アインザッツグルッペン(独:Einsatzgruppen)は、ドイツの保安警察 (SiPo) と保安局 (SD) がドイツ国防軍の前線の後方で「敵性分子」(特にユダヤ人)を銃殺するために組織した部隊である。
アインザッツグルッペンは複数表記で、単数形はアインザッツグルッペ(Einsatzgruppe)となり、直訳すると「展開集団」である。正式名称は「保安警察及び保安局のアインザッツグルッペン」(Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des Sicherheitsdienstes) という。本稿では「アインザッツグルッペン」と表記するが、意訳で「行動部隊」や「特別行動部隊」、「特別任務部隊」という表記もよく見られる。それ以外には「移動虐殺(もしくは殺人・抹殺・殺戮)部隊」といった意訳も見られる。
ナチス党政権下のドイツの保安警察及びSD長官(のち国家保安本部(RSHA)長官)ラインハルト・ハイドリヒにより創設された。アンシュルス(オーストリア併合)、ズデーテンラント併合、チェコの保護領下(ベーメン・メーレン保護領)、ポーランド侵攻、独ソ戦とドイツが東部へ領土を拡大するたびに保安警察、もしくは国家保安本部により組織された。
ポーランド侵攻以前のアインザッツグルッペンの銃殺活動は主に知識人・聖職者・政治家などドイツの支配に不都合となる指導層を対象とした。対して独ソ戦におけるアインザッツグルッペンは、ユダヤ人やロマ、共産党幹部などを対象に銃殺を行った。
都市が陥落するとアインザッツグルッペンはその都市の「敵性分子」を集め、森や野原に追いたて、そこで銃殺して遺体を壕に埋めた。銃殺だけではなく、ガス・トラックによる虐殺も行われた。アインザッツグルッペンは1943年に解散された。
アインザッツグルッペンの虐殺行動は一面ではパルチザン(民間人に成り済まして攻撃を行うゲリラ)掃討の意味も持っていたが、各隊隊長たちの殺害報告書には「ユダヤ人」などと人種の項目も独立して記載されているため、単なるゲリラ掃討部隊とは認められていない。ホロコーストの一翼を為すものであったとする見方が大勢である。またパルチザンと何の関係もない民間人も大勢「パルチザン」ないし「共産主義者」と勝手な認定を受けて虐殺されていった。
1938年のアンシュルス(オーストリア併合)前から保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将は、オーストリアにスパイを放ち、併合後に逮捕すべき反独的人物のリストを作っていた。このスパイ部隊をアインザッツコマンド(Einsatzkommando、出動分遣隊)と呼んだのが最初である。
1938年9月のズデーテンラント併合、1939年3月のチェコスロバキア保護国化の際にも規模を拡大して再組織された。ズデーテンラントでの組織の際にアインザッツコマンドの司令部としてアインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)が初めて置かれることとなった。
対ポーランド戦争に際してもポーランド占領をしやすくするためにアインザッツグルッペンが再度組織された。ハイドリヒは1939年9月21日にアインザッツグルッペンの指揮官たちを前に「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」などと訓示している。
ポーランドのアインザッツグルッペンは、1隊・2隊・3隊・4隊・5隊・6隊・「フォン・ヴォイルシュ」隊の7隊により構成され、それぞれの隊の下にアインザッツコマンドが複数ずつ置かれた。ポーランド戦の際のアインザッツグルッペンの総員は2700名であった。それぞれ陸軍14軍、陸軍10軍、陸軍8軍、陸軍4軍、陸軍3軍、南方軍集団の進撃を後ろから付いて行って銃殺活動を行った。「フォン・ヴォイルシュ」は軍に付随せず、ドイツとポーランドの国境付近において銃殺活動を行った。
ポーランド戦の際にアインザッツグルッペンの銃殺活動の対象にされたのは主に親衛隊情報部(SD)第二局作成の特別捜査リストに記載された教員、聖職者、貴族、叙勲者、退役軍人などのポーランド指導者層、またユダヤ人、ロマなどであった。1939年9月1日から10月25日にかけてドイツ占領下のポーランドでは民間人16,000人以上が殺害されたが、そのうち四割がアインザッツグルッペンによるものとされる。
国防軍は新参者の親衛隊が自分たちの占領地域を我が物顔で跋扈しているのを好ましく思わず、親衛隊に圧力をかけるようになった。南方軍集団司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将は「フォン・ヴォイルシュ」の活動をヒトラーに正式に抗議している。また国防軍はハイドリヒが企図していたユダヤ人を都市に集中させる「耕地整理」について民政指導部の設立により行うべきであると主張していたが、ハイドリヒは取り合わず、ワルシャワ陥落直前の1939年9月21日には農村部のユダヤ人を都市部へ集め、都市部にユダヤ人評議会を創設させてユダヤ人を一括管理させるようアインザッツグルッペンの指揮官たちに指示を出している。
西ヨーロッパへの侵攻の際にはアインザッツグルッペンは組織されなかった。陸軍が占領地で親衛隊が治安任務にあたる事を拒否したためである。
アインザッツグルッペンの虐殺が最も大規模になったのは独ソ戦の際である。独ソ戦に先立つ1941年6月に東欧やソ連の「政治的敵」の銃殺を行うためにアインザッツグルッペンが再び組織された。この際のアインザッツグルッペンは、A隊・B隊・C隊・D隊の4隊から成り、それぞれの隊の下にアインザッツコマンドとゾンダーコマンド(Sonderkommando、特別分遣隊)という部隊が複数ずつ置かれた。総員は3000名ほどであった。各グルッペはそれぞれ北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団、第11軍に付属してその前線の後方で銃殺活動を行った。またポーランド侵攻の時と異なり、それぞれのグルッペを管轄する親衛隊及び警察高級指導者(Höhere SS- und Polizeiführer)も定められた。ハイドリヒの独断専行を抑えるためのヒムラーの配慮と思われる。
ソ連占領地ではドイツ軍に対するパルチザン活動が激しかったため、「パルチザン」「共産主義者」などの容疑をかけられて虐殺される民間人が急増することとなった。しかも戦時中にナチスはユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)を推し進めており、アインザッツグルッペンがそのための虐殺も行ったため、犠牲者数はこれまでのアインザッツグルッペンの活動とは比較にならないほどの数に上った。継続裁判のアインザッツグルッペン裁判では、独ソ戦中のアインザッツグルッペンによる犠牲者は85万人から130万人といわれるが、実際には誇張されており、約半分の約56万人であるという説もある。多くはユダヤ人であり、独ソ戦開始から1941年末までだけでソ連領のユダヤ人50万人が殺害されたという。
独ソ戦でのアインザッツグルッペンの殺戮が効率的だったのはこれまで非協力的だったドイツ国防軍が協力的になったことも影響している。国防軍も人種差別はともかく反共主義には全面的に賛成であり、共産党幹部やボルシェヴィキに対しては情けは無用と考えていたため、それらに属する人物は民族を問わず逮捕の対象となったからである。
アインザッツグルッペンDの司令官だったオットー・オーレンドルフの証言によると、1942年春にヒムラーから女子供については今後は銃ではなくガストラックによって殺すよう命じられたという。その理由はロシア占領地親衛隊及び警察高級指導者エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキーの証言から推察できる。その証言によると1941年8月にヒムラーがミンスクに来てアルトゥール・ネーベが司令官を務めるアインザッツグルッペBの銃殺を視察したのだが、死体を見たヒムラーが気分が悪くなってよろけてしまったという。この際にヒムラーは銃の撃ち方が下手すぎるせいだと怒っていたという。ガストラックの開発は国家保安本部の将校ヴァルター・ラウフ(de:Walter Rauff)SS大佐が中心となって行った。ラウフは戦後「大量射殺は兵たちの大きな精神的重圧になっており、それから兵たちを解放してやるためにガストラックを導入した」と証言している。
アインザッツグルッペDにはパウル・ブローベルSS大佐が率いる1005特務班が含まれていた。この部隊はアインザッツグルッペンの大量虐殺の証拠の隠滅にあたった。
戦後、アインザッツグルッペンの指揮官の多くは戦争犯罪人とされて裁判にかけられた。特にアメリカ軍が開廷したニュルンベルク継続裁判の1つアインザッツグルッペン裁判がアインザッツグルッペンを裁いた法廷として有名である。24名の指揮官が起訴され、うち22名が死刑か懲役刑に処せられた。21世紀に入ってからも、D部隊(ウクライナで1941年から42年にかけて10万人の殺害に関与したとされる)に所属したカナダ在住のドイツ系ウクライナ人元隊員がカナダ籍を剥奪されドイツに強制送還されるなど、摘発が行なわれている。
アインザッツグルッペンは、国家保安本部長官のハイドリヒ、あるいはその上位者である親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命令によって動いていたが、軍への臨時動員の形であったので、形式的には国家保安本部に属さず、軍や軍集団に属した。そのため国防軍も移動や補給など一定の範囲ではアインザッツグルッペンに命令することができたとみられている。
アインザッツグルッペンは混成部隊である。その指揮官は国家保安本部(ゲシュタポ、刑事警察、SDなど)の将校たちで占められている。一方、その指揮の下に銃殺を行う兵士たちは武装親衛隊隊員と親衛隊上級大将クルト・ダリューゲ配下の秩序警察(オルポ)の警察官が多い。保安警察やSDは単独ではたくさんの人員を確保できないので武装親衛隊や秩序警察から人員を借りたのである。
以下に独ソ戦の際の「アインザッツグルッペンA」の構成を一例として記載する。
アインザッツグルッペンは全く人気のない部隊で、隊員のほとんどは強制的に来させられた。
アインザッツグルッペンの指揮官である国家保安本部の将校たちは、長官ラインハルト・ハイドリヒの命を受けた者である。ハイドリヒは部分的忠誠心しか捧げない部下が嫌いだった。つまり彼の下では「中間的な存在」「名誉職的な存在」でいる事は許されないということである。特にその傾向が強い「非軍人的な軟弱な知識人」にこの殺戮任務を負わせることでナチズムと運命共同体にして反ナチ派となる可能性を奪いとろうとした。実際アインザッツグルッペン指揮官に任じられたのはオットー・オーレンドルフやフランツ・ジックス、オットー・ラッシュ、ヴァルター・ブルーメ、マルティン・ザントベルガーなどインテリ肌の者が多い。またハイドリヒのキリスト教嫌いのためか、牧師のエルンスト・ビーバーシュタインもアインザッツグルッペンの指揮官に任じられている。オーレンドルフはアインザッツグルッペンの指揮官になる事を2回拒否したが、避けがたい3回目の命令で受けるしかなくなったという。アインザッツグルッペンの指揮官になることは国家保安本部での昇進や地位の保全の条件になっていたと考えられている。
その指揮を受ける隊員は武装親衛隊か秩序警察(オルポ)の警察官が多かった。特に武装親衛隊員はアインザッツグルッペン総員の半数近い1500名の人員を出している。武装親衛隊員にとってはアインザッツグルッペンは懲罰部隊であった。第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」師団長ゲオルゲ・ケプラー(de)は「彼らは勤務に遅れたり、居眠りしたため軍法会議にかけられ、アインザッツグルッペンに志願すれば免責すると言い渡された者たちである。厳罰や武装親衛隊員としてのキャリアが終わる事を恐れる者はこれに志願し、特別な訓練を受けて殺人者になった。何をさせられるかに気づいて志願を拒否した場合は懲罰としてアインザッツグルッペンへの配置替え命令が下達された。命令なので拒否した場合は銃殺である。(略)こうしてまともな若者たちが犯罪者になり下がってしまった」と述べている。
一方、エストニア人やリトアニア人、ラトビア人、ウクライナ人など現地の対独協力者も補助警察官としてアインザッツグルッペンに参加しているが、彼らは熱狂的な反ユダヤ主義者であり、自ら望んで殺戮していることが多かった。しばしば手当たり次第にユダヤ人を殺すので、殺害数のカウントなど「秩序ある殺戮」を遂行するドイツ人隊員たちが止めねばならないほどだったという。
ポーランドでの移動虐殺部隊は6つのアインザッツグルッペンとその下の16のアインザッツコマンドから構成された。総人員は2700人から3000人ほどであった。
ゾンダーコマンド1a
ゾンダーコマンド1b
ゾンダーコマンド1c
アインザッツコマンド2
アインザッツコマンド3
ゾンダーコマンド7a隊長
ゾンダーコマンド7b隊長
ボルコマンド「モスクワ」/のちゾンダーコマンド7c隊長
アインザッツコマンド8隊長
アインザッツコマンド9隊長
ゾンダーコマンド4a
ゾンダーコマンド4b
アインザッツコマンド5
アインザッツコマンド6
アインザッツコマンド10a
アインザッツコマンド10b
アインザッツコマンド11a
アインザッツコマンド11b
アインザッツコマンド12
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