松代藩(まつしろはん)は、江戸時代、信濃国埴科郡松代町(現在の長野県長野市松代町松代)の松代城を居城とした藩。信濃国北部の川中島4郡と呼ばれる地域を領した。
川中島4郡を治めた藩については、川中島藩(かわなかじまはん)と呼称されることもある。江戸時代初期には酒井家(左衛門尉)や福井松平家などが入った。1622年、松代を城地として真田家が就封し、10代約250年にわたって存続して廃藩置県を迎えた。このため一般に「松代藩」は真田氏の藩(真田松代藩)を指すことが多い。真田家時代の石高はおおむね10万石で、信濃国内の藩では最高の石高を有した。
「川中島」はもともと、善光寺平のうち千曲川と犀川とに挟まれた扇状地一帯を指す呼称であったが、のちにこの地域を含む信濃国北部(奥信濃)一帯を指す広義でも使われるようになった。
川中島四郡とは高井郡、水内郡、更級郡、埴科郡の四郡を指す。現在の行政区画では
にあたり、おおむね現代の北信地方に相当する。
書籍によって、「川中島藩」と「松代藩」は別の藩と扱われたり、同一の藩の別名として扱われたりする。『藩と城下町の事典』によれば、松平忠昌の頃までは「川中島領」と「松代領」に明確な区別はなかったという。本項では「川中島藩」と「松代藩」を一体のものとして扱う。
『角川新版日本史辞典』巻末の「近世大名配置表」では藩名「松代」として森・松平忠輝・松平忠昌・酒井・真田の各氏を記している。同様に、『日本史広辞典』巻末の表「大名配置」では「松代藩」として田丸・森・松平忠輝・松平忠昌・酒井・真田の各氏の変遷を記す。
『角川日本地名大辞典』は「松代藩」の項目において豊臣政権期からの領主を記しているが、松平忠昌までは「海津藩」または「川中島藩」、酒井忠勝以後を「松代藩」と呼ぶのがふさわしいとしている。『藩と城下町の事典』は、「川中島藩」(田丸・森・松平忠輝・松平忠昌・岩城)と「松代藩」を分けて掲載しており、「便宜的に忠昌までを川中島藩とし、酒井忠勝以後を松代藩とする」としている。
上記のように、江戸時代初期までに川中島領に入封した大名のいずれを「川中島藩主」と扱うかについても、書籍によって差異がある。関ケ原の合戦によって改易された豊臣大名である田丸直昌は「藩」の定義によっては除外され、岩城貞隆は「信濃中村藩」として、福島正則は「高井野藩」として扱われることがある。
『藩と城下町の事典』は、「一般に松代藩というときは酒井氏転出後の真田松代藩を指すことが多い」とも述べている。
松代城は、戦国期の海津城を原型とする城で、古くは「待城」や「松城」と呼ばれた。正徳3年(1713年)、真田家3代藩主・真田幸道のときに幕命によって「松代城」と改められた。このため、城名・藩名・地名として「海津(藩)」「待城(藩)」や「松城(藩)」が用いられることもあるが、本項では便宜上「松代」に統一する。
川中島四郡は信濃国北部の高井郡(現上高井郡、下高井郡及び中野市、須坂市)、水内郡(現上水内郡、下水内郡及び飯山市、長野市)、更級郡・埴科郡(千曲市を含む)の四郡を指す。戦国時代の川中島の戦いで武田氏と上杉氏の係争地となったところであり、現在の北信地方に該当する。しかし北信地域支配の中心は、武田信玄が上杉謙信との戦に備え、山本勘助に命じて築城させた海津城(松代城)に置かれた。
近世大名領の成立は関ヶ原の戦い後の森忠政が13万7千石で川中島に入封したことに始まる。忠政は川中島領の領国化に勤め、「右近検地」と呼ばれる徹底的な検地により全領一揆が発生したがこれを徹底的に殲滅した。1603年(慶長8年)美作国一国(津山藩)に加増転封となった。海津城は忠政の統治時に「待城」と改名されたとされる。
その後徳川家康の六男松平忠輝が越後国高田藩へ移る1610年(慶長15年)までの7年間、14万石を領有し、高田へ加増転封となった後も新領土に旧領が含まれており、1616年(元和2年)改易されるまでの間領知した。この2家の領有期間は、一般に川中島藩と呼ばれる。忠輝領有期間には家老花井吉成が城代として統治して領内の整備に尽力し、そのため花井神社が建立され業績を称えられている。
その他、幕府によって広島藩を改易された福島正則の新領地となった高山村(高井野藩)や大坂の陣で加増を得た岩城氏の飛地領となった木島平村(信濃中村藩)も川中島藩と呼ばれる場合がある。
1616年(元和2年)に結城秀康の子松平忠昌が12万石にて松代城に入封して以降この地は松代(松城)藩領と呼ばれる。忠昌は1619年(元和5年)に越後国高田藩へ転封。
代わって酒井忠勝が10万石で入封するが、1622年(元和8年)には出羽国庄内藩に移る。この間、同地には岩城家(1616年-1623年信濃中村藩:後出羽国亀田藩に転封)と福島正則(1619年-1624年:安芸国広島藩改易後の堪忍領。後に改易)の領地(高井野藩)も存在し、これらも川中島藩と称されることがある。
1622年(元和8年)に信濃国上田藩より真田信之が13万石で入封した後、明暦4年(1658年)に3代幸道の相続時に分地の沼田領3万石が独立( - 1680年改易)し、以後10万石として幕末までこの地は真田家の所領として続く。
真田家はその出自から外様大名とされることが多いが、幕府における席次は帝鑑間詰(譜代大名待遇)であった。理由として、8代藩主真田幸貫が8代将軍徳川吉宗の孫である松平定信の実子であること、信之の妻小松姫が徳川家康の養女(本多忠勝の実娘、一説によると徳川秀忠の養女)であること等の理由による。なお、支藩(分地)としては沼田藩以外に埴科藩もあったが、後年断絶している。
信之は上田藩時代より蓄財した20万両という大金をもって入封した。このため当初は裕福であったが、3代幸道の時代、幕府による度重なる手伝普請などの賦役により信之の遺産を使い果たした。また、1717年(享保2年)松代城下は大火に見舞われ復興に幕府より1万両を借り受け、逆に借財を抱えるようになった。
4代信弘は質素倹約を旨とし財政は持ち直した。また領内支配を従前の山中郷、上郷、下郷から山中、里方の2つに再編し、さらに山中の5通(田野口通、新町通、有旅通、茂菅通、吉窪通)と里方の4通(川南通、川東通、川北通、川中島通)に細分化した。5代信安の時代の1742年(寛保2年)松代城下を襲う水害に見舞われた(戌の満水)。この際、再び幕府より1万両を借財し千曲川の河川改修が行われた。これにより松代城下は水害に見舞われなくなった。しかし、再び財政は悪化した。信安は河川改修の中心となった原八郎五郎を家老に抜擢し、家臣給与の半知借上、年貢の前倒し徴収を行うなどの財政再建に努めた。しかしこれが家臣の反発を招き、1744年(延享元年)足軽によるストライキという全国的にも極めて稀な事態となった。1751年(宝暦元年)には不正を行った原八郎五郎を罷免し、代わって赤穂藩浪人と称する田村半右衛門(浅野家の家老であった大野知房の子・大野群右衛門と同一人物ともいわれる)を勝手方として召し抱え財政再建に当たらせた。しかし、性急な改革は農民の反発を招き、同年には「田村騒動」と呼ばれる藩内初の一揆が起こった。田村もまた汚職を行ったとして、同年に江戸に逃亡したところを捕らえられた。
信安の後、藩主となった幸弘は、1757年(宝暦7年)家老の恩田木工を勝手方に据え財政再建に当たらせた。木工の5年間の在任中、めざましい成果は得られなかった。しかし、藩士・領民の財政再建に対する意識を改革したということでは、ある程度の功績を得られたといえる。幸弘は1758年(宝暦8年)藩校「文学館」を開いている。
幕末期には8代幸貫が老中として幕政に関与している。幸貫は寛政の改革を主導した松平定信の子(第8代将軍徳川吉宗の曾孫に当たる)であり、幸貫以降真田家は国主以外で自分の領地の国主名を名乗れるという特権を得ている。また、幕末の奇才佐久間象山を登用した。1847年(弘化4年)善光寺地震が起こり復旧資金の借り入れにより、藩債は10万両に達した。
9代幸教は、ペリーの浦賀来航時に横浜の応接場の警備を命じられ、その後も江戸湾の第六台場等の警備などを務めたことで、藩財政は破綻寸前となった。先代幸貫が計画した新たな藩校「文武学校」を1855年(安政2年)に開校した。1864年(元治元年)、朝廷から京都南門の警衛を命じられ藩兵を率いて上洛し、禁門の変が起こると参内して朝廷の守りについた。
明治維新の際、松代藩は比較的早くから倒幕で藩論が一致し、朝廷から信濃全藩の触れ頭役を命じられた。戊辰戦争には新政府軍に参加して多大な軍功を挙げたが、膨大な戦費により財政が悪化し、1870年(明治3年)には松代騒動が勃発した。1871年(明治4年)廃藩置県により松代県となり、その後、長野県に編入された。
外様 13万7500石
親藩 14万石
親藩 12万石
譜代 10万石
外様(譜代格) 10万石
上記のほか、水内郡42村、高井郡12村の幕府領を預かったが、水内郡2村は本藩に、残部は長野県に編入された。
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