伊号第八潜水艦(いごうだいはちせんすいかん)は、大日本帝国海軍の潜水艦で伊七型潜水艦(巡潜3型)の2番艦。第二次世界大戦の最中に遣独潜水艦作戦としてドイツと日本を往復したことで知られる。
伊号第八潜水艦 | |
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伊8 | |
基本情報 | |
建造所 | 川崎造船所 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 一等潜水艦 |
級名 | 伊七型潜水艦 |
建造費 | 10,335,000円(予算成立時の価格) |
艦歴 | |
計画 | ②計画 |
起工 | 1934年10月11日 |
進水 | 1936年7月20日 |
竣工 | 1938年12月5日 |
最期 | 1945年3月31日戦没 |
除籍 | 1945年8月10日 |
要目 | |
基準排水量 | 2,231トン |
常備排水量 | 2,525トン |
水中排水量 | 3,583トン |
全長 | 109.30m |
最大幅 | 9.10m |
吃水 | 5.26m |
機関 | 艦本式1号甲10型ディーゼルx2基 |
推進 | 2軸 |
出力 | 水上:11,200馬力 水中:2,800馬力 |
速力 | 水上:23.0ノット 水中:8.0ノット |
燃料 | 重油800トン |
航続距離 | 水上:16ktで14,000海里 水中:3ktで60海里 |
潜航深度 | 安全潜航深度:100m |
乗員 | 竣工時定員100名 |
兵装 | 40口径十一年式14cm連装砲x1基2門 九三式13mm連装機銃x1基2挺 (もしくは2基4挺) 八八式53cm魚雷発射管x6門(艦首6門)/魚雷x20本 |
搭載機 | 水上機x1機 呉式1号4型射出機x1基 |
1934年(昭和9年)の②計画により同年10月11日川崎造船所にて起工し、1936年(昭和11年)7月20日進水、1938年(昭和13年)5月27日艤装員事務所を神戸海軍監督官事務所内に設置し事務開始。同年6月1日、艦型名が伊七型に改正。同年12月5日に竣工した。竣工と同時に横須賀鎮守府籍となり、第二艦隊第2潜水戦隊に編入された。
1939年(昭和14年)11月15日、伊8は横須賀鎮守府部隊所属となる。
1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加。11月15日、伊8は第六艦隊第3潜水戦隊に編入。
1941年(昭和16年)10月3日、伊8は大鯨から第3潜水戦隊旗艦を引き継いだ。
太平洋戦争開戦時は第六艦隊第3潜水戦隊旗艦。1941年(昭和16年)11月11日、伊8は佐伯を出港。20日、クェゼリンに到着。24日にクェゼリンを出港。12月8日の真珠湾攻撃時には後詰めとしてオアフ島付近に出撃した。その後一旦クェゼリンに戻った後、1942年(昭和17年)1月12日にはクェゼリンを出港し、2月3日にサンフランシスコ沖に到着。夕方ごろには輸送船7、駆逐艦3を発見。その後北上し、7日にはシアトル沖に到達。9日には哨戒区域を離れ、3月2日に呉に到着して整備を受ける。整備完了後、横須賀に移動。
4月15日、伊8は横須賀を出港。航行中の4月18日、ドーリットル空襲が起こったため米機動部隊の捜索を行うが、見つけることはできなかった。その後、第3潜水戦隊司令官三輪茂義少将が病気を患ったため横須賀に反転。症状が重かったため第3潜水戦隊司令は26日に河野千万城少将に交代となった。その後再度横須賀を出港してクェゼリンに向かう。5月6日、ルオット島の45度400浬で第十一航空艦隊の一式陸上攻撃機に誤爆される。60kg爆弾8発を投下され、伊8は潜航不能となってしまったため反転。16日に呉に到着し修理を受ける。同日、連合艦隊第5潜水戦隊に編入され、第3潜水戦隊の旗艦は、急遽同戦隊に編入した伊11に変更される。7月10日、第5潜水戦隊の解隊に伴い、南西方面艦隊付属となる。8月20日、第六艦隊付属となる。
修理完了後、佐伯に移動。8月27日には特設巡洋艦盤谷丸と衝突事故を起こし損傷したため、再度呉に移動して修理を受けた後、佐伯に戻った。9月15日、佐伯を出港。18日にはトラック島に到着。その後出港し、ガダルカナル島方面での哨戒任務につく。11月2日にはエファテ島ポートビラとハバンナを航空偵察。1943年(昭和18年)1月23日にはカントン島を砲撃した。3月21日には呉に到着し、整備と遣独作戦に備えた改造を受ける。4月1日、第8潜水戦隊第14潜水隊に編入。
5月19日から21日にかけて、瀬戸内海で伊10と共に燃料補給訓練を行った。25日、第8潜水戦隊付属となる。
1943年6月1日に第2次訪独潜水艦として呉を出港。目的はヒトラーから無償譲渡されるUボートU1224(日本名:呂号第五百一潜水艦)の日本回航の搭乗員(乗田貞敏少佐以下51名)の輸送のためであった。作戦中の暗号名は「フレッツィア」または「リラ」。この作戦のために3月21日より呉海軍工廠で魚雷発射管室を居住区にするなどの改造を行った。
艦長の内野信二大佐と大尉以上の士官はパリ経由でベルリンを訪問し、カール・デーニッツ海軍総司令官と面会する。この訪問の最中、9月8日にイタリアが無条件降伏している。この他、通信長の桑島斉三大尉他数名がベルギーのオーステンデの電波兵器学校に派遣され、レーダー装置の取扱いなどの訓練を受けている。
呂号第五百一潜水艦の回航要員の他、積み込んでいた酸素魚雷、潜水艦自動牽吊装置(図面)、錫、天然ゴム、雲母、キニーネ等がドイツ側に提供された。
帰路の積み荷はダイムラー・ベンツ高速艇発動機MB501と取扱い装置や設計図面、メトックス受信機、エリコン20ミリ機銃120挺、エニグマ暗号機169台などであった。軍事物資の他には、海水の塩分濃度測定に必要となるがデンマークの戦いの影響で輸入が途絶していた標準海水(コペンハーゲン水)5アンプルを積載した。
また、後甲板にはドイツから譲渡された20ミリ4連装対空機銃が装備された。呂501(U 1224)に乗田貞敏少佐以下51名を移乗。
呉に到着後、三井造船玉野造船所に回航されて整備と復元が行われた後、呉に戻った。
有泉が艦長であった期間に、以下の事件が起きたとされる。
この二つの殺傷事件には背景があった。1943年9月、有泉の上司に当たる第八潜水戦隊司令官・市岡寿少将(42期)は、東京の軍令部首脳から「ドイツのリッベントロップ外相から日本に対して、連合国の商船を撃沈した場合、乗組員も全滅させてもらいたいという要請があり、海軍も同意した。貴官もそのつもりで敵船乗員の処分は徹底的にやってもらいたい」と言われていた。 ドイツは、大西洋でUボートによりいくら米・英の船を撃沈しても、新たに大量に建造されるので効果が現れない。そこで船員を殺すことを考えついたわけである。ドイツ側から要請があったことは、戦後の軍事裁判で米国の弁護士が明らかにした。このような背景により伊26や伊37でも同様の事例が発生した。
同時期における似たような事例としてはサ号作戦において発生したビハール号事件があった。
有泉は、司令として搭乗していた伊401で終戦を迎え、米軍の接収後に自決した。この事件については戦中から連合国の抗議が行われていたが、第八潜水戦隊の副官であった近藤道生は自決していた有泉に責任を負わせている面があること、有泉自身は敵船乗員の処分に反対していたことを証言している。
1942年3月から1943年6月まで第六艦隊司令長官を務めた小松輝久中将(37期、北白川宮の第四子)は、戦後この事件の責任を問われ、横浜の軍事法廷は重労働15年を言い渡した。また、市岡少将には1948年2月、重労働20年の判決が言い渡された。直接関係のない前任者の石崎昇少将(42期)にまで重労働10年の刑が課された。
戦後、戦犯裁判の対策に当たっていた復員庁第二復員局の豊田隈雄大佐が第六艦隊参謀長だった三戸寿中将に確認したところ、確かに軍令部から派遣された参謀からそのような口頭命令があったこと、現場の艦長が口頭命令でそのようなことはできないと反発したので仕方なく命令書を作成したことを内密に打ち明けたという。
1945年3月20日アメリカ軍の沖縄来攻により佐伯を出港した。3月28日1805、輸送船2、駆逐艦4の船団を那覇から150浬離れた地点で発見した、という報告を最期に、日本側からは消息不明となる。3月30日23:08に沖縄本島沖で、油槽船、輸送艦及び駆逐艦を含む機動部隊の一艦として慶良間諸島に向かう途中の米駆逐艦「ストックトン」に目的地から東南90マイルの地点で、12000ヤードの位置にレーダーで捉えられた。米機動部隊司令官は、隊内通話(無電)で、この見慣れぬ艦に話しかけようとした。なぜなら、この海域は友軍船団の集結地点だったからである。しかし応答はなかった。ストックトンは目標を追跡せよとの命令を受けた。直ちに変針すると、潜航しようとする一隻の潜水艦が映った。
3月30日の夜間23:39から翌日の暁02:39の間、駆逐艦ストックトンは深度70、爆雷攻撃をもって、潜航中の伊8に対して攻撃した。7回目の攻撃の後、海面に重油が噴き出し、伊8は損傷した。やがて、米対潜攻撃機が照明弾投下のため現場に飛来した。新たに近接してきた駆逐艦「モリソン」(艦長J.R.ハンセン)はストックトンを援護するように命令を受けた。指定集結地点に到着すると、モリソンは煌々と照らし出されている伊8を発見し、ストックトンが照明攻撃を指揮しているところであった。ストックトンは伊8との接触を見失った。しかしモリソンも2分以内に捕捉し、これを援護した。ストックトンは03:24に攻撃目標を再び捕捉し、爆雷を深度11と浅く調整して03:30に投下した。伊8は艦首から浮上してきた。伊8の艦首は、ストックトンの後方わずか900ヤードであった。転舵するにも衝突させるにも近すぎるのでモリソンは全火器で水平射撃を開始した。伊号潜水艦の上部構造物は吹き飛び、気泡を噴出した。ストックトンは片舷用爆雷投射機3基で攻撃した。伊8は30分以上もローリング・ピッチングしながら集中砲火を浴びた。船体は命中弾を受けて穴があき、全甲板は剥ぎ取られ、艦橋は爆発によって粉砕され、04:12に艦尾から沈んでいった。
夜が明けるとともに、重油と破壊された残骸が混ざって大量に現われた。この漂流物の中に2人の日本人の死体が浮遊し、1人の潜水艦乗組員(向井隆昌二曹)が泳いでいた。米側が通訳を介して沈んだ潜水艦名を尋ねたところ、「もし逆に貴様の艦が沈められたら、貴様は自分の艦名を公言するか」と向井は返答した。伊8の艦名は、戦後になって、沈没時の第六艦隊司令長官・三輪茂義中将の記録に載っていたことで米側に確認された。
なお、伊8を撃沈したモリソンは1945年5月4日沖縄洋上で特攻機によって撃沈された。
向井は「伊号第8潜水艦史」(伊8潜史刊行会編)で以下のように証言している。
「 | 「急速浮上砲戦メンタンクブロー」が発令されました。……艦長の「しっかりブローしろ」の声。発令所から′浮上ります′の声。艦は艦首を上に20度位の傾きで飛び上がるようにボンと浮上しました。ハッチを開き、見張り員を先頭に、砲員がブリッジにでました。私達砲員が艦橋に出ると右側に敵駆逐艦が見えました。すぐ砲戦、機銃戦です。ドイツから持ち帰った20ミリ連装機銃が一番早く応戦して火を吹きました。私は、砲員なので左側から甲板に飛びおり、杉本哲夫二曹と2人で、40口径14センチ連装砲へ駆け寄り、2発装填した瞬間、敵弾の直撃で破片を両足と胸に受け、こん畜生と思いました。その時、私の名を呼ぶ砲長岡田茂郎上曹の声がするので、そばに駆け寄りますと、顔が半分とび散り、電波探知器にもたれたまま戦死されました。……艦橋は直撃を受けて大破し、人が自由に出入り出来る程の大穴が開いていました。……そこで私は、砲側へ引返して応戦しようとしたとき巡洋艦を発見しました。2隻の米艦に挟撃されていたわけです。このとき負傷した砲員の欠月補充に主計兵が「一人どうか?」といってこの大穴から飛び出して来ました。私は返事をする間もなく射手席にもどり、大砲を発射しようと懸命に努力しましたが、どうしても発射出来ません。互いに交戦しながら、あい対する角度は90度、距離3000メートル付近になった時、わが伊号第8潜水艦は機銃戦を続行しつつ、しかも銃口からは、最後の最後まで火を吹きながら一瞬の間に海中に突っ込み、私を除く全乗組員艦長以下128名は艦と運命をともにしました。 | 」 |
沈没地点は、沖縄那覇の南東1026km地点付近、北緯25度29分 東経128度35分 / 北緯25.483度 東経128.583度。
同年4月10日、沖縄方面で沈没と認定、8月10日除籍。
撃沈総数は5隻で、計26,492トン(帆船1隻のトン数を除く)にのぼる。
帰港時にマストに鯉幟を掲げることで知られていた。
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