彗星(すいせい)は、大日本帝国海軍の艦上爆撃機。略符号はD4Y1~Y4。連合国軍のコードネームは「Judy」。試作機は十三試艦上爆撃機(じゅうさんしかんじょうばくげきき)であり、その改造機が二式艦上偵察機(にしきかんじょうていさつき)である。彗星と二式艦上偵察機の相違は曖昧である。ここでは二式艦上偵察機についても述べる。
空技廠 D4Y 彗星
艦上爆撃機「彗星」と「二式艦上偵察機」は同じ十三試艦上爆撃機から制式化された機体である。一つの試作機から二つの制式機が採用されるのは珍しく、また相違について様々な意見が存在するが、明確に区分された特徴がなく曖昧である。胴体内爆弾倉と断面積の小さな液冷エンジンを搭載することで空気抵抗を最小限に抑えた高速爆撃機として開発が始まり、九九式艦上爆撃機の後継機として「彗星」になり、また、実験中の十三試艦爆を艦上偵察機として採用したものが「二式艦上偵察機」である
海軍の航空技術研究機関である海軍航空技術廠(以下、空技廠と略)で開発された本機は、当時の最新技術を多数盛り込んだ性能優先の設計とされた。本機で採用された機構は彗星自身の高性能化に貢献しただけではなく、後に開発される彩雲、晴嵐といった海軍機の多くにも採用された。最大の特徴は日本軍の艦載機としては初めて搭載された水冷エンジンで、同盟国ドイツのダイムラー・ベンツから購入したDB601Aをライセンス生産した「アツタ」二一型を搭載したが、決して大馬力とは言えない離昇1,200馬力で最大速度552 km/h(のちにアツタ三二型1,400馬力に換装されて580 km/h)の爆撃機らしからぬ高速性能を保持した。そのため、太平洋戦争後半期にはその高速性能を活かして夜間戦闘機としても運用されている。
反面で複雑な構造や水冷エンジンの採用は日本の生産・運用事情を考慮したものではなかったため、生産面や整備面で様々な不具合を惹起し稼働率の低下を招いた。ただし、生産性について設計主務者の山名正夫は「艦上機であるので保有空母数の制約によりあまり多数は生産されないと考えていた」としている。特に水冷エンジンの生産が機体の生産数に追いつかず、航空機の大増産が進められる中で、生産性・信頼性の高い空冷エンジンに換装した三三型が製造されることとなった。元々、水冷型エンジンを考慮した胴体幅が細い機に太い空冷星型エンジンを搭載したため、速度の低下と上昇性能の悪化をまねき、空母艦載機や夜間戦闘機用途など優先度の高い部隊には引き続き水冷型エンジン搭載機が配備されることが決定し、水冷型彗星を製造してきた愛知航空機が空冷型彗星の製造へ転換した代わりに、水冷型彗星は製造場所を呉の第11海軍航空廠に移して終戦まで生産された。太平洋戦争末期に数的には主力となった空冷型彗星は、その後に特別攻撃用に改造された(仮称)四三型も製造されて、陸上基地からの攻撃任務や特攻に投入された。
艦爆としては異例の速度性能を実現した反面、着艦速度も従来機より高速となり、重量も増しているので艦上機としての運用は翔鶴型のような大型空母でないと機体だけで発着するのは難しく、マリアナ沖海戦を戦った隼鷹艦長は「運用が難しかった」と証言している。実際のところ海軍は艦上爆撃機と艦上攻撃機の機種統合を計画しており、両方の性能を兼ね備えた艦上攻撃機流星を開発中だった。そのため海軍が次期主力艦上機を保持している空母にどれだけ積めるか調査した際も、搭載予定機は後の烈風と流星で計算されており、事前計画の段階で彗星ではどれだけ積めるか、各空母で出した記録はなく、流星が実用化されるまでの中継ぎとしての機体だった。
十二試陸上攻撃機(一式陸上攻撃機)から採用され始めた各部の電動化を全面的に採用し、脚の出入やフラップ・爆弾倉扉の開閉に使用した。未熟な電気駆動技術による不適切な艤装やモーター出力、及び、バッテリー容量の不足から故障や不具合が発生しやすく、現場の整備員もなれていなかったことから従来の油圧駆動式に比べ信頼性に劣った。ただし、油圧駆動式採用の機体であったとしても、基礎工業力の不足や整備教育の不備に起因する油漏れに関する故障が起きており、油圧式のほうが信頼性が高かったとは一概に言えない面もある。
前面投影面積の小さい水冷エンジンの直径に合わせて胴体を細く絞り込み、風防を可能な限り低くするために背負式落下傘の新規開発まで行われている。また、日本製艦上爆撃機としては初となる爆弾倉の採用に加えて爆弾倉扉を胴体内側に畳み込む方式とすることで、爆装時のみならず爆撃時における空気抵抗の増加を防いだ。さらに、He 118を参考にラジエーターと潤油冷却器を爆弾倉の前に配置することで機首下面を滑らかに成形している。
主翼の翼型は内翼側に層流翼的翼型を採用し、外翼側は翼端失速しにくい通常の翼型にすることで、空気抵抗を増やすことなく捻り下げと同様の翼端失速防止効果を得ている。
空力的な面と爆弾倉との兼ね合いのため中翼配置とし、高速を得るために主翼面積を最小限に抑えた。また折り畳み機構を省略するために空母のエレベーターに合わせて翼幅を11 mに抑え、その一方でセミ・インテグラル式燃料タンクを採用して長大な航続力に要する大量の燃料を搭載した。
高い翼面荷重の本機は空母発艦/着艦性能を獲得するため、翼幅の60 %に及ぶセミ・ファウラー式フラップを装備した上に、フラップ全開時には補助翼が連動して左右とも10度下がる機構を持つ。それでも過荷重時の発着艦には翔鶴型以上の大型高速空母でなければ、多数機の同時運用は困難となる程の滑走距離を要した。
フラップのせいで幅と面積を制限された補助翼はバランスタブ付きで、一般的なフリーズ式ではなくプレーン式を採用。舵断面の肉付きをふくらませる事で舵の効きを良くしているが、艦爆として許容範囲内の性能しか得ることが出来ず、後に夜間戦闘機として採用された際には効きの不足を指摘された。
急降下制動板は主翼下面、フラップの直前にありフラップと同幅である。急降下爆撃時には下方に70度開いて過速を抑え、フラップを開いた時には内側に引っ込んで隙間の形状を有利に整形しフラップの効率を高める。それ以外の時は隙間をきれいに塞いで主翼と面一になり、空気抵抗を生じない。
空気抵抗の面で有利と試算された愛知航空機製の水冷エンジンである「アツタ」を搭載した。この発動機は当時同盟関係にあったドイツのダイムラー・ベンツから購入したDB601Aをライセンス生産した物である。
精密なDB601エンジンの国産化に際して、液冷エンジン生産に必要な資源物資もままならず、精密パーツの生産に必要な最新の工作機械を導入できなかったことから、原型の設計図の材質や部品精度のままでの大量生産は不可能と判定された。このため大量生産に向けて材質の変更や部品精度の低下などの設計の改変を行ったが、エンジントラブルの頻発やエンジン性能の低下を招くこととなった。一例として、冷却液について、オリジナルのDB601Aで使用するエチレングリコールから、資源不足や物資の行き届きにくい前線での整備を考慮して、普通の水に変更したことが挙げられる。エチレングリコールに比べて沸点が低い水で置き換えただけではオーバーヒートを起こしやすいため、加圧することによって沸点を最高125℃まで引き上げたが、冷却系部品への圧力負荷による水漏れのトラブルを招き、エンジン稼働率低下の一因となった。
その反面で同じくDB601Aエンジンのライセンスを購入し国産化した際にニッケルの使用禁止で部品強度の落ちていた川崎ハ四〇系に比べると、製造工程で強度低下を抑えていたアツタはハ四〇で多発したクランクシャフト折損のトラブルがなく、全体的に状態が良かったと言われる[誰によって?]。
整備面では、空冷エンジンを主に扱う日本軍整備兵が水冷エンジンの整備技術に乏しいことが、水冷型彗星の稼働率低下の大きな原因となっていた。しかし、水冷エンジンの整備に習熟した整備兵がいれば水冷型彗星の稼働率は決して低いということはなく、1944年後半以降は水冷エンジンの整備に熟練した整備員も増えており、空冷エンジンの零式艦上戦闘機の稼働率も50 %を切るような状況の中で、水冷型彗星の稼働率60 %以上を維持していた航空隊もいくつもあった。比較的早くから二式艦偵を運用していた第三艦隊や沖縄戦での活躍で知られる芙蓉部隊では、豊富な予備部品とアツタを熟知した整備兵をそろえる(メーカーで専門教育を受けた整備兵を教官にして自隊で教育する等)ことで、エンジントラブルは多いものの特に整備に困難を覚えることなく、空冷エンジン搭載機と遜色ない高い稼働率を達成している。特に芙蓉部隊では、指揮官の美濃部正少佐によれば、稼動率を彗星70 %近くまで上昇させたと言われる。ときに、根拠は不明ながら水冷型彗星の稼働率が10%台まで悪化し、芙蓉部隊がそれを大幅に引き上げて80 %としたとする主張もあるが、美濃部本人の遺稿での主張によれば、芙蓉部隊の稼働率は他部隊より10–20 %高かったとしているだけである。
アツタに限ると、搭載機全体の相対的な稼働率の低さはエンジン自体の問題もさることながら、既知のトラブルに対処する整備能力が講習や整備マニュアル不足により限られていた結果であると言える。当時の日本製航空機は空冷エンジンを搭載した機体がほとんどで、アツタ搭載機の機種(大量生産されたのは本機のみ)及び相対的な機数の少なさ、戦況の悪化などもあって有効な対策が行き渡ることなく終わり、液冷エンジンに関する教育をほとんど受けていない前線の整備員にとって、トラブルが多く非常に扱いづらい難エンジンとの印象があった。
これは、高い稼働率を誇っていたと言われている芙蓉部隊でも同様であり、部隊の所属機数と稼働機数が明らかとなっている日で稼働率を計算すると、1945年2月17日時点では所属機数彗星8機、稼働機は3機で稼働率は37.5 %、5月1日時点では彗星20機に対して、稼働機7機で稼働率は35 %と日本軍全体の稼働率推定平均以下となっている。また、稼働と認定されて出撃した機でも故障により引き返す機も多く、4月中の大規模出撃では、4月16日の出撃で、彗星9機中、4機が故障で引き返すか不時着、2機が未帰還で、作戦に従事して帰還した機はわずか2機、4月28日から29日未明は、彗星14機中、6機が故障で墜落もしくは引き返し、1機が爆撃装置の故障で投弾できず、7機が作戦に従事して帰還、4月29日から30日未明は、彗星12機中、4機が故障で引き返し、1機が未帰還、7機が作戦に従事し帰還という状況であった。5月初めには、故障機の続出で十分な稼働機数を確保できなくなり、5月6日には天候が回復して出撃日和となったのにも拘わらず、機体整備に終日費やさざるを得なくなっている。
一方で、芙蓉部隊と同じ夜間戦闘機型彗星を運用していた第三三二海軍航空隊は阪神地区でB-29を迎撃していたが、1945年5月に三三二空に着任した水木泰少尉が、2か月間でB-29を2機撃破する戦果を上げていた間、三三二空の7機の彗星は全く故障もせずに作戦に従事していたという。しかし、1945年7月、高い稼働率で快調に活躍していた三三二空の彗星は、芙蓉部隊に配置するとして海軍航空本部から全機取り上げられてしまっている。
戦闘機に準じた機体強度と高速性能を持つことから、月光の夜間戦闘機化で実績のあった三〇二空司令の小園安名大佐などの進言により、一二型に20mm斜銃を追加装備(試作機のみ30mm機銃)した一二戊型(D4Y2-S)が製造された。夜間戦闘機型彗星は、帝都防空を任務とする三〇二空や三三二空、三五二空等などの本土防空部隊に配備され、主にB-29の迎撃に投入された。第三〇二空では月光と共に夜間戦闘機の主力として活躍、中芳光上飛曹と金沢久雄中尉のコンビはB-29を5機撃墜を報告している。横須賀海軍航空隊にも配備され、小園と協力して彗星の斜銃搭載に尽力した山田正治大尉が自ら夜間戦闘機型彗星で出撃し、斜銃でB-29を1機撃墜、1機撃破する戦果を上げたのち戦死している。
夜間戦闘機部隊として編成された芙蓉部隊にも配備されたが、実際には敵艦や敵飛行場への爆撃に使用されている。そのため、芙蓉部隊では斜銃を撤去して使用していたが、沖縄戦後期では夜間戦闘機から撃墜される機体が増えたためその対策として、斜銃装備の夜間戦闘機型彗星をそのまま作戦に投入している。しかし、芙蓉部隊の彗星は夜間戦闘機とは名ばかりで、搭乗員は“進攻爆撃”任務特化の方針によって射撃訓練など空戦の訓練を行っていなかった。1945年5月中旬に、屋久島上空でP-61ブラック・ウィドウを目撃した彗星一二戊型搭乗の津村国雄上飛曹は、自分に空戦技術がないことを認識しており、アメリカ軍の強力な夜間戦闘機相手では返り討ちにあう確率が高いと判断し、攻撃せずに退避したが、津村の報告を聞くや跳梁する夜間戦闘機に苛立っていた美濃部は「なぜ斜銃を撃たなかった!?」と叱責している。
1945年6月10日には、夜間戦闘機月光でB-24を体当たりで撃破(のちに全損で廃棄)した戦績を有する芙蓉部隊所属の中川義正上飛曹-川添普中尉の搭乗する彗星一二戊型が、P-61と思われるアメリカ軍夜間戦闘機を攻撃し、これを撃墜したと報告している。(アメリカ軍の記録では、同日のP-61損失は戦闘・非戦闘いずれもなし)
空冷エンジンに換装された彗星三三型からは、「陸上爆撃機」に機種変更されたという記述が既存の書籍に散見される。また、最終型の四三型に至っては、機体後部が増速用噴進器(ロケット)取り付けのために改装され、着艦フック取付け部の凹みも無くなっており、これによって空母への着艦は完全に不可能となったが、時節を考えればこれは当然の処置とも言え、この事実をもって陸上爆撃機に機種変更されたなどという事実はない。
実際のところ、空冷彗星はまだ母艦航空隊であった頃の第六〇一海軍航空隊に配備されている。六〇一空がまだ第二艦隊の第一航空戦隊、すなわち空母部隊に属していた時期の、昭和20年(1945年)1月1日付の同航空隊戦時日誌では、配備されている彗星はすべて「三三型」となっている。
当時六〇一空の第四飛行隊長(天山艦攻)だった肥田真幸大尉の回想でも、1945年1月早々に天城で発着艦訓練を行ったとされている。肥田は自分の艦攻隊の発着艦訓練にしか言及しておらず、彗星や零戦については言及していないものの、以上を総合すれば、六〇一空がまだ母艦航空隊であった頃に、彗星艦爆隊(第三飛行隊長村川弘大尉。第二御盾隊指揮官として同年2月21日に戦死)は空冷の三三型のみで編成されていたことになる。
また、第一技術廠(もとの空技廠の本廠)の終戦後の連合軍への引渡目録に含まれる「海軍現用機性能要目一覧表」では、三三型が「艦爆」、四三型が銀河と共に「陸爆」と区分されている。また、彗星の設計は空技廠であるが、その「海軍現用機性能要目一覧表」には、「製造所」はどちらも「愛知」と記載されている。
日本海軍はロンドン海軍軍縮条約により、戦艦や巡洋艦と同様、英米海軍に対する航空母艦(空母)の保有数の不利を打開するため、艦上爆撃機の主任務を敵航空母艦に対する先制攻撃とし、それを可能とするために「敵艦上機より長大な攻撃半径」、「短時間で接敵する高い巡航速度」、「迎撃してくる敵艦上戦闘機を振り切ることが可能な高速力」の三点を求めるようになった。
このために、十試艦上軽爆としてHe 118を昭和11年(1936年)にドイツから輸入したが要求性能を満たしたものではなく不採用となった。艦上爆撃機として十一試艦上爆撃機(採用機が九九式艦上爆撃機となった)の開発も行なわれたが、更なる高性能艦上爆撃機への要求からHe 118の資料を参考に、新機構を盛り込んだ航空機を新たに開発することとなり、空技廠(当時は航空廠)の山名正夫中佐らに“十三試艦上爆撃機”の開発が命じられた。要求性能は概ね以下のようなものであった。
1940年(昭和15年)11月1日、AE2A(DB 600Gのライセンス生産型)を搭載した十三試艦爆試作一号機が完成した。その後、不調のAE2Aを十三試ホ号(アツタ二一型の試作名)に換装して試験が続けられ、当時の海軍機最高速度となる551.9km/h/4,750mと偵察過荷重にて3,780kmという長大な航続力を記録、五号機まで試作機が製作された。
1941年10月21日、開戦前で真珠湾攻撃の準備中であった第一航空艦隊は、草鹿龍之介参謀長名で航空本部に対し、十三試艦爆の2機に零戦用の増槽を付与し偵察機型に改造したものを用意してほしいと要請したが、開戦には間に合わなかった。
既存の九八式陸上偵察機や九七式艦上攻撃機、零式水上偵察機に代わる高速偵察機の必要性を感じていた海軍は、海軍機最高速度と大航続力を記録した十三試艦爆に目を付け、開戦直前の1941年(昭和16年)11月に十三試艦爆40機を偵察機として次年度生産分に追加発注した。これに先立って試作二、三、四号機を爆弾倉にカメラを搭載した偵察機に改造、1942年(昭和17年)1月に四号機が第三航空隊に貸与されたが、不調のため前線に到着するのに半月以上を要した上に実戦投入されずに終わっている(後に再整備の後、第三艦隊の翔鶴に配備され、南太平洋海戦で実戦投入されている)。
1942年5月、偵察機に改造された試作二、三号機が要望していた第一航空艦隊第二航空戦隊所属の空母蒼龍に配備された。うち1機はミッドウェー海戦にて米機動艦隊を発見したが、無線機故障のため空母飛龍に帰還してからの報告となり、後に飛龍ごと沈没、残る1機も喪われている。戦闘詳報では十三試艦爆の偵察を「敵機動部隊情況不明なりし際、極めて適切に捜索触接に任じ、その後の攻撃(飛龍の反撃)を容易にならしめたり。功績抜群なり」と評価している。
1942年8月15日、試作五号機が飛行試験中に空中分解し、艦爆としては機体の強度が不足しているため改修が必要と判断されたが、通常の飛行には差し支えないことから、海軍は爆弾倉内蔵式増加燃料タンクやカメラを搭載した機体を二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)として採用した。1942年末から配備の始まった二式艦上偵察機の運用は比較的良好で搭乗員の評判も良く、後継の艦上偵察機彩雲と共に大戦後半における日本海軍の眼として働いた。
1943年(昭和18年)6月から、機体強度を向上させた艦上爆撃機型も彗星一一型(D4Y1)として量産に移り、1943年後半のソロモン戦から実戦投入された。 1943年5月には、出力と整備性を向上させたアツタ三二型に換装した性能向上型の彗星一二型(D4Y2)試作一号機が完成した。しかし、ニッケルなどの材料となるレアメタルの不足や工具の不足、工員の技量低下などが重なって、アツタ三二型の生産は滞っており、機体とエンジンの生産数のバランスが崩れて、多数の「首無し機」(滞留機=エンジンの無い機体)が工場外に並ぶという事態になってしまった。打開策として、一二型試作機完成から約半年後の1943年12月から、比較的供給に余裕があり出力の若干高い空冷エンジンの金星六二型を装着した彗星三三型が急遽生産されることになった。これは陸軍で同じDB601を国産化したハ140搭載の三式戦闘機でも同様な状況であり、その打開策として空冷エンジンに変更した五式戦闘機が生産されることになっている。
前線では旧式化した九九式艦上爆撃機の代わりに彗星が主力爆撃機として運用されており、基地航空隊の主戦力として大増産することを計画した海軍は、1943年10月3日「発動機生産ノ状況ヲ考慮シタ現用機装備発動機変更二関スル打合覚」によって、零式艦上戦闘機など主力機の搭載エンジンを変更することによって生産数を増加させることを計画、この計画のなかには彗星も含まれて、空冷型彗星の製造を後押しすることとなった。しかし、アツタ三二型を搭載する彗星一二型は、その高性能ぶりから空冷型の彗星三三型と並行して生産が継続されることとなり、空冷型彗星製造に移行した愛知航空機に代わって、呉の第11海軍航空廠で敗戦まで生産されていた。なお、生産数は一一型705機、一二型約710機、三三型・四三型合計約830機で、そのうち第十一海軍航空廠で生産された水冷型彗星は430機となり、そのすべてが夜間戦闘機用途に製造されたものであった。
空冷エンジンに換装された彗星は、空力特性によって加速や上昇力などの飛行性能の低下がみられており、海軍航空本部があ号作戦直前に、空母で運用する艦上爆撃機や夜間戦闘機といった優先度の高い部隊には引き続き、飛行性能に優れる水冷型彗星を配備、多少の性能低下は目をつぶっても数が必要な基地航空隊に空冷型彗星を配備することに決めている。1945年初頭より第十一海軍航空廠で生産された水冷型彗星は、海軍航空本部の方針通り、夜間戦闘機用途として夜間戦闘機部隊に配備された。夜間戦闘機型彗星を運用した芙蓉部隊の指揮官美濃部は、海軍航空本部が、整備困難で各基地に放置されていた水冷型彗星をかき集めて芙蓉部隊に配備したと考えて、「殺人機」と呼ぶほどの“難物”を押し付けられたと主張していたが、これは美濃部のまったくの事実誤認であり、実際は、各航空隊より快調な機体を優先的に回してもらっており、美濃部自身も遺稿で感謝を述べるなど、海軍航空本部から異例なほどの厚遇を受けていた。
1944年6月、マリアナ沖海戦で第二航空戦隊に分乗した第六五二海軍航空隊のうち空母隼鷹の搭載機は九九式艦爆と彗星を同時に運用することになったが、低速の九九式艦爆が先に発艦し、高速の彗星が後から追いかけるという複雑な運用を行った。
1944年(昭和19年)10月24日、レイテ沖海戦にて基地航空隊の彗星1機が急降下爆撃で軽空母プリンストンに命中弾を与えた。爆撃による損傷自体は軽微であったが、航空燃料供給のパイプが切断されて格納庫に航空燃料が流れ出し、格納庫内の艦載機の火災が流れ出た航空燃料に引火したこと、また電気系統も損害をうけてスプリンクラーが作動しなかったなどの消火での不手際が重なり、火災が広がって弾薬も誘爆し始めて重篤な損傷に至ってしまい、後に友軍駆逐艦による自沈処分とされた。プリンストンの救援作業に当たっていた軽巡バーミンガムも誘爆の巻き添えにより大破し、239人が死亡、4人が行方不明、408人が負傷という甚大な損害を被った。1発の爆撃で結果としてプリンストンを撃沈したこの彗星が、誰の乗機であったかは現在も判明していない。11月25日にはレイテ島上陸支援のために展開した空母エセックスに神風特別攻撃隊第三香取隊の山口義則一飛曹、酒樹正一飛曹が搭乗する彗星が突入し飛行甲板に命中、16人が戦死し44人が重傷を負っており、2か月間修理のために戦線を離脱している。このあとは、日本軍の特攻を主戦術にするという日本軍の方針もあって、特攻機として出撃する彗星が増えていった。
九州沖航空戦で日本近海に接近してきたアメリカ軍機動部隊に、彗星を含む多数の特攻機や通常攻撃機が攻撃に向かい、そのうち正規空母ワスプには彗星の特攻機が命中(彗星が投下した250kg爆弾という資料もあり)、250kg爆弾は格納庫下の居住区で爆発し、その衝撃で艦載機の航空燃料が下層甲板に流れ出したことから、火災範囲が拡大して大損害を被った。ワスプは本土に修理のために回航され、復帰は終戦間際の1945年7月にずれ込み、沖縄戦には参加できなかった。同航空戦で正規空母フランクリンに緩降下爆撃で致命的な損傷を与えたのも、アメリカ軍の記録には「JUDY」こと彗星であると記されているが、命中した爆弾が2発であったことから陸上爆撃機の銀河である可能性も示唆されている。フランクリンは同型艦のエセックスと同様に、レイテ戦中の1944年10月30日に特攻機の彗星が命中しており、81人の死傷者と艦載機8機が破壊されるなど大きな損害を被って修理のために戦線離脱しており、この被爆は損傷から戦線に復帰してまもなくの出来事であった。沖縄戦では零戦に次ぐ機数となる251機の彗星が特攻に出撃し、140機が未帰還となるなど中心戦力として戦い、沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と甚大なものになり、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている。
夜間戦闘機型彗星は、B-29邀撃のために各地の航空部隊に配備され活躍を見せている。1945年5月25日(爆撃は翌26日の未明まで)の東京大空襲では、日本軍側によれば、第三〇二海軍航空隊だけで、彗星4機、月光7機、雷電5機、零戦5機が迎撃して、B-29の16機撃墜を報告しているなど(アメリカ軍の公式記録ではこの日のB-29の損失は26機)、継続的に戦果を報告している。中でも、中芳光上飛曹と金沢久雄中尉のコンビは彗星でB-29を5機撃墜を記録している。ほかにも、横須賀海軍航空隊や、第三三二海軍航空隊などでB-29の撃墜・撃破が記録されるなど、本土防空戦で活躍を見せた。第三〇二海軍航空隊の夜間戦闘機型彗星は厚木航空隊事件にも使われ、反乱将兵が陸軍の決起を促すために13機の彗星に乗り込んで、厚木海軍飛行場から陸軍児玉飛行場に向かったが、8月24日に説得に応じて彗星はその場で武装解除されている。
一方で、夜間戦闘機部隊として編成された芙蓉部隊の彗星は、指揮官美濃部の方針によって通常の爆撃任務に投入されていた。芙蓉部隊は彗星と零式艦上戦闘機で編成された戦闘機部隊であったので、第五航空艦隊司令部から沖縄に出撃する戦艦大和以下の第一遊撃部隊の護衛を要請されたが、芙蓉部隊の戦闘機は美濃部の方針で空戦の訓練を行っておらず護衛任務は不可能として拒否している。大和はほぼ航空機による護衛の無いなかで、連合軍艦載機の集中攻撃で撃沈された(坊ノ岬沖海戦)。以降芙蓉部隊は、夜間戦闘機部隊ながら夜襲による艦船攻撃を行ったが実際の戦果はなく、菊水二号作戦は連合軍が上陸早々に占領して運用を開始していた、沖縄の連合軍飛行場の夜間攻撃任務に回された。当初は、開発から間もなかったロケット弾の仮称三式一番二八号爆弾などを使用して、低空からの精密攻撃を行っていたが、美濃部の想定を超える激しい敵対空砲火で甚大な損害を被ったことで、芙蓉部隊は敵対空砲火が濃密な高度2,000m以下での攻撃を諦め、高度4,000mで敵基地周辺へ侵入後に急降下し高度3,000mで投弾するという、急降下爆撃の投弾高度としては高い高度での不正確な爆撃戦術に切り替えざるを得ず、低空からの正確な攻撃は早々に困難となっている。
芙蓉部隊は、時折、飛行場に『大火災』を生じさせたと戦果報告し、戦後しばらくしてから、指揮官の美濃部は1945年8月8日の伊江島飛行場攻撃では、未帰還となった彗星1機の爆撃により「戦後米軍資料によれば揚陸直後の600機炎上」という大戦果を挙げたなどと、著書で主張しているが、アメリカ陸軍の沖縄戦公式戦史『United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle』では、日本軍の空襲によって地上で撃破されたアメリカ軍航空機(アメリカ海軍・海兵隊航空機も含む)の記録はなく、伊江島飛行場がそのような大損害を被った記録もない。沖縄戦で陸軍航空隊と海兵隊航空隊を統一指揮していたアメリカ第10軍戦術航空軍の戦時日誌によれば、砲撃、爆撃などあらゆる要因で地上撃破されたアメリカ軍機は1945年4月に6機、5月にも6機、6月以降は0機となっているが、これは主に、独立重砲兵第百大隊の八九式十五糎加農砲十五糎加農砲による砲撃と、義烈空挺隊による空挺特攻による戦果であって、伊江島飛行場に配備されていた第318戦闘機航空隊 の戦闘記録でも、日本軍による空襲の記述があるのは、芙蓉部隊が出撃していない1945年5月24日の義号作戦に伴う空襲のみとなっており、芙蓉部隊の彗星は、過大な戦果報告に対して実際の確実な戦果はないなかで、1945年5月15日の2ヶ月弱の間に、戦闘、非戦闘合計で70機という大量の損失を被っている。
最終量産型は1945年(昭和20年)から投入された三三型を改修した四三型(D4Y4)で、操縦席に防弾設備を増設する一方で後部座席と機銃類を廃し、爆弾倉に800kg爆弾を装備可能とした特攻仕様機であった。第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将が終戦当日に沖縄沖の米艦隊に特攻出撃した際、複座型の四三型に搭乗(操縦員席に中津留達雄大尉、偵察員席に宇垣中将、遠藤秋章飛曹長)したことでも知られる。
海軍は、主力艦上爆撃機として大きな期待を寄せていたことから、様々な改造型を開発しており、多数の派生型が存在した。略符号に小改造を示す「甲」(a)が付く型は、旋回機銃を13mm機銃に変更した強化武装型である。
制式名称 | 二式艦上偵察機一一型 | 彗星一一型 | 彗星一二型 | 彗星三三型 |
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機体略号 | D4Y1-C | D4Y1 | D4Y2 | D4Y3 |
全幅 | 11.50m | |||
全長 | 10.22m | 同左 | ||
全高 | 3.295m(三点時) | 3.175m | 3.069m | |
主翼面積 | 23.6m2 | |||
自重 | 2,440kg | 2,510kg | 2,635kg | 2,501kg |
過荷重重量 | 3,870kg | 3,960kg | 4,353kg | 4,657kg |
発動機 | アツタ二一型(離昇1,200馬力) | アツタ三二型(離昇1,400馬力) | 金星六二型(離昇1,560馬力) | |
最大速度 | 533.0km/h(高度3,000m) | 546.3km/h(高度4,750m) | 579.7km/h(高度5,250m) | 574.1km/h(高度6,050m) |
上昇力 | 高度3,000mまで5分45秒 | 高度5,000mまで9分28秒 | 高度5,000mまで7分14秒 | 高度6,000mまで9分18秒 |
航続距離 | 1,519km(正規) | 1,783km(正規)~2,196km(過荷) | 1,517km(正規)~2,389km(過荷) | 1,519km(正規)~2,911km(過荷) |
武装 | 機首7.7mm固定機銃2挺(携行弾数各600発) 後上方7.7mm旋回機銃1挺(97発弾倉×6) | 機首7.7mm固定機銃2挺(携行弾数各400発) 後上方7.7mm旋回機銃1挺(97発弾倉×6) | 機首7.7mm固定機銃2挺(携行弾数各400発) 後上方7.92mm旋回機銃1挺(75発弾倉×3) | |
爆装 | なし | 胴体250kgまたは500kg爆弾1発 | 胴体250kgまたは500kg爆弾1発 翼下30~60kg爆弾2発 | 胴体250kgまたは500kg爆弾1発 翼下250kg爆弾2発 |
乗員 | 2名 |
型名 | 機体写真 | 国名 | 保存施設/管理者 | 公開状況 | 状態 | 備考 |
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三三型 | アメリカ | プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館 | 公開 | 静態展示 | 同博物館で保管されていた残骸が2013年には自走可能状態まで復元されている。但し、エンジンはオリジナルではなく空冷のプラット・アンド・ホイットニー R-1830エンジンに換装されているため、三三型か四三型のような外見になっている。同博物館のWebサイトでは「Yokosuka D4Y3 Model 33 'Suisei'」と紹介されているが、三三型、四三型いずれを想定して復元しているものか判断がつかない。また、着艦フックも装備している。 | |
一一型 (推定) | アメリカ 北マリアナ連邦 | 未詳 | 公開 | エンジン のみ | 北マリアナ連邦のロタ島の空港駐車場脇にアツタ二一型エンジン1基がプロペラが付いた状態で、零戦の栄二一型3基、天山の火星二五型1基とともに展示されている。展示といっても、コンクリートの台の上に雨ざらしで置かれているだけで、柵や解説等も全くない。以前は零戦の機体の残骸も置かれていたが現在はない。展示というよりも放置に近く自由に触れることができる。戦後に同地を訪れた元ロタ島守備隊員の証言によるとマリアナ沖海戦の際にF6Fヘルキャット戦闘機に追われてロタ島の海軍航空基地(現ロタ国際空港)に不時着した機体のものであるという。1944年6月19日に空母「隼鷹」を発進した彗星1機(阿部善朗大尉・中島米吉少尉)が1時間近くF6Fに追跡され、かろうじて滑走路に着陸している記録と符合している。 | |
一一型 | 日本 | 遊就館 | 公開 | 静態展示 | アツタ二一型発動機とともに展示されている。機番は「鷹-13」。 1972年(昭和47年)にカロリン諸島ヤップ島の旧滑走路脇のジャングルで発見された機体。1980年(昭和55年)日本テレビの協力で回収され、陸上自衛隊木更津駐屯地において飛行機研究家や愛好家ら延べ200人以上の手により復元された。修復の模様はテレビ番組(木曜スペシャル)で放映された。現在は靖国神社の遊就館に奉納展示されている。1980年当時テレビ番組の限られた予算と日数のため状態は良いとはいえなかったが、2016年(平成28年)春から秋にかけて彗星奉納関係者や専門家の手による大がかりな修復工事が行われ、鷹部隊のオリジナル塗装など細部にいたるまで復元されて一新した。日本国内では、唯一現存する旧日本軍の爆撃機である。また計器以外はオリジナル部材が多数残る機体であり、世界で唯一完全な形を保つ水冷式彗星の実機として非常に貴重である。 | |
未詳 | パラオ共和国 | 未詳 | 公開 | 残骸 | パラオ共和国の本島であるバベルダオブ島のパイナップル工場跡前にエンジンと水平尾翼、他部品が設置されている。この尾翼は稼働し自由に触ることもできる。 |
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