『別冊太陽』のために、倭画『禰舞多運行連々絵巻』を描く。3月から8月にかけて、毎日映画社にて記録映画『彫る 棟方志功の世界』を撮影。5月には1972年から始めた松尾芭蕉の「おくのほそ道」紀行が完結。6月には『棟方志功油画展』(油彩)を開催した。7月には名前を志功から志昂に改名するが、半年ほどで元の名前に戻した。同じ頃、八戸市公会堂のための緞帳をデザインする。この夏に日本で制作した最後の板画作品となる『不盡の柵』(むじんのさく)を制作。8月5日、青森市の三内霊園に自身と千哉子夫人の生前墓を建立するため、墓碑の版下スケッチを描き、『静眠碑』(せいみんひ)と名付けた。これは崇敬していたゴッホの墓を模した夫婦連名の墓となっている。9月17日から10月15日まで、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載。10月18日に渡米し、約一か月間ダラス、セントルイス、ニューヨークなどで板画展を開催、グッドマン夫妻とも再会を果たした。棟方は各大学で「日本の禅と美」というテーマで講義を行ない、ニューヨークではリトグラフを制作したが、10月末に体調を崩してニューヨークで療養したあと12月2日に帰国し、東京慈恵会医科大学附属病院に入院する。
1975年(昭和50年)3月、大縣神社に絵馬を奉納する。4月26日に退院し、5月には安川電機製作所のカレンダーとして、富山県南砺市の瞞着川の河童を描いた1943年(昭和23年)作の板画『瞞着川板画巻』(だましがわはんがかん)全三十四柵より十三柵を選んで彩色を施すが、これが最後のまとまった仕事となった。同じ月に棟方は絶筆となった倭画『白木観音 四万六千日のための観音像』を描き、6月5日に瞞着川の彩色板画についての口述を残したあと、9月13日に肝臓がんのため東京の自宅で死去。72歳没。同日付けで従三位に叙された。戒名は華厳院慈航真𣴴志功居士。棟方の亡骸は生前の希望通り、青森市の三内霊園にある「静眠碑」に埋葬された。静眠碑の背後にある久栗坂石の石碑には、以下のように『不盡の柵』を刻んだブロンズ・レリーフの銘板が嵌め込まれている。
棟方がこの碑文について語った言葉が残っている。
「得ズ……」ないところがいいですよね。
驚いても オドロキきれない
結局、無限なんですよ。未来永永ですよ。
喜んでも ヨロコビきれない
悲しんでも カナシミきれない
愛しても アイシきれない
—1974年8月5日述
棟方の命日はこの銘板にも刻まれている故人が愛した草花にちなみ、沢瀉忌(おもだかき)と呼ばれ、毎年参拝客が訪れている。
※1968年1月9日から2月18日まで開催。『大世界の柵』、『二菩薩釈迦十大弟子』、『海山の柵』などが展示されている。
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