ジャン=マリー・ル・ペン

ジャン=マリー・ル・ペン(Jean-Marie Le Pen、1928年6月20日 - )は、フランスの政治家。

ジャン=マリー・ル・ペン
Jean-Marie Le Pen
ジャン=マリー・ル・ペン
2007年
生年月日 (1928-06-20) 1928年6月20日(95歳)
出生地 フランスの旗 フランス共和国 ブルターニュ地方ラ・トリニテ=シュル=メール
出身校 パリ第2大学
所属政党 国民戦線(1972年 - 2016年)
称号 陸軍中尉
サイン ジャン=マリー・ル・ペン

選挙区 (フランス→)
フランス南東部
当選回数 2回
在任期間 1984年7月24日2003年4月10日
2004年7月1日 - 2019年7月1日

当選回数 3回
在任期間 1956年 - 1988年

フランスの旗 地方評議会英語版議員
選挙区イル=ド=フランス地域圏→)
プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏
当選回数 3回
在任期間 1986年 - 2015年

パリ市議会議員
選挙区 20区
在任期間 1983年3月13日 - 1989年3月19日

その他の職歴
国民戦線名誉党首
2011年1月16日 - 2015年8月20日
初代 国民戦線党首
1972年10月5日 - 2011年1月15日
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フランスの政党である国民戦線(現・国民連合)創始者、初代党首。娘のマリーヌ・ル・ペンは後継の同党党首。孫娘のマリオン・マレシャル=ルペンは同党所属の国民議会議員。

経歴

ブルターニュ地方ラ・トリニテ=シュル=メール(モルビアン県コミューン)にて、カトリックの漁師の家庭に生まれた。ブルトン人である。"pen"という姓はブルトン語で「頭」を意味し、メンヒルのことを表している。

1947年パリ大学法学部に進学し、在学中第一次インドシナ戦争に志願し従軍。帰国後トゥールーズで学生組織を率いた後、1956年にピエール・プジャード率いるポピュリスト運動から国民議会議員選挙に出馬。戦後最年少の27歳で議員に当選した。その後アントワーヌ・ピネーの一派に合流し、アルジェリア戦争に議員を休職して従軍。1958年アルジェリア独立に反対してフランス大統領選挙に立候補するも敗れ、選挙戦中のトラブルから左目を失明する。

その後、右翼活動を続けながら右翼諸派の糾合を目指し、1972年国民戦線(Front national)の結成にこぎつけ党首となる。主な政策は以下の内容であった。

ジャン=マリー・ル・ペン 
仏全土で移民2世・3世を中心とした暴動が激化した最中に国民戦線がパリで開いた屋外集会で演説するジャン=マリー・ル・ペン 2005年11月
ジャン=マリー・ル・ペン 
2005年5月25日に欧州憲法に反対して国民戦線がパリで開催した集会で演説するジャン=マリー・ル・ペン

しばしば舌禍スキャンダルを起こし、ナチスユダヤ人虐殺を「第2次大戦史の末梢事」、広島長崎への原子爆弾投下を「大した問題ではない」と述べた。1997年の総選挙では、選挙運動中に社会党候補のプルヴァスト=ベルジャル市長に暴力をふるったとして有罪となった。しかし、失業問題や移民問題が深刻になり、EU拡大に不安が募る中次第に支持を集め、1988年の大統領選挙では得票率14%、1995年には15%と着実な支持を得ていた。

1999年に国民戦線は内紛で分裂し、2002年の大統領選挙では泡沫候補と見なされていた。ところが、犯罪に対する社会不安から急速に支持を拡大。投票日の2日前にオルレアンで一人暮らしの男性の家が放火される凶悪事件があり、前大統領でこの時の選挙の勝者になるジャック・シラク候補が、治安問題を争点にしたことも、ルペンに対する追い風になった。この選挙で、外国人の帰化について「日本スイス国籍法 は完全にわれわれの考えと一致する。われわれが人種的な偏見を持っていると指摘されるのはおかしい」と主張。また、移民の間でも、ルペンが移民の中でも特にイスラム教徒の排斥を訴えた。ルペンはシラク(得票率19.71%)に次ぐ16.86%を記録し、社会党有力候補リオネル・ジョスパン(16.12%)を上回り決選投票まで残った。この結果にEU諸国は騒然とし、マスコミは「ルペン・ショック」と呼んだ。この選挙ではトロツキスト政党である革命的共産主義者同盟(LCR)のオリヴィエ・ブザンスノ候補が共産党(PCF)のロベール・ユー候補の得票を上回るなど、極左も得票を伸ばしており、「コアビタシオン」(保革共存)への不満が両極に集まったとの見方も出た。

第一回投票の世代別投票動向(フランス大手調査機関・IPSOS調査)を見ると、16人いる候補者の中で18~24歳ではルペン党首が一番人気で16%もの支持を獲得、2位のシラク候補・ジョスパン候補は各々14%。25~34歳ではシラク支持が18%(1位)なのに対し、ルペン支持は17%(2位)。職業別で見ると、失業者のルペン支持は38%で断トツ。2位のジョスパン支持(13%)に大差をつけている。肉体労働者の支持率でも30%とルペンが2位のジョスパン(15%)を圧倒。失業者や肉体労働者、若者がルペン支持に傾斜して、ルペン・ショックが起きた。

フランス革命以来の国是「自由・平等・博愛」に公然と反逆するルペンの台頭に危機感をいだいたフランスのマスコミ保守リベラルの別なく一斉にルペンを非難した。左派を中心とした反ルペンデモは110万人を動員。保守の側からも「反ルペン・反ファシズム」キャンペーンが大規模に行われ、この時の決選相手ジャック・シラク候補は決選投票前の恒例となっているテレビ討論を拒否した。結果はシラクに得票率にして18対82の大差で敗れた。

1990年湾岸戦争1999年コソボ紛争2003年イラク戦争などアメリカ合衆国による覇権主義的戦争に反対している。湾岸戦争の時にはイラクに乗り込み、サッダーム・フセイン大統領と会談し、フランス人人質55人を解放させた。それ以来、フセイン政権と国民戦線は交流を深める。また、湾岸戦争以降の米国による経済制裁により苦境の中にあったイラクの子供らを助ける慈善活動も行っている。

2005年パリ郊外暴動事件を受けて更なる党勢拡大と2007年大統領選挙でも2002年大統領選挙の再現を狙った。大統領選挙で台風の目となることが予想されたが、保守・国民運動連合総裁のニコラ・サルコジが移民対策で強硬論を主張する中、ルペン等右翼支持層を浸食されていった。2006年1月には、2007年の大統領選挙に向け早々と選挙対策事務局を設置したが、出馬に必要な500筆の市町村国会議員の推薦署名集めの段階で苦戦 しており、決選投票への進出以前の大統領選挙の出馬さえ危惧されていたが、サルコジが「極右にも出馬のチャンスを与えるのが民主主義だ」と自らの推薦人数人をルペンに回す「助け舟」もあってなんとか500人の署名を確保した。大統領選挙では、サルコジに対峙する形で左派・社会党のセゴレーヌ・ロワイヤル左右両候補による激戦が繰り広げられ、さらにサルコジ、ロワイヤルの両候補に飽き足りない中間層がフランス民主連合議長(党首)のフランソワ・バイルを支持したため、ルペンの得票は伸びず、383万4530票(10.44パーセント)で4位に留まった。ルペンは、5月1日の国民戦線の集会において「決選投票はボイコットせよ」と支持者に訴えた。

2008年1月11日のフランス国際放送(Radio France Internationale, RFI)の報道によると、ルペン率いる国民戦線は資金が欠乏してきており、パリ近郊ルヴァロワにある政党本部ビルの清算に入ったという。

2010年4月12日2011年の党大会をもって引退することを発表した。2011年1月16日の党大会で三女・副党首のマリーヌが後継者に選ばれ、自らは退任し名誉党首になった。

2014年6月6日に公開された動画の中で、ルペンは、国民戦線を批判したフランスのユダヤ人歌手パトリック・ブリュエルらに対し「驚きを感じない。今度はこちらが窯に入れてやる」と発言した。窯という語句がアウシュビッツ強制収容所を連想させたため、この発言はユダヤ人差別ではないかと批判された。ルペンは「ブリュエルがユダヤ人だとは知らなかった」と弁明したが、ルペンの娘である国民戦線党首のマリーヌ・ル・ペンはルペンの発言を問題視し、党のサイトに連載されていたルペンのブログを削除した。 こうして父娘の確執が深まり、ルペンは2015年5月に国民戦線の党員資格を停止され、10月には党を除名された。このためルペンは新党「Blue, White and Red Rally」を結成した。2017年には、上記発言に関連し、反ユダヤ主義で憎悪を扇動する発言を行った容疑で訴追されている。国民戦線からの除名後も党の名誉職にはとどまっていたが、2018年3月11日に剥奪され、マリーヌとの権力闘争も終焉を迎えた。

国末憲人は、ジャン=マリー・ル・ペンは「極右」「差別主義者」だが、「ファシスト」「ネオナチ」ではないと説明し、その演説力を「その弁舌は、もはや芸術の域に達している」としている。

2024年4月、ジャン・マリー・ルペン氏は家族の要請により「法的保護下」に置かれた。。

ルペンの日本観

1980年代の中旬にルペンは訪日したことがある。欧州議会議員だった彼を、時の首相中曽根康弘内閣総理大臣官邸で出迎えた。「破格の扱い」にルペンはたいそう満足していた。中曽根首相(当時)とルペンが握手を交わしている写真は自慢のひと品になっている。

ルペンの日本に対するイメージは良く、「日本は美しい国だ」としきりに褒めているとされる。

2010年8月14日一水会の招待を受け、靖国神社に参拝。ルペンは「重要なのは祖国防衛のために命を落とした人々の善意だ」と語り、フランスのイスラーム化に懸念を表明した。

脚注

参考文献

  • 『パリの移民・外国人 欧州統合時代の共生社会』 本間圭一(著) 高文研
  • 『フランス極右の新展開―ナショナル・ポピュリズムと新右翼』 畑山敏夫(著) 国際書院
  • 『現代フランスの新しい右翼―ルペンの見果てぬ夢』 畑山敏夫(著) 法律文化社
  • 『沸騰するフランス 暴動・極右・学生デモ・ジダンの頭突き』 及川健二(著) 花伝社

関連項目

外部リンク

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