尾道鉄道(おのみちてつどう)は、かつて広島県の尾道市と御調郡御調町(現在の尾道市の北部)を結ぶ鉄道路線を有していた鉄道事業者である。
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 | 日本 広島県尾道市栗原町323の6 |
設立 | 1918年(大正7年)12月20日 |
業種 | 鉄軌道業 |
事業内容 | 旅客鉄道事業、バス事業 |
代表者 | 社長 橋本竜一 |
資本金 | 18,000,000円 |
発行済株式総数 | 360,000株 |
特記事項:1964年度現在(『私鉄要覧 昭和39年度版』 115頁) |
尾道 - 石畦(いしぐろ)間で開業し、後に石畦 - 市(いち)間が開通した。しかしモータリゼーションの進行と利用客数の低迷から、1957年(昭和32年)に石畦 - 市間を廃止、残る尾道 - 石畦間も1964年(昭和39年)に廃止したことで鉄道事業から撤退、路線バスの運行に切り替えられた。
尾道 - 上下間の免許を取得しており、また現在の三次市に至る支線を通し日本海側と連絡する計画もあったが、実現しなかった。
会社自体は鉄道廃止後も社名を変更せずバス事業者として営業を続け、1970年(昭和45年)にニコニコバスに吸収合併された。ニコニコバスは社名変更し中国バスとなっている。
尾道鉄道線 | |
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旧尾道鉄道4号トンネル (2005年8月) | |
概要 | |
現況 | 廃止 |
起終点 | 起点:尾道駅 終点:市駅 |
駅数 | 18駅 |
運営 | |
開業 | 1925年11月1日 |
最終延伸 | 1933年3月28日 |
部分廃止 | 1957年2月1日 |
廃止 | 1964年8月1日 |
所有者 | 尾道鉄道 |
使用車両 | 車両の節を参照 |
路線諸元 | |
路線総延長 | 17.1 km (10.6 mi) |
軌間 | 1,067 mm (3 ft 6 in) |
最小曲線半径 | 80 m (260 ft) |
電化 | 直流600 V 架空電車線方式 |
最急勾配 | 50 ‰ |
停車場・施設・接続路線(廃止当時) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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尾道を含めた備後南部から、備後北部の主要都市である三次市を経由して中国山地を越え島根県へ出る輸送経路は、古くから街道(出雲街道、東城往来等)として整備されており、明治に入り鉄道が普及すると、このルート(陰陽連絡路線)に鉄道を敷設しようという機運が巻き起こった。
その一つとして、1899年(明治32年)に「尾三鉄道」が設立され、尾道から甲奴郡上下町(現・府中市上下町)を経て三次に至る間の路線の仮免許を取得したが、測量に難航しているうちに2年間の仮免許期間が経過してしまい仮免許が失効した。
その後1910年(明治43年)に「軽便鉄道法」が制定されたのを受け、改めて軽便鉄道線として尾道から上下までの路線が計画され、1912年(明治45年)5月に免許を申請、翌1913年(大正2年)8月に取得した。
しかし1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦などの影響もあって資金がなかなか集まらず、工事施工認可申請期限の延長を数度も行うなどもしたが、1918年(大正7年)12月20日に、「尾道軽便鉄道株式会社」がようやく設立される。
そして1919年(大正8年)5月に工事施工許可を申請、翌1920年(大正9年)12月に許可が下り、さらに翌年の1921年(大正10年)4月にようやく工事に着手することになる。
上述の通り、当初の計画では、蒸気機関車を用いた軌間765mmの軽便鉄道線として建設される予定であったが、輸送力や勾配(最大40パーミルが予想された)に対する懸念、および尾道駅で省線(後の国鉄、現・JR)と相互に貨車を乗り入れる事を構想していたため、電気動力で軌間1067mmの鉄道線へと計画変更し、それに伴い、1923年(大正12年)4月25日、「尾道鉄道株式会社」に社名を変更した。
以上のような経過を経て、1925年(大正14年)11月1日に、西尾道-石畦間が開業した。次いで1926年(大正15年)4月28日、石畦-市間も延伸開業、1933年(昭和8年)3月28日には西尾道-尾道仮停車場間も延伸され、省線尾道駅との連絡も実現した。
しかし、当初の計画にあった上下への延伸については、これ以前の1922年(大正11年)に、福山-府中-三次間が「陰陽連絡線」として制定されており、1914年(大正3年)に開通していた両備鉄道(1926年(大正15年)6月までは両備軽便鉄道)を国有化しこれに充当する動きがあったため(実際に国有化され現在は福塩線となっている)、市駅以北への延伸は断念せざるを得ない状況となり、市-上下間の免許は1932年(昭和7年)12月2日付で失効した。
1930年(昭和5年)、全額出資子会社の尾三自動車(かつて愛知県に存在した同名のバス会社とは無関係)を設立し、路線バス事業にも参入する。1941年(昭和16年)にはこれを買収し、鉄道とバスの両部門を持つこととなった。
当初、終点の市駅を起点に連絡バスを走らせていたが、並行する国道184号の改良に伴い、次第に尾道駅からの運行に切り替わっていった。このため、自社の路線バスが鉄道部門のライバルとなるという事態となった。特に石畦以北ではバスの方が集落に近い場所を走り利便性に優れていたため、鉄道利用客を奪っていったと伝える。
それでも、第二次世界大戦終戦直後は、急増した輸送需要に活況を呈したが、物不足の折、補修部品の入手もままならず、車両は酷使され続けた。その中で1946年(昭和21年)に尾道鉄道電車脱線転覆事故が起き、多数の死傷者を出した。この事故以降、車両の集電装置をトロリーポールからパンタグラフへと変更した。
1949年(昭和24年)には、鉄道線と並行し閑古鳥であったため休止していた栗原通りのバス路線免許を尾道市営バス(当時)に売却したことで電車とバスの優位は逆転し、栗原駅以南の市街地の乗客を市営バスに献上する事態となる。
1951年度(昭和26年度)から1956年度(昭和31年度)の間、鉄道部門の赤字をバス部門の利益でカバーするという状況が続き、収入の8割以上がバス部門によるものだったという。それでも会社全体の営業収支は常に赤字だった。同年に、国鉄尾道駅から西尾道駅近くの飼料工場までの貨車を当社路線を使って直通させるようにしたり、1957年(昭和32年)2月3日には、負担の大きい区間である石畦-市間を廃止するなどしたが、抜本的な経営改善とはならず、通学客が殺到する朝夕のラッシュ時を除けば、「空気を運んでる」と揶揄されるほど乗客が少ない有様となった。末期には、乗客数に占める通学定期客数の割合が、全体の70から75%にも上ったという。
こうした状況から、もはや鉄道事業の存続は困難との結論に達し、1964年(昭和39年)8月1日、鉄道事業を廃止し、バス専業へと転換した。その後6年ほどはバス事業者として生きながらえていたが、1970年(昭和45年)3月5日、福山市に本拠を置くバス会社であるニコニコバス(合併と同時に社名を中国バスに変更)へ吸収合併され、法人としても消滅した。
※呼称は廃止時点のもの。御所橋は仮駅。
尾道駅 - 御所橋駅(仮) - 西尾道駅 - 地方事務所裏駅 - 青山病院前駅 - 宮ノ前駅 - 栗原駅 - 尾道高校下駅 - 三美園駅(さんびえん)- 三成駅(みなり)- 木梨口駅 - 遊亀橋駅(ゆうきばし)- 木頃本郷駅(きごろほんごう)- 石畦駅(いしぐろ)- 西校上駅(にしこううえ)- 畑駅 - 諸原駅 - 市駅(いち)
路線中の最高所は畑駅。諸原駅は高低差があるためスイッチバックであった。車庫および変電所は三成に設けていた。また、旧栗原駅の北側には1988年に山陽新幹線の新尾道駅が設けられている。
仮駅である御所橋駅と同名の橋が、(埋め立てられ現在の位置に河道が付け替えられる前の)旧栗原川に架けられていた。
事業者名は廃止時点のもの
年度 | 輸送人員(人) | 貨物量(トン) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 営業益金(円) | その他損金(円) | 支払利子(円) | 政府補助金(円) |
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1926 | 322,549 | 4,168 | 79,756 | 85,244 | ▲ 5,488 | 雑損5,099 | 50,963 | 104,568 |
1927 | 318,376 | 6,270 | 82,627 | 73,757 | 8,870 | 雑損96 | 59,764 | 92,536 |
1928 | 323,073 | 5,787 | 81,769 | 77,707 | 4,062 | 雑損86 | 58,324 | 92,657 |
1929 | 301,393 | 3,765 | 73,197 | 72,990 | 207 | 雑損501 | 56,638 | 92,844 |
1930 | 228,559 | 1,569 | 55,560 | 55,691 | ▲ 131 | 雑損償却金18,710 | 59,946 | 93,886 |
1931 | 195,179 | 760 | 52,666 | 49,906 | 2,760 | 償却金24,079 | 57,347 | 79,561 |
1932 | 181,689 | 1,663 | 51,104 | 45,135 | 5,969 | 雑損償却金46,181 | 56,202 | 96,479 |
1933 | 205,066 | 3,207 | 55,084 | 50,793 | 4,291 | 償却金47,154 | 53,063 | 96,369 |
1934 | 210,296 | 1,863 | 53,296 | 50,458 | 2,838 | 償却金51,682 | 43,652 | 93,986 |
1935 | 227,568 | 1,148 | 61,123 | 47,720 | 13,403 | 47,844 | 36,011 | 72,193 |
1936 | 273,137 | 548 | 68,973 | 40,353 | 28,620 | 雑損214 | 28,501 | |
1937 | 362,094 | 722 | 74,366 | 48,215 | 26,151 | 償却金12,876雑損134 | 28,228 | 15,844 |
1939 | 586,713 | 1,433 | ||||||
1941 | 902,060 | 2,937 | ||||||
1945 | 2,085,995 | 1,402 | ||||||
1949 | 1,632,672 | 116 | ||||||
1952 | 1,482,354 | 3,899 | ||||||
1955 | 1,415千人 | 2,963 | ||||||
1958 | 1,663千人 | 2,748 | ||||||
1960 | 1,787千人 | 1,492 | ||||||
1962 | 1,688千人 | 1,276 |
開業時に用意された車両は電動客車(定員50人)3両(4両という資料あり)、附随客車(定員50人)3両(4両、または2両という資料もあり)、電動貨車3両、無蓋貨車5両すべて梅鉢鉄工所製四輪車。1926年に附随客車(53)を電動客車化。廃車した電動貨車(101)の電装品を使用。1932年電動貨車(102)を有蓋貨車に改造。1933年附随客車(52)を電動客車(5)に改造。
尾道鉄道では、電動車に「デキ」(デンドウキャクシャの略)、制御車・付随車に「キ」の記号を使用した。
尾道鉄道線は尾道駅の北側から発着していた。駅があった場所は現在駐輪場等に使用されている。西尾道駅跡にはホテルが建てられたが、現在は解体されておりマンションが建設された。また市街地には僅かに橋桁等が残っている。
石畦 - 畑間の盛土区間については、しばらく放置されていたが、改良工事の上、1986年(昭和61年)に国道184号バイパスとして開通した。一部のトンネルが歩行者用として再利用されたほか、国道のルートから外れたトンネルが、現在でも煉瓦造りの姿をそのままに残している。現在、当該区間には、かつての電車線の終点である市へ、また市より別の起業家が鉄道敷設を目指した府中方面へのバスが数本走っている。三成にあった車庫は現在中国バスの尾道営業所、市駅跡は市出張所となっている。
山陽本線とは離れた位置に建設された山陽新幹線新尾道駅付近を走行していた。実際に敷設されたルートは現在の国道184号線に沿っており、石見銀山で産出された銀を海上輸送のため尾道まで運搬した石見銀山街道と平行、または近接している(ただし木梨口 - 畑間付近の木ノ庄地区においては鉄道・国道は西側、街道は東側を経由する違いがある)。また終点として計画された上下は街道の宿場町として栄えた場所であるが、鉄道の輸送ルートとしては結果的に使用されることなく、上下・三次へは福山から現在の福塩線が伸び、福山市と鉄道で結ばれることになった。吉舎 - 上下 - 府中 - 神辺と至るこの経路もまた、尾道へ至るルートから別れ、笠岡に向かった銀山街道を追っている。
廃線跡は地上から確認するのは困難であるが、航空写真等で上空から見ると宮ノ前 - 尾道間は住宅が廃線跡の上に沿うように、長細く連なっているのが確認できる。
現在市街地で遺構を確認できるものは、宮ノ前 - 栗原間の栗原の本通りと交差する部分にあった踏切の台座と、その先にある川にある橋台くらいである。
中国バス尾道営業所は三成にあるが、鉄道営業当時バスの車庫は本社も所在した西尾道駅構内にあった。バス専業化後は本社兼車庫として、中国バスに併合された以後も尾道営業所兼車庫として存在した。三成車庫に集約されるのは国道184号線(通称:桜土手)が整備された後年のことである。そしてその跡地に、かの中国バス直営ホテルが建設されることとなる。
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