カール=ハインツ・ルンメニゲ(Karl-Heinz Rummenigge、1955年9月25日 - )は、ドイツ出身の元サッカー選手。元西ドイツ代表。ポジションはFW。主にブンデスリーガのFCバイエルン・ミュンヘンでプレーした。1980年、1981年と2度のバロンドールを受賞し、その著しい活躍から『ミスターヨーロッパ』とも称えられた。引退後は、バイエルン・ミュンヘンの重職を歴任している。弟のミヒャエル・ルンメニゲはJリーグ、浦和レッズでもプレーした。
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バイエルン・ミュンヘンCEO時代(2015年2月) | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | Kalle(カーレ)、Mr.ヨーロッパ | |||||
ラテン文字 | Karl-Heinz Rummenigge | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1955年9月25日(68歳) | |||||
出身地 | リップシュタット | |||||
身長 | 182cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1974-1984 | バイエルン・ミュンヘン | 310 | (162) | |||
1984-1987 | インテル・ミラノ | 64 | (24) | |||
1987-1989 | セルヴェット | 50 | (34) | |||
代表歴 | ||||||
1976-1986 | 西ドイツ | 95 | (45) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
1955年、ノルトライン=ヴェストファーレン州リップシュタットに生まれた。1963年、地元のボルシア・リップシュタットでサッカーを始めた。子供の頃のアイドルはサンドロ・マッツォーラだった。10代の頃、ここでの活躍はドイツ国内で知れ渡るようになっていた。
18歳の頃にはバイエルン・ミュンヘン、シャルケ04、ボルシア・ドルトムントなど、ブンデスリーガの14チームからオファーを受けた。一番最初のオファーはバイエルンであったが、周囲の人間たちからは、バイエルンはいい選手が揃っているので、加入しても出場出来ないだろうと言われ、ボルシア・リップシュタットの監督に相談したところ、バイエルンに行くことを勧められた。1974-75シーズン、デットマール・クラマーの勧誘によりバイエルン・ミュンヘンに入団。 ブンデスリーガへのデビューは、1974年8月24日のオッフェンバッハ戦。9月7日、ポカールのVfBシュトゥットガルト戦で公式戦でのプロ初ゴールを決めた。リーグ第4節の1.FCケルン戦でブンデスリーガ初ゴールを決めた。このシーズンは、リーグ戦の25試合に出場、4得点。また、同シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、4試合に出場し、無得点であったが、大会初優勝を果たした。
1975-76シーズンからレギュラーポジションを掴み、UEFAチャンピオンズカップ連覇。インターコンチネンタルカップでも優勝。このシーズンの公式戦50試合に出場、13得点を決めた。10月6日ウェールズ戦で西ドイツ代表デビューを飾った。
1976-77シーズン、インターコンチネンタルカップを連破、このシーズンの公式戦42試合で15得点を挙げた。1977-78シーズン、1977年11月にクラマー監督は解任され、チームはリーグ12位、UEFAカップもベスト16止まりであった。個人としては、公式戦38試合で14得点を決めた。 1979-80シーズン、リーグ戦では第34節のアイントラハト・ブラウンシュヴァイク戦でのハットトリックを含む、トータルで26ゴールを決め、初のブンデスリーガ得点王を獲得した。
1980-81シーズン、リーグ戦では第12節の1.FCニュルンベルク戦、第28節のMSVデュースブルク戦、第33節のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦と3度のハットトリックを含む、29ゴールを決め、2度目のブンデスリーガ得点王を獲得した。また、12月にはバロンドール受賞。
1981-82シーズン、2年連続でバロンドール受賞。ブンデスリーガ、DFBポカールの二冠達成した。ポカール決勝の1.FCニュルンベルク戦では1ゴール1アシストを決めて優勝に貢献した。このシーズン、チャンピオンズカップでは、決勝でアストンヴィラに敗れた。1982-83シーズン、公式戦42試合で21得点を決めた。
1983-84シーズン、リーグ戦では第7節のSVヴァルトホーフ・マンハイム戦でハットトリックを、第21節のオッフェンバッハ戦では4ゴールを挙げ、第22節のブレーメン戦では弟のミヒャエルと共にゴールを決めるなど、トータルで26ゴールを決め、ブンデスリーガで3度目の得点王を獲得。ブンデスリーガ、DFBポカール二冠を達成。このシーズンの公式戦42試合で32得点を記録した。このシーズンでバイエルンを退団、以降母国のクラブでプレーすることは無かった。ブンデスリーガでは通算310試合162ゴール、ポカールでは42試合25ゴールの成績を残した。
1984-85シーズン、インテル・ミラノからオファーを受け、8月に、600万ユーロでイタリアのインテルへ移籍。この金額は当時、ディエゴ・マラドーナに次いで、史上2番目に高額な移籍金であった。ここではアルトヴェリ、リアム・ブレイディとチームの攻撃を担った。8月22日のコッパ・イタリア、S.P.A.L.戦で移籍後初ゴールを挙げた。セリエA第8節のユヴェントスとのイタリアダービーでセリエA初ゴールを含む2ゴールを挙げた。移籍1年目は、リーグ戦26試合で8得点に終わったが、コッパ・イタリアで5得点、UEFAカップでの5得点を決めた。UEFAカップでは準決勝まで進んだが、レアル・マドリードに敗れた。2シーズン目にはリーグ戦では24試合で13ゴール、年間トータルでは19ゴールを挙げたが、3シーズン目はアキレス腱の怪我に悩まされ、年間トータルで僅か24試合6ゴールに終わった。インテルからは、契約延長を提示されず、チームを去ることとなった。
1987年、スイスのセルヴェットFCへ移籍し、2シーズン活躍した後の1989年に、33歳で現役を引退。
西ドイツ代表では、1976年10月6日ウェールズ戦でデビュー。1977年10月8日のイタリア戦で代表初ゴールを挙げた。
1978年、ワールドカップアルゼンチン大会では1次リーグのメキシコ戦でワールドカップ初出場を果たし、2ゴールを決め、2次リーグのオーストリア戦でも1ゴールを決めたが、2次リーグで敗退し、準決勝には進出出来ず、6試合3得点
1980年のUEFA欧州選手権では決勝のベルギー戦でホルスト・ルベッシュの決勝ゴールをアシストして優勝に貢献した。
ワールドカップスペイン大会では1次リーグのアルジェリア戦で1ゴール、チリ戦ではハットトリックを決め、準決勝のフランス戦の延長戦でもゴールを決め、決勝進出したが、決勝のイタリア戦ではゴールを決められず、チームも敗れて準優勝に終わった。
1986年、ワールドカップメキシコ大会決勝のアルゼンチン戦でもゴールを決めたが、2-3と敗れた。大会後代表を引退、同試合が代表最後の出場であった。
1982年、1986年大会とも怪我を抱えながらの出場ながら、3大会で計19試合に出場して9ゴールを挙げ、2度決勝に進出したが、どちらの大会とも敗れ準優勝に終わった。代表通算では95試合45ゴールの成績を残した。
1990年からドイツ公共放送連盟(ARD)の解説者を務めた。翌1991年、バイエルン・ミュンヘンに副会長として復帰、2002年、フランツ・ベッケンバウアーの後任として同クラブの最高経営責任者(CEO)に就任。2021年6月をもって勇退した。
2004年に、ペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人(FIFA100)に選出される。
クラブ | シーズン | リーグ | リーグ | カップ1 | 国際大会2 | その他3 | 合計 | |||||
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出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |||
バイエルン | 1974–75 | ブンデスリーガ | 21 | 5 | 3 | 1 | 4 | 0 | — | 28 | 6 | |
1975–76 | 32 | 8 | 7 | 2 | 9 | 3 | 2 | 0 | 50 | 13 | ||
1976–77 | 31 | 12 | 5 | 2 | 6 | 1 | 4 | 0 | 46 | 15 | ||
1977–78 | 29 | 8 | 3 | 0 | 6 | 6 | — | 38 | 14 | |||
1978–79 | 34 | 14 | 2 | 0 | — | 36 | 14 | |||||
1979–80 | 34 | 26 | 3 | 5 | 10 | 5 | 47 | 36 | ||||
1980–81 | 34 | 29 | 3 | 4 | 8 | 6 | 45 | 39 | ||||
1981–82 | 32 | 14 | 7 | 7 | 9 | 6 | 48 | 27 | ||||
1982–83 | 34 | 20 | 2 | 0 | 6 | 1 | 42 | 21 | ||||
1983–84 | 29 | 26 | 7 | 4 | 6 | 2 | 42 | 32 | ||||
通算 | 310 | 162 | 42 | 25 | 64 | 30 | 6 | 0 | 422 | 217 | ||
インテル | 1984–85 | セリエA | 26 | 8 | 9 | 5 | 9 | 5 | — | 44 | 18 | |
1985–86 | 24 | 13 | 6 | 2 | 9 | 3 | 39 | 18 | ||||
1986–87 | 14 | 3 | 5 | 2 | 5 | 1 | 24 | 6 | ||||
通算 | 64 | 24 | 20 | 9 | 23 | 9 | — | 107 | 42 | |||
セルヴェット | 1987–88 | スーパーリーグ | 28 | 10 | — | — | 28 | 10 | ||||
1988–89 | 32 | 24 | 4 | 0 | 36 | 24 | ||||||
通算 | 60 | 34 | 4 | 0 | — | 64 | 34 | |||||
総通算 | 434 | 220 | 62 | 34 | 91 | 39 | 6 | 0 | 593 | 293 |
西ドイツ代表 | ||
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年 | 出場 | 得点 |
1976 | 2 | 0 |
1977 | 6 | 1 |
1978 | 12 | 4 |
1979 | 8 | 5 |
1980 | 10 | 4 |
1981 | 11 | 9 |
1982 | 13 | 9 |
1983 | 10 | 8 |
1984 | 8 | 1 |
1985 | 6 | 3 |
1986 | 9 | 1 |
Total | 95 | 45 |
国際サッカー歴史統計連盟
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