阿部 知二(あべ ともじ、1903年(明治36年)6月26日 - 1973年(昭和48年)4月23日)は、日本の小説家・英文学者・翻訳家。
阿部 知二 | |
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1949年 | |
誕生 | 1903年6月26日 岡山県勝田郡湯郷村 |
死没 | 1973年4月23日(69歳没) 東京都中央区築地 |
墓地 | 川崎市の春秋苑 |
職業 | 小説家、評論家 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京帝国大学英文学科卒業 |
代表作 | 『主知的文学論』(1930年) 『冬の宿』(1936年) 『風雪』(1939年) |
デビュー作 | 『化生』 |
子供 | 阿部良雄(長男)、阿部信雄(次男) |
親族 | 木村毅(従兄) |
1903年(明治36年)6月26日、岡山県勝田郡湯郷村大字中山(現・美作市中山)に出生。父は阿部良平、母はもりよ。次男。中学教師であった父の赴任により、生後2ヶ月で島根県大社町に移り、さらに9歳のとき姫路市坊主町(ぼうずまち)に移る。旧制姫路中学(現・姫路西高校)を5年制のところを4年で修了し、旧制第八高等学校(現・名古屋大学)文科甲類(英文学科)、東京帝国大学(現・東京大学)英文学科を卒業。兄・公平の影響で文学に近づき、短歌を学んで島木赤彦に接し、またトルストイやチェーホフを愛読する。東京帝大時代にはじめての小説「化生」を大学の文芸部の雑誌『朱門』に発表し、その後、小説を中心に取り組む。1930年(昭和5年)、27歳で雑誌『新潮』に「日独対抗競技」を発表してデビュー。同年、「主知的文学論」を発表、また結婚する。『文学界』1936年1月 - 10月に発表し同年12月に刊行された『冬の宿』が代表作となる。『日本評論』1938年9月 - 1939年8月に『風雪』を連載し同年9月に刊行。その後も小説や翻訳を発表し、明治大学教授として英文学を講じる。1941年『白鯨』を初めて訳し、これが翻訳の代表作となる。
1953年8月、女子寄宿舎を描いた長編『人工庭園』を発表。1954年2月、同名の作品集(大日本雄弁会講談社)を刊行。『人工庭園』は木下惠介監督よって『女の園』のタイトルで映画化され、同年3月に公開された。そして1954年度キネマ旬報ベストテンで2位を記録した。
翻訳も活発に行い、「世界文学全集」(河出書房新社)の編者として翻訳界の盟主の観があった。創元推理文庫(東京創元社)版シャーロック・ホームズシリーズ(1960年版 創元ホームズ)の最初の訳者としても知られる(ただし現行出版の創元推理文庫版ホームズは深町真理子訳版の「2010年新訳版 創元ホームズ」に差し替えられている)。『捕囚』の口述筆記中に、1973年(昭和48年)4月23日、東京都中央区築地の国立がんセンターにおいて、食道癌のため死去。69歳。河出書房新社より『全集』全13巻が出された。
長男は阿部良雄(フランス文学者、東京大学名誉教授)、次男は阿部信雄(1948-、美術評論家・元ブリヂストン美術館学芸部長)、従兄は木村毅(作家)。
兵庫県立姫路西高等学校(彼の母校、旧制姫路中学の新制下での学校)の校歌作詞を依頼され、「友にあたう」と題する校歌を作詞する。作曲は山田耕筰。1952年(昭和27年)。
1952年(昭和27年)の血のメーデー事件において、姫路中学の後輩・黒岩敏郎が被告人となり、彼の依頼を受けて特別弁護人として法廷に立った。
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