調布飛行場(ちょうふひこうじょう、Chofu Airport)は、東京都調布市(一部は三鷹市・府中市にまたがる)に所在する日本の飛行場である。東京都営空港の一つ。正式名称は東京都調布飛行場。調布空港と呼ばれることもある。
東京都調布飛行場 Chofu Airport | |||||||||
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旅客ターミナルビル | |||||||||
旅客ロビー | |||||||||
IATA: ? - ICAO: RJTF | |||||||||
概要 | |||||||||
国・地域 | 日本 | ||||||||
所在地 | 東京都調布市 | ||||||||
種類 | その他の空港 | ||||||||
運営者 | 東京都港湾局 | ||||||||
運用時間 | 8:30-18:00 | ||||||||
開設 | 1973年 | ||||||||
標高 | 42.3 m (138.8 ft) | ||||||||
座標 | 北緯35度40分18秒 東経139度31分41秒 / 北緯35.67167度 東経139.52806度 東経139度31分41秒 / 北緯35.67167度 東経139.52806度 | ||||||||
公式サイト | www | ||||||||
地図 | |||||||||
調布飛行場の位置 | |||||||||
滑走路 | |||||||||
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統計(2020年) | |||||||||
旅客数 | 62,684人 | ||||||||
貨物取扱量 | 33トン | ||||||||
発着回数 | 5,613回(着陸回数) | ||||||||
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空港の一覧 |
東京都本土と伊豆諸島を結ぶ空の玄関口である(伊豆大島、新島、神津島、三宅島)。旅客だけでなく伊豆諸島の海産物や農産品の空輸拠点であり、空港ターミナルビルにはアシタバ、くさやなどの自動販売機が置かれている。
日中戦争中の1938年11月、陸軍次官・内務次官から東京府知事に対して飛行場建設への協力が申し入れられた。同年12月18日、調布尋常高等小学校で飛行場建設予定地の説明会が開催された。
1939年1月16日、「東京調布飛行場」の建設が告示され、3月20日には東京府知事が逓信大臣に飛行場の設置許可を申請した。4月22日に地鎮祭が挙行され、建設工事が開始された。5月30日には飛行場予定地の買収や建物の撤去と竹木類の伐採が完了した。1940年3月30日、陸軍省・逓信省航空局・東京府の三者間で調布飛行場設置に関する協定が締結された。
1941年4月30日、竣工式が行われ、東京府が現在の位置に公共用飛行場「東京調布飛行場」として開設した。当時は現在の滑走路とほぼ同じ位置のメイン滑走路(全長1000 m・幅80 m)とメイン滑走路の南端近くで交わる東西方向の横風用滑走路(全長675 m・幅80 m)の合計2本のコンクリート舗装滑走路が存在した。
第二次世界大戦中は、もっぱら日本陸軍が使用した。特に1942年のドーリットル空襲以降は帝都防空拠点として重要視されるようになり、南は現在の味の素スタジアムのあたり、西は現在の警視庁警察学校のあたりまでそれぞれ拡張され、未舗装の滑走地帯となった。
第二次世界大戦末期には、首都圏への空襲に飛来する米軍B-29爆撃機などを撃退するために戦闘機隊が配備された。三式戦闘機を装備した飛行第244戦隊で、京浜地区の空襲のたびに出動しB-29に体当たりするなどした。沖縄戦が始まると同戦隊は特攻作戦支援のために九州へ移動し、調布飛行場には偵察機だけが残された。
第二次世界大戦敗戦後の1945年9月、調布飛行場は日本を占領下に置いた連合国軍のうち関東の占領業務にあたった米軍に接収された。舗装滑走路はアメリカ軍の飛行場として使用され、戦時中に拡張された未舗装の西側地区は当初、米軍の水耕農場とされた。また、これら物資輸送のため、西武多摩川線から専用線が引かれていた。なおその後、その専用線は廃線となる。
1952年になると、対日講和条約と日米安保条約が発効し、それに伴って日米安保条約付随の日米行政協定により、飛行場とともに「調布水耕農園(施設番号 FAC 3702)」の名称で、接収財産から在日米軍の提供施設区域に切り替えられた。その後、東京都渋谷区にあったアメリカ軍兵舎・住宅施設「ワシントンハイツ」が、1964年の東京オリンピック開催にあわせて日本に返還されることになったことから、代替住宅施設が建設され、「関東村住宅地区及び補助飛行場」と名称変更された。
1954年8月、飛行場の日米共同使用がアメリカ側から認められた。1955年2月、飛行場地区の一部が日本に返還され、国(運輸省)の管理によって場外離着陸場として運用されるようになった。1972年2月、地元の三鷹・府中・調布の3市は、在日米軍の全面返還後の利用などについて協議するために、市長及び市議会議長で構成する「調布基地対策連絡協議会(略称「六者協」)」を結成。同年4月、東京都は継続使用を求める日本政府に対し、3年以内に代替空港の選定及び移転をすることを条件に暫定使用を了承した。
1973年(昭和48年)3月、飛行場地区が日本に全面返還された。その後約10年にわたり、日本国政府(運輸省)、東京都及び六者協の間で、返還後の跡地の利用について協議が繰り返される。1979年3月には、新中央航空が調布 - 新島間の不定期便運航を開始。更に1984年12月には調布 - 大島間が、そして1992年7月には調布 - 神津島間の不定期便が運航されるようになった。
2013年(平成25年)4月2日に新しい旅客ターミナルビルが完成し、供用が始まった。旅客ターミナル内には新中央航空のチェックインカウンター、待合室、自動販売機、トイレなどが設置されており、2階には乗客が乗降するための駐機場や滑走路を見られる展望コーナーがある。また、旅客ターミナル前にバス停とタクシー乗り場、車寄せ、駐車場がある。なお、自動販売機には、島嶼部の特産品を販売している物もある。
ボーディングブリッジ、レンタカー会社、ATM、外貨両替所、レストランなどはないが、10分ほど離れたターミナル外の空港敷地内にレストラン「プロペラカフェ」がある(パイパー PA-46墜落事故の影響で一時営業休止していたが現在は再開。運営会社の日本エアロテックの社員食堂でもある)。
なお、プロペラカフェを除き、近隣に飲食店は少なく、飛行場前の道路を南下した、「大沢コミュニティセンター」バス停周辺に、食堂「山形家」や、ファミリーレストラン「ココス」(三鷹大沢店)等の飲食店がある他、飛行場前の道路を北上した、人見街道沿いに蕎麦屋等がある。いずれも飛行場から徒歩約10分。
ターミナルビル内には売店はなく(自動販売機は飲料とパンやアイスクリーム等の軽食)、最寄りのコンビニエンスストアは、「大沢コミュニティセンター」バス停近くのファミリーマート(調布天文台通り店)である。
調布駅、三鷹駅との間に路線バスがある。
東京都調布市西町290番3(東京都調布飛行場管理事務所)
1995年(平成7年)から毎年10月頃に「調布飛行場まつり」が開催されていたが、後述のPA-46墜落事故に伴い、2015年度より開催を見合わせている。
2本の滑走路のうち東西方向の横風用滑走路はアメリカ軍占領時代以降使用されなくなっていたが、1990年代前半まではどちらも航空写真などで旧日本軍時代の舗装跡をはっきり確認することができた。
しかし、「関東村」の跡地が日本国政府から払い下げられて飛行場の開発が始まると、旧滑走路や駐機場の舗装跡などは撤去された。
撤去後に改めて現在の滑走路、駐機場及びその他の付属施設を新設したため、旧飛行場の面影は現在ほとんど残っていない(詳細に探せば、ごく一部に見つけることが可能ではある)。
現在、移築保存された旧飛行場の門柱と飛行場北側に残された戦闘機用コンクリート掩体壕三つが公開されている(他にも掩体壕、対空砲砲座跡などがいくつか残っているが、個人の敷地内なので公開されていない)。
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