堀内 敬三(ほりうち けいぞう、1897年(明治30年)12月6日 - 1983年(昭和58年)10月12日) は、日本の作曲家、作詞家、訳詞家、音楽評論家。「あやしいぞ」をもじった安谷 鎮雄という筆名もある。冬の星座を作詞したことで著名。
堀内 敬三 | |
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1956年頃の堀内敬三 | |
基本情報 | |
生誕 | 1897年12月6日 |
出身地 | 日本 東京市神田区(現:東京都千代田区)鍛冶町 |
死没 | 1983年10月12日(85歳没) |
学歴 | ミシガン大学卒業 |
職業 | 作曲家 |
活動期間 | 1916年 - 1983年 |
「浅田飴」オーナーの堀内伊太郎の三男として東京市神田区(現:東京都千代田区)鍛冶町で生まれる(ただし浅田飴本舗の相続権は34歳、日本大学芸術学部講師になった年に放棄)。
東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)を経て、1915年(大正4年)、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。小学校と中学校を通じて、言文一致唱歌の提唱者田村虎蔵に音楽を習う。同校在学中、1912年(明治45年/大正元年)頃から親類の東京帝大生二見孝平の音楽的影響を受け、大沼哲にピアノや和声学を学ぶ。
第二高等学校(現:東北大学)の受験に失敗して浪人生活を送っていたとき、1916年(大正5年)、小林愛雄、大田黒元雄、野村光一、菅原明朗たちと共に岩波書店から日本最初の音楽批評誌『音楽と文学』を創刊。当時から音楽の道に進むことを志望していたが、音楽を学ぶことにつき生家の賛同が得られず、1917年(大正6年)に渡米し、ミシガン大学にて、大好きな蒸気機関車に縁のある自動車工学を学ぶため機械工学を専攻。併せて同校音楽学部専科でアール・ヴィンセント・ムーアに作曲を、アルバート・オーガスタス・スタンリーに音楽史を師事し、合唱団に参加。1918年(大正7年)冬にはニューヨークで山田耕筰に面会。
1921年(大正10年)、マサチューセッツ工科大学大学院修士課程に入学し、応用力学を専攻。1922年(大正11年)には6月から9月にかけてヨーロッパを旅し、ロンドン、ベルリン、パリ、ベルギー、オランダ、ドイツ、イタリアを巡る。留学中は巡査の月給が70ドルの時代に月額200ドルの仕送りを受け、週末になると居住地のボストンからニューヨークまで寝台車で通い、演奏会や芝居を楽しんだ。
1923年(大正12年)、マサチューセッツ工科大学修士課程を修了し、機械工学の修士号を取得し、神戸に帰港。帰国後は関東大震災の被害により横浜の倉庫で荷物が焼失し、多くの実験データを失い、神田の実家は全焼する。これにより再び渡米して研究者になる夢は断念せざるを得なくなってしまった。父親が合弁会社として設立した自動車修理工場の代表社員ともなったが、音楽に熱中し、翻訳、作曲、作詞、放送、音楽教育関係の仕事を行う。1926年(大正15年)、野村光一の依頼で作詞作曲した「若き血」(慶應義塾大学応援歌)のヒットにより音楽の道に進むことを父に許され、同年からNHK洋楽主任となる。1935年(昭和10年)から松竹蒲田撮影所音楽部長ならびに日本大学教授を兼任。
1936年(昭和11年)、『月刊楽譜』の発行名義人となる。1938年(昭和13年)2月、『音楽世界』主幹。同年9月28日、日大教授辞任。同年10月31日、松竹大船撮影所音楽部長辞任。1941年(昭和16年)11月、『月刊楽譜』、『音楽世界』、『音楽倶楽部』を合併して『音楽之友』を創刊、日本音楽雑誌株式会社(音楽之友社の前身)を設立、取締役社長に就任。戦時中は軍国主義的な風潮に迎合し、
日本に居るユダヤ系指揮者や演奏者には優秀な技術を持つ人々がある。しかし、たとへ其の人々が神の如き手腕を持つてゐたにせよ、其の人々を尊重する事が今日の国民思想に悪い影響を及ぼすならば考へ直さなくてはならぬ。国家あつての芸術である。
と発言したこともある。
太平洋戦争中に空襲で焼失した浅田飴本舗(神田駅前)の敷地内にバラックを建て、音楽之友社を存続させた。ただし、戦後まもなく編集者としては引退し、1946年(昭和21年)には取締役社長も目黒三策に引き継ぎ、自らは会長職となった。
1947年(昭和22年)、日本音楽著作家組合(現:全日本音楽著作家協会)の初代会長に就いた。
1949年(昭和24年)放送開始のNHKラジオ「音楽の泉」の司会進行役・解説者(同番組では、アナウンサーが「おはなしは、堀内敬三さんです(でした)。」と紹介する)を1959年(昭和34年)まで務め、広く親しまれる。自他共に認める鉄道ファンでもあり、「話の泉」での共演者の徳川夢声からは「彼(堀内)のモノ知りは非常に本格的なのである」と評され、音楽・鉄道・電気・化学・歴史・地理・国文学・和歌俳諧・歌舞伎・落語などにわたる博識ぶりを讃えられた。また、外国で入手した楽譜と語学力とを活かして優れた訳詞を行い、日本の翻訳歌曲を芸術の域に高めた。これらの訳詞は永井郁子の日本語による独唱会(初回は1925年(大正15年)11月1日、帝国ホテル演芸場。同様の会が3年にわたって開かれた)向けに短期に集中して行われたと思われる。1958年(昭和33年)10月から翌年の7月までの約9ヶ月間、東洋音楽短期大学(現在の東京音楽大学)の第二代学長に就任した。1959年(昭和34年)、紫綬褒章受章。
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