高木 東六(たかぎ とうろく、1904年7月7日 - 2006年8月25日)は、主に昭和期に活躍した日本の作曲家、ピアニスト。別名に鳥羽 俊三(とば しゅんぞう)。
1953年春に松島で撮影 | |
基本情報 | |
別名 | 鳥羽 俊三、司太郎、高木 伸男、高木 律朗 |
生誕 | 1904年7月7日 |
出身地 | 日本 鳥取県米子市 |
死没 | 2006年8月25日(102歳没) |
ジャンル | クラシック |
職業 | 作曲家、ピアニスト |
担当楽器 | ピアノ |
活動期間 | 昭和時代 |
現在の鳥取県米子市に正教会の神父(司祭)の子として生まれる(本籍地は岡山市)。現在の茨城県北茨城市磯原町にて育ち、幼い頃より音楽教育を受けた。1924年に東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)ピアノ科に入学し、橘糸重、高折宮次、レオニード・コハンスキに師事。しかし1928年に学内の事情で中退を余儀なくされフランスに留学し、パリ音楽院教授アルマン・フェルテ(Armand Ferté、1881-1973)に1年間ピアノを師事した後、スコラ・カントルムでポール・ブロー(Paul Braud)にピアノを、ヴァンサン・ダンディに作曲を学び、またガブリエル・ピエルネからも多くの教示を受けた。1932年に卒業して帰国し、フランス滞在中に知り合った山田耕筰の勧めで作曲家に転向した。管弦楽曲「朝鮮風舞踊組曲」が1940年に新京音楽院賞に1位入選、1942年には文部大臣賞を受賞している。1939年からオペラ「春香」の作曲を行うも1945年5月の空襲により東京の自宅は全焼し、楽譜も焼失した。高木も失意の中、長野県伊那市に疎開する。そこで「春香」の再作曲の依頼を受け、1947年「春香」二作目が完成、翌1948年に初演された。帝国音楽学校ピアノ科主任教授、東京エコール・ド・シャンソン校長、岐阜女子短期大学教授(1970年から1975年)を務めた。高木の教え子に北村維章、大河原力がいる。
高木の作曲した音楽はオペラ、ピアノ曲などのクラシック音楽に留まらず、シャンソンやポピュラー曲など多岐に亘った。だが、演歌や歌謡曲に関しては「喜びや笑い、ユーモアがない」や「メロディーが暗くて絶望的。歌詞も星、涙、港と百年一日である」と公言するほど、批判的な意見で有名だった(しかし、演歌歌手の島津亜矢が少女時代にデビューした際、藤山一郎とともに絶賛したという逸話も伝えられている)。
またテレビでもNHKの「あなたのメロディー」やTBSの「家族そろって歌合戦」に長きに亘り、審査員として出演。持ち前のユーモアと辛口さを織り交ぜたコメントでお茶の間でも知られるようになった。特に全国を巡回しての公開視聴者参加型番組であった「家族そろって歌合戦」では審査員紹介の際に毎週、会場となった土地にちなむ俳句を披露することで有名であった。
その後、高齢者の合唱団の指揮・指導など90歳を越えても現役で活躍していた。
1980年に勲四等旭日小綬章を受章、1982年に日本童謡賞を受賞、1997年には米子市市民栄光賞を受賞した。2004年より伊那市名誉市民となる。
2006年8月25日、肺炎のため埼玉県内の病院で大往生した。102歳没。高木は日本ハリストス正教会に所属する正教徒であったため、埋葬式は8月28日にニコライ堂で行われた。聖名はアファナシイ。これはギリシャ語語源で「不死の者」を意味する。高木の最も有名な弟子でもある作曲家の平義久には前年に先立たれていた。
自身の女性遍歴等を綴った『とうろくらぷそでぃ』(サンケイ新聞社出版局、1969年)など著書多数。
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