東経140度25分14秒 / 北緯36.183309度 東経140.420637度 / 36.183309; 140.420637 百里原海軍航空隊(ひゃくりはら かいぐん こうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。攻撃専修搭乗員の教育を推進するため、攻撃機に搭乗するまでの実機練習を推進した。しかし絶対国防圏策定後の昭和19年以降は哨戒実施部隊となった。末期には特別攻撃隊を編成し、沖縄方面の特攻作戦に従事した。
昭和13年、茨城県東茨城郡橘村・白河村に筑波海軍航空隊の補助飛行場が建設され、実用機専修の筑波空と連動して練習機専修の分遣隊を設置することとした。百里原分遣隊は昭和13年12月15日に開かれ、村民の歓迎を受け、300名の隊員が着任した。1年後に独立航空隊となるが、基地機能が急激に増強されるのは、爆撃機・攻撃機の慣熟訓練を兼任するようになった昭和18年以後のことである。
終戦後解隊。
終戦時には、実施部隊の六〇一空に加えて、防空用の零式艦上戦闘機も備えた決戦体制に移行していたが、5月に解散した部隊の練習生を含めて多くの隊員を擁し、教育部隊としての籍を残していた数少ない部隊である。しかし、陸海軍の航空基地が密集する茨城県・千葉県は頻繁に戦略爆撃や機動部隊の強襲を受けており、教育は一向に進捗しなかった。その一方、飛行訓練が可能な初歩練習生がそろっていたため、予科練生のような任務転換はあまり見られなかった。
終戦後、飛行場は引揚者の開拓地に転用され、いったん破壊されることとなった。しかし航空自衛隊は入間基地に代わる戦闘機基地を模索しており、昭和31年に旧百里原飛行場の再開をもくろんだ。百里基地訴訟をはじめ様々な問題を起こしつつも、百里基地は昭和41年に開隊された。以後、首都圏で唯一の戦闘機運用が可能な基地として機能し、例年の航空観閲式は多くの見学客で賑わう一方、基地反対派の活動も活発である。2009年以降の民間機共用開始を目指し、民間航空施設の増設が進行したことから、2010年に民間共用化され 茨城空港(いばらきくうこう)として営業を開始した。
1945年(昭和20年)6月23日正午ごろ、米軍機が大挙して飛来し、約40機が迎撃のために基地から飛び立った。
茨城町では迎撃機4機が墜落して搭乗員3人が戦死し、墜落地点には1946年(昭和21年)に木碑が建てられた。2008年(平成20年)6月と8月に元予科練生らが現場で慰霊祭を開催し、2009年(平成21年)6月には「甲種飛行予科練の碑」の石碑が建てられた。その後、2011年(平成23年)に付近の工事でゼロ戦の尾輪部分が発見された。2019年(令和元年)に地主が変わり県道内原塩崎線を入った山林に移されたが、移転時に付近の地中から遺骨が見つかった(2022年3月のDNA鑑定で甲種予科練生の遺骨であることが判明した)。
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