ユダヤ人問題の最終的解決(ユダヤじんもんだいのさいしゅうてきかいけつ、エントレーズング、独: die Endlösung der Judenfrage、英: the Final Solution to the Jewish Question)とは、第二次世界大戦中、ヨーロッパにおけるユダヤ人に対して組織的にホロコースト(大量虐殺)を行うナチス・ドイツの計画のことを指す。
翻訳によっては、「的」の字がないユダヤ人問題の最終解決と書かれる場合もある。この用語は、虐殺の推進を管理していた親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンにより作られた言い回しである。この表現には、ヨーロッパのユダヤ人の存在自体が「問題」であるというナチスの信条と姿勢を反映していた。
最終的解決の計画が完全に準備される1942年よりも前に、既に100万人に近いユダヤ人が大量殺害されていた。しかし、「死の収容所」とも呼ばれる絶滅収容所を建設し、ユダヤ人の大量殺害を工業的に行うことを本気で開始したのは、ヨーロッパに住む全てのユダヤ人を根絶させることを決定したとき以降であった。この決定は、1942年1月20日にベルリンのヴァンゼー(ヴァン湖)にある別荘でのヴァンゼー会議においてなされた。その会議では、「ユダヤ人問題の最終的解決」を決定した、ナチスの高官の集団により行われた議論があった。この会議の記録と議事録は、戦争終結時に連合国によって完全な形で発見され、ニュルンベルク裁判で価値ある証拠として提出されることになる。
1942年春、それ以前に死の部隊や大量殺戮により既に数十万のユダヤ人が殺されていたが、ラインハルト作戦 (Operation Reinhard) によって、ユダヤ人の組織的な根絶が開始された。1943年10月6日のポーゼン会議におけるハインリヒ・ヒムラーの発言によって、初めて、帝国の集められたリーダーたちの前で「最終的解決」が実際に意味しているものが、簡潔で残忍な表現で説明された。
第二次世界大戦が始まる前の1939年1月30日の政権獲得6周年記念の式場、総統アドルフ・ヒトラーはヨーロッパでいずれ発生するホロコーストを予言するかのような発言を行った。
今日、私は再度予言する。たとえヨーロッパ内外の国際的なユダヤ人資本家が国々を再度世界大戦に突入させることに成功しようとも、結果は地上のボルシェヴィキ化すなわちユダヤの勝利ではなく、ユダヤ人種の絶滅に終わることになるだろう!
歴史家のあいだで現在でも議論の対象となるのは、ヨーロッパのユダヤ人を根絶する決定をナチスの高官らがくだしたのは、正確にはいつのことかという問題である。最終的解決の概要が1941年の夏から秋にかけて徐々に行われた点については、意見の一致が見られる。
ホロコーストの研究家クリストファー・ブラウニングは、ユダヤ人を根絶するという決定は、2段階で行われたと述べている。第一段階は1941年7月、親衛隊の特別編成部隊である国家保安本部特別行動部隊(アインザッツグルッペン)がドイツ軍占領下のロシアでユダヤ人を大量虐殺した。第二段階は1941年10月、残るヨーロッパのユダヤ人を根絶するというものであった。この視点では広い証拠が存在する。たとえば、1941年7月31日、ヒトラーの指示のもと、ヘルマン・ゲーリングがSSのナンバー2であるラインハルト・ハイドリヒに「ユダヤ人問題の最終的解決を望ましい形で実行するために必要な行政的なシステムと金銭的な方策の計画を可能な限りすぐ自分に提出するように」命令した[1][リンク切れ]。
クリスティアン・ゲルラッハは異なる時系列を主張している。1941年12月12日のナチス党全国指導者 (Reichsleiter) と地方組織である大管区指導者 (Gauleiter) の集会での演説が行われた際に、決定はヒトラーにより提案されたというものである。ヒトラーの個人的な発言の翌日の1941年12月13日の日誌の記録では、ヨーゼフ・ゲッベルスは、以下のように記述している。
ユダヤ人問題に関して、総統は問題を簡単にすることにした。総統は、ユダヤ人が新たな世界大戦を引き起こすのであるなら、彼ら自身を破滅させることを警告した。これは意味の無い言葉でなく、世界大戦は起こっている。ユダヤ人の破滅は結果として必然だ。我々はそれに対して感情的になってはいけない。ユダヤ人に対して思いやりを持ってはいけない。同情はドイツ民族に対して行われるべきだ。ドイツ人が16万の犠牲者を東方の戦線で出しているが、この流血の犠牲は彼らの命で払われなくてはいけない。 — [2]
この決定後、最終的解決を効果的に行う計画が立てられた。
たとえば、12月16日に、ポーランド総督府の高官による集会で、ポーランド総督ハンス・フランクはヒトラーの演説を引用して、ユダヤ人の根絶を行うと言うことを記述している。
ユダヤ人に関して言えば、私は彼らに終わりをもたらすため1つか2つの方法を率直に述べることができる。総統は、次のような方法を提案した。もし、ユダヤ人同士の協力した力が世界大戦を起こすことに再度成功したら、それは、ヨーロッパのユダヤ人の終わりということだ。・・・私は、君たちにこう言う。私と共に立ち上がろう。・・・少なくともこの考えで、ドイツの人々への同情心を取っておき、世界の他の人々のためにそれを無駄に使うなどとしてはいけない。・・・それゆえ、私は彼らが消滅していくという根本的な期待をしている。彼らは取り除かれるべきである。現在、私は彼らを東へ取り除くための議論に参加している。1月にこの問題について議論するための重要な会合がベルリンで行われる。私はこの会合に次官のビューラー博士を送る予定だ。国家保安本部の高官とラインハルト・ハイドリヒの元で行われる会合だ。その結果で、ユダヤ人の大量の移住が始まる。だが、これらのユダヤ人に何が起こるのか?きみたちは、彼らが東方に移住し村を作って住んでいるところを想像できるだろうか?ベルリンで我々は話した。なぜ、これらの問題全てが我々に降りかかっているのか?東方や帝国の辺境で、我々が彼らにできることは何も無い。彼らは自分たち自身を消し去るしかないのだ!・・・ここには、我々が射殺することも、毒殺することもできない350万のユダヤ人がいる。しかし、我々ができることは、1つか2つの策、それは彼らを消し去ることである。帝国では方策に関連して議論中である。・・・これがどこで、どの様に行われるかは、我々が構築し運営しようとしている組織の問題である。我々は、この任務に関して適当な時に報告する予定である。
フランスがドイツに降伏した1940年頃、ヨーロッパの全ユダヤ人をフランス領であったマダガスカルへ送るという漠然とした計画が立案された。アドルフ・アイヒマンは1942年のヴァンゼー会議以前にはこの選択を支持していたが、この会議の席上で、"最終的解決"が何を意味するかということを告げられた。SS長官のヒムラーは1940年に、一民族を根絶させるというのは共産主義的なやり方であるとして却下するならばアフリカ等に強制移住させるのが最も穏便かつ最善の策だと述べていた。この計画は英国が降伏後イギリス海軍を使用して行うこととなったが、イギリスは降伏せず、マダガスカル計画は放棄された。
1941年11月1日に、最初の絶滅収容所が建築された。ベウゼツ (Belzec)、ソビボル (Sobibor)、トレブリンカ (Treblinka)、ヘウムノ (Chełmno)、マイダネク (Majdanek)、そして、最後にはアウシュヴィッツ=ビルケナウの順に建設された。ユダヤ人の大量虐殺は、1942年の初めに開始された。
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