馳 浩(はせ ひろし、1961年〈昭和36年〉5月5日 - )は、日本の政治家、教育者(国語教師)、プロレスラー、アマチュアレスリング選手。石川県知事(1期)。日本維新の会顧問。旧姓は川辺。
馳 浩 はせ ひろし | |
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内閣広報室より公表された肖像 | |
生年月日 | 1961年5月5日(62歳) |
出生地 | 日本 富山県西礪波郡砺中町(現・小矢部市) |
出身校 | 専修大学文学部国文学科 |
前職 | 高等学校教員(国語) プロレスラー |
所属政党 | (無所属→) 自由民主党(安倍派) |
称号 | 文学士(専修大学) 教員免許(高等学校) |
配偶者 | 高見恭子 |
公式サイト | はせ浩(馳浩)石川県知事候補 公式サイト |
第20代 石川県知事(公選) | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 2022年3月27日 - 現職 |
第20代 文部科学大臣 | |
内閣 | 第3次安倍第1次改造内閣 |
在任期間 | 2015年10月7日 - 2016年8月3日 |
選挙区 | (石川1区→) (比例北陸信越ブロック→) (石川1区→) (比例北陸信越ブロック→) 石川1区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 2000年6月 - 2021年10月14日 |
選挙区 | 石川県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1995年7月23日 - 2000年5月12日 |
その他の職歴 | |
自由民主党広報本部長 (総裁: 安倍晋三) (2014年 - 2015年) |
獲得メダル | ||
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男子 レスリング | ||
全日本レスリング選手権大会 | ||
銀 | 1983 | グレコローマン90 kg級 |
金 | 1984 | グレコローマン90 kg級 |
全日本学生レスリング選手権大会 | ||
金 | 1983 | グレコローマン90 kg級 |
1984年のロサンゼルスオリンピックレスリング代表を経てプロレスラーとなり、新日本プロレス・全日本プロレスなどで活躍した。1995年に参議院議員に当選し政界入り。2006年にプロレスラーを引退。政治家としては衆議院議員(7期)、文部科学副大臣(第3次小泉改造内閣)、文部科学大臣(第20代)などを歴任。妻はタレントの高見恭子。血液型A型。
1961年5月5日、富山県西礪波郡砺中町(現・小矢部市)西野尻地区興法寺の農家の三男として生まれ、小学3年進級時に親族であるリンゴ農家の馳家(石川県金沢市)の養子に入り、金沢市立千坂小学校、金沢市立鳴和中学校を卒業。1980年3月、星稜高等学校卒業。1984年3月、専修大学文学部国文学科卒業。卒業後、母校の星稜高等学校で国語科教員として教鞭を執った。当時担当した授業では、生徒の中に元プロ野球選手の湯上谷竑志がいた。1984年7月、ロサンゼルスオリンピックのレスリング・グレコローマンスタイルのライトヘビー級で出場、予選敗退した。1985年、ジャパンプロレスに入門。1987年 - 新日本プロレスに移籍。
1995年7月、自由民主党幹事長の森喜朗にスカウトされ、第17回参議院議員通常選挙に石川県選挙区から自由民主党の推薦を受けて無所属で立候補し、民主改革連合現職の粟森喬を破り初当選する。当初は会派「自由民主党・自由国民会議」、2か月後に正式に自由民主党所属国会議員となった。1996年11月、全日本プロレスに移籍する。2000年5月12日、衆議院総選挙立候補準備の為、参議院議員を辞職する。
2000年6月25日投開票の第42回衆議院議員総選挙に石川1区から立候補、民主党現職の奥田建を破り当選(奥田は比例復活)。2003年9月25日、文部科学大臣政務官に就任(2004年9月27日まで)。
2003年11月9日投開票の第43回衆議院議員総選挙で奥田に敗れるも比例復活で再選。
2005年9月11日投開票の第44回衆議院議員総選挙に重複立候補を行わず小選挙区のみで立候補、奥田を破り3選。2005年11月2日、文部科学副大臣に就任。2006年8月27日、両国国技館で引退試合を行い、プロレスラーを引退。2006年9月、自由民主党国会対策副委員長に就任。2007年7月15日、スタン・ハンセンPWF会長の退任に伴い、第3代PWF会長に就任。2007年8月、自民党副幹事長に就任。翌月に総裁が安倍晋三から福田康夫に交代したが引き続き留任した。2008年8月、自民党文部科学部会長に就任。同年9月10日、2008年自由民主党総裁選挙で小池百合子の推薦人になったことを理由に清和研の退会届を提出。しかし、小池が退会せずに立候補したことを理由に受理されず幹部預かりにとなり、後に返却された。
2009年8月30日投開票の第45回衆議院議員総選挙で元職・奥田に敗れるも比例復活で4選。直後の2009年自由民主党総裁選挙で西村康稔の推薦人になった(首班指名で若林正俊支持)2012年9月、2012年自由民主党総裁選挙で町村信孝の推薦人になった(決選投票では安倍晋三を支持)。
2012年12月16日投開票の第46回衆議院議員総選挙で奥田を破り5選。2013年3月17日、PWF会長勇退を表明(後任はドリー・ファンク・ジュニア)。2014年9月、自由民主党広報本部長に就任。
2014年12月14日投開票の第47回衆議院議員総選挙で元職の田中美絵子を破り6選。2015年10月、第20代文部科学大臣就任( - 2016年8月2日)。文科相在任中には文化庁の京都への移転に携わった。2016年5月14、15日、G7倉敷教育大臣会合で議長を務める。2017年4月、自由民主党石川県連会長に就任。同年8月、自由民主党教育再生実行本部長に就任。
2017年10月22日投開票の第48回衆議院議員総選挙で田中を破り7選。
2021年7月、任期満了に伴い2022年3月までに行われる石川県知事選挙への出馬を表明し、衆議院選挙に立候補しないことを表明した。
2022年3月13日の投開票の結果、元金沢市長の山野之義、元参議院議員の山田修路ら4候補を破り初当選を果たした。投票率は前回選挙より22%増の61.81%だった。同月27日に就任し、舛添要一以来となる大臣経験者の知事就任となった。
2022年9月9日、日本維新の会の顧問に就任したことが発表された。一方で維新へは入党しておらず、自民党籍のままとしている。
2024年1月1日16時11分、令和6年能登半島地震発生。16時45分頃、馳は自衛隊に災害派遣を要請。当時、正月休みのため東京の自宅に帰省していた。災害派遣要請から15分後、自宅から直接首相官邸入りして情報収集にあたった。県庁での対応は副知事の徳田博が担当した。 1日夜、滞在していた首相官邸から内閣府調査チームのメンバーと共に自衛隊のヘリコプターで金沢駐屯地に向かった。
馳 浩 Hiroshi Hase | |
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プロフィール | |
リングネーム | 馳 浩 ヒロ・ハセ ベトコン・エクスプレス2号 |
本名 | 馳 浩 |
ニックネーム | 北斗の流星 戦う国会議員 戦う国語教師 戦う愛の伝道師 戦うベーヤン |
身長 | 183 cm |
体重 | 105 kg |
誕生日 | 1961年5月5日(62歳) |
出身地 | 富山県西礪波郡砺中町(現・小矢部市)生まれ 石川県金沢市育ち |
スポーツ歴 | レスリング サンボ |
トレーナー | 長州力 ミスター・ヒト |
デビュー | 1986年2月28日 |
1984年のロサンゼルスオリンピック代表という実績の下、鳴り物入りで1985年に大学の先輩でもある長州力のジャパンプロレスに入門。
1986年、新倉史祐とプエルトリコに遠征して2月28日プエルトリコ・カグアス・シティーアリーナにて対ミゲル・ペレス・ジュニア戦でデビュー。リングネームは「イロ・アセ」。スペイン語でHは発音しないため「hIRO hASE」となる。
若手時代、ミスター・ヒトのブッキングでカナダ・カルガリー地区(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)に武者修行のため遠征していたことがあり、新倉史祐と組み「ベトコン・エクスプレス」として活動していた(当時のリングネームは「ベトコン・エクスプレス2号」)。当時のライバルはオーエン・ハート。
1987年のジャパンプロレスの面々が新日本マットに登場した際に日本デビュー。日本デビュー戦は小林邦昭のIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦し、勝利する。
バラエティー色を強くした『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』にスタジオゲストで出演した際、司会の山田邦子が流血したレスラーの様子を見て「血なんかすぐ止まるもんなんですか?選手って言うのは?」と聞いたとき、馳が「おい、つまんない話聞くなよ。止まるわけないだろ」と反論した。この出来事は発言内容も含めて、「非礼な質問に対して馳がプロとして叱責した」もしくは「激怒するなど、大人げない対応をした」などと誤った解釈で広まったが、実際は一蹴したまでに過ぎず、直後の山田からの別の質問に対しては速やかに対応していた。しかしこのやり取りを見た番組サイドは、当時タレントとして圧倒的人気を博していた山田が「言葉の暴力」に遭うと言う場面として重く捉え、結果的に番組終了(『ワールドプロレスリング』としては継続)を決断する事に至ったと言う。山田は2020年に自身のYouTubeチャンネルでこの件を取り上げ、「新日本プロレスが嫌いになった」と噂されたり、今もなお詳細を尋ねられる事があるが、自身は全く気にしておらず、馳の妻である高見恭子や弟と交流を持ったり、馳を食事に誘った事もあったと述べ、むしろ前述の通り番組が終了した事によって多数のスタッフが仕事を失った事を指摘し、「馳先生も悪い事をしたと思っているなら謝ってくれればいいのに」、「(報道陣の前で)花束で一回殴らせてくださいよ!」と笑いを交えながら語っている。この動画をアップした1年後の2021年1月4日のプロレスリング・ノア後楽園ホール大会に馳が参戦。試合後、解説席にいた山田とグータッチを交わし、投げキスも見せているが、ここでもメディアは「34年ぶり歴史的和解」と報じている。
1990年6月、後藤達俊とのシングルマッチでバックドロップを受け、試合後に一時心肺停止状態となる。
国会議員兼全日本プロレス所属のプロレスラーであり、プロレス興行には主に国会のない期間に参加していたが、政治で大臣政務官や副大臣など、徐々に要職につき始めるとその機会が減っていき、2005年9月11日の衆議院選挙の当選(3選)と同時にプロレスラーとしての現役引退を表明(理由として靱帯断裂もある)した。
引退興行については武藤敬司が「全日で馳さんの引退興行を行いたい、新日では行わせたくない」と周辺に漏らしていた。また、2006年1月の武藤社長就任3周年記念パーティに馳が参加し、自ら「引退興行は本年中に全日本で行って欲しい」と嘆願、同年7月23日の地元金沢の興行を馳浩引退記念興行とし、8月27日の両国国技館大会で引退試合を行った。なお、7月23日の金沢大会はもともと挨拶だけの予定だったが、本来出場予定の佐々木健介が左眼窩底骨折で出場できなくなり、急遽代役として出場することとなった。
2006年8月27日、馳のプロレス引退試合を元首相の森喜朗が観戦したが、対戦相手のVOODOO-MURDERSの"brother"YASSHIが「おい、そこの森! お腹の中、何か詰まってるな? お金か? このカス野郎!」と森に罵声を浴びせた上、森の失政を批判し唾を掛けた。さらに、場外乱闘に乗じてTARUが森を挑発したため、森もパイプ椅子を持って身構えるという事態が発生した。このとき観客から森コールが起こったものの、森のSPがTARUに抗議しつつ森を止めたため、憲政史上初となる総理大臣経験者のプロレス参戦は実現しなかった。試合後、記者団に対して森は「椅子? パフォーマンスだよ」と苦笑いで語ったが、YASSHIに話が及ぶと「客に対して失礼だ」と激怒した。その後、馳は電話にもかかわらず森に土下座して謝罪したという。ただ、森は元々プロレス好きである。なお、この大会では初代文部科学大臣だった同じ派閥の町村信孝大臣も来場し、森の横で観戦していたが、この試合中の顛末をにこやかに見ていた。引退セレモニーの花束贈呈順が森元内閣総理大臣、町村文部科学大臣、オーラスがミスター・ヒトだった。馳は「元総理、文部科学大臣を前座にして何でミスターヒトが大トリなんだ!? 俺にも立場がある」と冗談めかして述べた。
2017年7月26日に後楽園ホールで行われたプロレスリング・マスターズのメインの6人タッグに出場し11年ぶりにリング復帰を果たす。藤波辰爾、長州力とタッグを組み、グレート・ムタ、ザ・グレート・カブキ、TNTと対戦し勝利を収めた。
プロレスからの引退発表こそしたが、総理大臣としてSPを連れてリングに上がるのが夢だと話している。
2021年1月4日に後楽園ホールで行われたプロレスリング・ノア「New Sunrise 2021」のメインの6人タッグに出場し1年4か月ぶりにリング復帰を果たす。潮崎豪、清宮海斗とタッグを組み、武藤敬司、丸藤正道、田中将斗と対戦し勝利を収めた。
2023年1月1日に日本武道館で行われたプロレスリング・ノアの試合に当日発表のXとしてサプライズ参戦。石川県知事就任後、そして自身の還暦初となる。藤田和之、ケンドーカシン、NOSAWA論外とタッグを組み、最後はノーザンライトスープレックスで勝利を挙げた。現職知事がレスラーとしてリングに上がったのは初めて。年末年始の知事職務休暇中の石川を離れての東京でリングに上がったが、現職知事が怪我をする懸念や雪などの災害対応における危機管理として知事としての公務に心配する声が出た。馳は「石川を離れる際は両副知事に対応をお願いし、危機管理監からも定期的に報告を受けていた」と危機管理上の問題はなかったとの認識を示し、「今は健康と日時の許す範囲でリングに上がっている」とし、また「私は死ぬまでプロレスラーだ」と発言した。
レスリング出身であるにもかかわらず、裏投げやジャイアントスイング、ノーザンライトスープレックスなど様々な技を見せるのも馳のプロレスである。
(政治団体関係の役職を除く)
当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 | 政党内比例順位 /政党当選者数 |
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当 | 第17回参議院議員通常選挙 | 1995年7月23日 | 34 | 石川県選挙区 | 無所属 | 23万4283票 | 49.35% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第42回衆議院議員総選挙 | 2000年6月25日 | 39 | 石川1区 | 自由民主党 | 10万7179票 | 48.82% | 1 | 1/3 | / |
比当 | 第43回衆議院議員総選挙 | 2003年11月9日 | 42 | 比例北陸信越(石川1区) | 自由民主党 | 9万7075票 | 46.78% | 1 | 2/3 | 4/5 |
当 | 第44回衆議院議員総選挙 | 2005年9月11日 | 44 | 石川1区 | 自由民主党 | 12万9142票 | 53.73% | 1 | 1/3 | / |
比当 | 第45回衆議院議員総選挙 | 2009年8月30日 | 48 | 比例北陸信越(石川1区) | 自由民主党 | 11万7168票 | 45.85% | 1 | 2/4 | 3/4 |
当 | 第46回衆議院議員総選挙 | 2012年12月16日 | 51 | 石川1区 | 自由民主党 | 9万9544票 | 47.87% | 1 | 1/5 | / |
当 | 第47回衆議院議員総選挙 | 2014年12月14日 | 53 | 石川1区 | 自由民主党 | 7万6422票 | 50.70% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第48回衆議院議員総選挙 | 2017年10月22日 | 56 | 石川1区 | 自由民主党 | 11万2168票 | 59.08% | 1 | 1/3 | / |
当 | 石川県知事選挙 | 2022年3月13日 | 60 | ー | 無所属 | 19万6432票 | 34.13% | 1 | 1/5 | / |
最初の妻であるサンボの格闘家、ビクトル古賀の娘とは離婚している。のちに、作家高見順の娘である女優の高見恭子と1994年に結婚している。妻恭子の家系の親族には永井荷風、小鳩くるみ、野村萬斎などがいる。子女には娘がいる。
公職 | ||
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先代 谷本正憲 | 石川県知事 公選第20代:2022年 - | 次代 現職 |
先代 下村博文 | 文部科学大臣 第20代:2015年 - 2016年 | 次代 松野博一 |
先代 小島敏男 塩谷立 | 文部科学副大臣 河本三郎と共同 2005年 - 2006年 | 次代 池坊保子 遠藤利明 |
先代 池坊保子 大野松茂 | 文部科学大臣政務官 田村憲久と共同 2003年 - 2004年 | 次代 下村博文 小泉顕雄 |
党職 | ||
先代 小池百合子 | 自由民主党広報本部長 2014年 - 2015年 | 次代 木村太郎 |
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