パリの20区 (20く、仏: 20e arrondissement de Paris) は、フランスの首都・パリ市を構成する20の行政区のひとつである 。第20区、パリ20区ともいう。市の東部にあり、セーヌ川の北側に位置している。
パリの20区は、市の東部にある行政区。「メニルモンタン区 (Arrondissement de Ménilmontant)」と呼ばれることもある 。セーヌ川の北の地域にある。東には、ペリフェリック (パリ環状道路)に沿う形で市の境界線が敷かれており、南東の一部がヴァル=ド=マルヌ県に接しているほかはすべてセーヌ=サン=ドニ県に接している。人口は182,952人 (1999年)で、20区の中では3番目に多い(人口の推移等詳細については後述)。
区の名称は、市の中央部から時計回りに螺旋を描くようにして各区に付けられた番号を基にしており、当区はその20番目にあたることから、「20区」と名づけられた。区内には、コロー、ショパン、ビゼー、プルースト、マリア・カラス、モディリアーニ、モリエール等の多くの著名人が眠るペール・ラシェーズ墓地のほか、ベルヴィル公園、国立コリーヌ劇場などがある。
20区は、パリの東部に位置している。セーヌ川の北の地域にある 。面積は、5.98 平方キロメートル。
北は、同じパリの行政区である19区に接し、南は12区に接している。東は、ペリフェリックに沿う形で市の境界線が敷かれており、セーヌ=サン=ドニ県の各自治体、北東はル・プレ=サン=ジェルヴェとレ・リラに、東はバニョレに、南東はモントルイユに接し、南東の南寄りではヴァル=ド=マルヌ県の自治体であるサン=マンデに接している。西は11区に接している。
パリの行政区は、それぞれ4つの地区(カルチェ)に区分されている。20区を構成する4地区のコードと名称は、次のとおりである。
20区の人口は、1936年には208,115人となり、ピークに達した。その後は減少を続けたが、1982年の171,971人を底に増加傾向に転じ、1999年にはピーク時の9割弱の182,952人となった。20区のうちでは15区、18区に次いで3番目に人口が多く、1990年以降は、パリの人口の8パーセント台で推移している。2005年の推計では191,800人と見積もられており、人口の増加が見込まれている。
また、人口の減少とともに人口密度も減少しており、1999年の人口密度は、ピーク時の9割弱の30,574人となっている。20区のうちでは4番目に人口密度が高く、パリの平均人口密度の1.3倍である。人口の推移の詳細は、次のとおりである。
年 | 区人口 | 市人口 | 区人口/市人口 | 区人口密度 | 市人口密度 | 備考 |
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1872年 | 92,772 | 1,851,792 | 5.01% | 15,503 | 21,303 | |
1936年 | 208,115 | 2,829,753 | 7.35% | 34,779 | 32,553 | 人口がピークに達する。 |
1954年 | 200,208 | 2,850,189 | 7.02% | 33,457 | 32,788 | |
1962年 | 199,310 | 2,790,091 | 7.14% | 33,307 | 32,097 | |
1968年 | 188,921 | 2,590,771 | 7.29% | 31,571 | 29,804 | |
1975年 | 175,795 | 2,299,830 | 7.64% | 29,378 | 26,457 | |
1982年 | 171,971 | 2,176,243 | 7.90% | 28,738 | 25,035 | |
1990年 | 184,478 | 2,152,423 | 8.57% | 30,829 | 24,761 | |
1999年 | 182,952 | 2,125,246 | 8.61% | 30,574 | 24,449 | |
2005年 | 191,800 | 2,166,200 | 8.85% | 32,052 | 24,920 | 人口は推計。 |
第二帝政下の1860年、ティエールの城壁の内のコミューンの全部または一部がパリに併合されたが、現在の20区付近では、ベルヴィル界隈並びにシャロンヌ、ル・プレ=サン=ジェルヴェ、バニョレの一部が併合された。このとき、メニルモンタンのあるベルヴィル通り以南など、これらの領域を含む形で20区の区域の設定が行われた。
ちなみに、シャロンヌからバニョレに至る一帯には、かつて幼君ルイ15世の摂政オルレアン公フィリップ2世らオルレアン家が所有したバニョレ城(Château de Bagnolet)があった。
現在のパリ19区及び20区に跨がり、さらに10区と11区に及ぶ地域を包含するベルヴィル、さらに現在のほぼ19区内にあたるラ・ヴィレット界隈をも含めて、歴史的にはワイン生産者や葡萄畑の収穫人、採石労働者や石工などの職人といった労働者階級のコミューンとして発展した。1848年の第二共和政、1871年のパリ・コミューンの存立では、ベルヴィル界隈のコミューンが大きな役割を果たした。特にパリ・コミューンの時には、メニルモンタン界隈と共に、ヴェルサイユの政府軍に対して最も大きな抵抗を示した。
20世紀半ばになると、多くの移民が定住するようになった。1933年のドイツ第三帝国成立によりユダヤ系ドイツ人が、1939年のフランコ独裁政権成立によりスペイン人、他にイタリア人らが、60年代にはユダヤ系トルコ人、アルジェリア人やピエ・ノワールらがこの地にやってきた。現在では、マグリブ諸国のアラブ系や、サハラ以南のアフリカ系の他、13区のトルビアック通り界隈と同様、中国系(華僑系)の旧仏印出身者もベルヴィル界隈で目立つようになり、いわば"中華街"として仏語版「パリのアジア人地区 (Quartiers asiatiques de Paris)」の記事の中でも括られている。
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パリの「広場 (プラス、Place)」は、しばしば2以上の道路が交差する場所に位置し、中心の「島」を道路が周回するロータリー状の交差点となっている場合が多い。中心の「島」部分は、オベリスクや緑地等に利用されている場合もあり、凱旋門があるシャルル・ド・ゴール広場は世界的に有名である。20区の広場や交差点には、次のようなものがある。
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