黒岩 重吾(くろいわ じゅうご、1924年2月25日 - 2003年3月7日)は、日本の小説家。社会派推理小説、風俗小説、古代史を題材にした歴史小説で活躍した。
文藝春秋社『別冊文藝春秋』第80号(1962)より | |
誕生 | 1924年2月25日 日本・大阪府大阪市 |
死没 | 2003年3月7日(79歳没) |
職業 | 小説家 |
国籍 | 日本 |
代表作 | 『背徳のメス』(1960年) 『天の川の太陽』(1979年) 『落日の王子 蘇我入鹿』(1982年) 『天風の彩王 藤原不比等』(1997年) 『中大兄皇子伝』(2001年) |
主な受賞歴 | 直木三十五賞(1960年) 吉川英治文学賞(1980年) 紫綬褒章(1991年) 菊池寛賞(1992年) |
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大阪市生まれ。父方の祖先は和歌山県新宮市の廻船問屋。父は大同電力の電気技師、母は植村正久の弟子の牧師で名古屋の金城女学校で教頭も務めた池田勤之助の娘で、重吾は安治川発電所の社宅で生まれた。小学生の頃はキリスト教の日曜学校に通わされたが、結局信者にはならなかった。 大阪の府立中学受験に失敗し、旧制宇陀中学(現・奈良県立大宇陀高等学校)に入学し、4年で終了して同志社大学の予科に入学。同志社大学在学中に学徒出陣し、北満に出征する。
ソ連国境に近い綏芬河の町で終戦を迎え、厳しい逃避行の末、1946年に朝鮮に辿り着き、内地へ帰還した。この時の体験が創作の原点になる。同志社大学復学して、弁護士を目指して法学部入学し、闇ブローカー業も行いながら1947年卒業。この頃太宰治や織田作之助を愛読した。日本勧業証券(現みずほ証券)に入社。
1949年に「北満病棟記」を書き、『週刊朝日』の記録文学コンクールに入選、以後作家を志して中短編を書き溜めながら、同人誌「文学者」のグループに参加した。『サンデー毎日』の千葉亀雄賞に珊瑚十五のペンネームで応募した「虚数と詩人」が選外佳作。ドッジ政策により株相場で大失敗し、家財を売り払って株の情報屋となり、次いで「証券新報」設立に参加する。
1953年、悪食を試み、腐った肉を食べたことで小児麻痺を発病し、子供の頃からのかかりつけの中之島の回生病院に入院。以後3年間入院生活を送り、その間大学ノートで小説を書き続け、また退院後も脚に後遺症が残った。その間にスターリン暴落で多額の借金も抱えて、父の家や和歌山の祖父の土地も売り払った。帰るべきところがなくなったために、退院後は釜ヶ崎(あいりん地区)のドヤ街、飛田商店街に近い東田町に移り住み、トランプ占い、キャバレーの呼び込み、「水道産業新聞」編集長などさまざまな職業を経験。飛田の娼婦たちとも顔なじみになる。キャバレーの宣伝の仕事でホステス募集のキャッチフレーズを書く仕事をしていたせいで、小説の題名を考えるのが上手くなったという。夕刊紙のコントやラジオ小説に応募をして収入を得て、また闘病記を婦人雑誌に採用され原稿料を受け取ったが掲載はされなかった。
1958年に「ネオンと三角帽子」が『サンデー毎日』大衆文芸コンクールに入選、発表。1959年源氏鶏太の紹介で司馬遼太郎と知り合い「近代説話」の同人となり、1960年に「青い火花」が「週刊朝日」「宝石」共催の懸賞に佳作入選。この選考委員だった中島河太郎の紹介で、企業の内幕を題材にした本格的な推理小説『休日の断崖』を書き下ろしで刊行し、直木賞候補となる。
翌1961年に釜ヶ崎を舞台にした多様な人間模様に取り組んだ『背徳のメス』直木賞を受賞、続いて社会企業の問題を取り上げた『真昼の罠』『脂のしたたり』などを発表、松本清張に続く社会派推理小説作家として、「現代人の孤独と陥没の意識にふれる」作品で注目された。やがて「西成モノ」を主に、金銭欲・権力欲に捕らわれた人間の内面を巧みに抉った風俗小説、普通小説作家として活躍した。売れっ子となってからは月に七、八百の執筆をこなしていた。また推理小説については当時「なぞの意味を、トリックや犯人当てに限らず、社会のなぞを、人間のなぞを推理的に追求していくのも、推理小説に入れていただくならば、私は社会派推理作家なる言葉を誇りたい」と語っている。1962年9月には山中湖事件を取材中に突然上半身麻痺を起こし、飛行機で大阪に運ばれて3ヶ月入院したが、その間も長編の連載は休まなかった。
1963年、日本推理作家協会関西支部長に就任。『裸の背徳者』や、戦災孤児をテーマにした全5部の大作『さらば星座』などの作品がある。従軍時の体験をもとにした戦地小説として短編「兵隊と人間の間」「相剋」執筆。1960年代からはヨーロッパやハワイなど海外に足を運び、「シャンゼリゼ裏通り」(1973年)、「サンマルタン運河」(1974年)、「アムスのじゃが芋」(1975年)、「セーヌ川の畔」(1976年)などの海外を舞台にした短編も執筆。株の知識が活かされた、企業を舞台にした小説『大いなる変身』もある。夫の愛人の存在に苦しむ妻を描いた短編「夜の波」(1967年)は、中国語版『日本当代短篇小説選』(莽永彬訳、1982年)に収録され、「黒岩作品の主人公生き方や作品に流れる人間の悲しさ、正義感などに感銘、単なる風俗小説ではない」と評された。今東光に縁のある作家による野良犬会に参加。1日100本以上吸うヘビースモーカーだったが、1970年頃に東京のホテルで倒れたのを機に、柴田錬三郎に「誓いを破ったなら、軽蔑して絶交してほしい」と宣言して禁煙し、10年後から量を減らして喫煙を再開したがこれもやめてしまった。
1970年代後半から、以前より関心のあった古代史を舞台にした歴史小説の執筆を始める。少年時代に百舌鳥古墳群、古市古墳群など古代史の舞台となった場所で遊んで育ち、宇陀中学では当時「わが校は日本発祥の地にある」と強調されており、また飛鳥を中心にして古墳を利用するなどの軍事練習をしていたこと、1972年の高松塚古墳壁画の発見を契機とした古代史ブームに触発されたのがあったのが執筆の動機だった。
1976年に『歴史と人物』編集長に勧められて、壬申の乱での大海人皇子(天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)の争いを題材にした『天の川の太陽』を連載する。続いて推古天皇が即位するまでの蘇我馬子と物部守屋の闘争の時代を描く『紅蓮の女王』を『黒岩重吾長編小説全集』月報に連載し、こちらが先に完結して刊行された。その後大化の改新前夜の時代を舞台に蘇我入鹿を主人公にし『落日の皇子』を執筆。『日と影の王子』では聖徳太子の生涯、『天翔る白日』は天武朝期における大津皇子の悲劇的な生涯を描いている。これらは、『日本書紀』『古事記』を独自に読解し、また舞台となった土地にも取材し、時に通説と異なる独自の歴史解釈や想像も盛り込んでいる。
『天の川の太陽』については「激動期に生きた人間の物語」「大海人皇子に仕えた舎人達も主人公といって良い」と自身で語っている。『弓削道鏡』では、『続日本紀』などをもとに道鏡の栄達への道のりと孝謙天皇との関係を描き、「ひとりの無位の青年が、ふつうなら手のとどきようもない女性と愛恋におちる。その過程と結末を描く純愛物語です」と語った。
これらの執筆の方法について「私なりに勉強してきた二十数年の知識を土台に、時にイマジネーションを駆使して推理し、分析するということです。そうでなければ作家である私が古代史の謎に取り組む意味がない」、及び「やはり人物に対する人間的な共感ですね。それが湧いてこなかったら、いくら歴史的に見て面白い題材でも、事件や人物に関するイメージがはっきりしてこない」「滅びるのがわかってて、大きな流れの中で自分なりに必死に抵抗している姿というか、生きざまの方を僕は書きたいですね」と述べている。 『日と影の王子』終章では、作者独自の見解として厩戸王子が十七条憲法を作ったかどうか、大王の地位に就いたが蘇我入鹿の圧力で政治から身を引いたのではないかといった自説も述べたのに続いて、歴史に関するエッセイで様々な説を述べ、1991年に見瀬丸山古墳の内部が撮影された際には、「私の推古女帝観がが根底から揺らぐような事実が判明した。」と、自説の見直しもしている。また古代史ブームについては、高度成長期を過ぎた日本での「時代の流れの中で生まれた日本人の血と日本民族特有の知的欲求の産物」とも述べている。これら古代史小説は、古代の中国や朝鮮半島の情勢の影響を考慮した独特の歴史解釈と、現代小説とも共通する人間分析が特徴となっている。
1980年に『天の川の太陽』で吉川英治文学賞を受賞、1992年には一連の古代歴史ロマンにより菊池寛賞を、「古代に材をとり巷説伝承を越えて、雄大な構想と艶やかな情感で、時代に光芒を放つ新しい人間像を創出した一連の歴史ロマンに対して」として受賞している。他の代表的な作品に『白鳥の王子ヤマトタケル』などがある。1984年から直木賞選考委員。奈良文学賞選考委員も務めた。
自伝的小説として、宇陀中学時代を振り返る「春の傷」(1993年)、流行作家時代に趣味のクルーザーで釣りをしながら様々な想念に耽る「ボート物語」(1992年)、長年交流があるノンフィクションライターで長編小説『廃虚の唇』『詐欺師の旅』の題材を得たともいうS氏についての「霧の跫音」(1993年)、「霧の顔」(1993年)、86歳で亡くなった母の死を振り返る「或る戦士」(1991年)、「脳死の残映」(1994年)なども執筆した。
2003年、肝不全により死去。死後に書斎から、入院中に完成させた『闇の左大臣 石上朝臣麻呂』の連載最終回の原稿が発見され、陳舜臣、田辺聖子、津本陽、北方謙三の追悼文とともに掲載された。
1970年代からクルーザーによる遊泳、釣りを趣味としていたが、1994年に紀淡海峡沖で貨物船との衝突事故により命を落としかけたのを機に、クルーザーはやめた。人物評として、水上勉「文壇のどの徒党にも属さない一匹狼」、瀬戸内晴美「きゃしゃで繊細で、どこか痛々しい感じのする外貌をもつが、実はタフでねばり強く、けんかに強く、女にも強いスーパーマンである。しかし神経だけは外貌のごとく繊細である」がある。大阪で生まれ育ったが、東京出身の母の影響で大阪弁よりは標準語に近い喋り方と言われた。 弟は1969年に黒岩竜太のペンネームでオール讀物新人賞入選するが、数作を発表後に小説から離れた。妻黒岩秀子による自伝的エッセイとして『女房の狸寝入り』(集英社 2000年)がある。 弟子に難波利三がおり、難波が『てんのじ村』で第91回直木賞候補となった際、連城三紀彦の単独受賞でもおかしくなかったところを黒岩が猛烈に後押しして難波の同時受賞を実現した。
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