関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は、昭和期のソプラノ歌手。本名は秋山種子。
関種子 | |
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1954年頃 | |
基本情報 | |
生誕 | 1907年9月18日 |
出身地 | 岡山県 |
死没 | 1990年6月6日(82歳没) |
学歴 | 東京音楽学校 |
ジャンル | クラシック、オペラ、歌謡曲 |
職業 | 歌手 |
レーベル | コロムビア→ポリドール |
岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、東京府立第二高等女学校から東京音楽学校に進学。ドイツリートをマルゲレーテ・ネトケ=レーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹き込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭(もた)れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。また、1935年(昭和10年)には新興映画「突破無電」の主題歌「雨に咲く花」が約50万枚を売り上げるヒット。この曲は日中戦争開戦後、歌詞が女々しいという理由で発禁処分となった。1936年(昭和11年)、国民歌謡が始まると奥田良三らと共に、しばしば歌唱指導に起用された。1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍し、「じゃがたら文」「初恋の丘」「明日なき恋」「千人針」「戦陣訓の歌」などをレコーディングしている。一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋芸術大学の教授、東京藝術大学の講師なども務め、門下生も多数輩出している。
1974年(昭和49年)紫綬褒章を受章。1981年(昭和56年)には勲四等宝冠章を受章した。
1990年(平成2年)6月6日に腎不全で死去。満82歳没。娘は女優の関弘子である。
結婚前の旧姓が秋山であり、うたごえ運動で知られる関鑑子は義姉であった。
代表曲の一つ「雨に咲く花」は1938年(昭和13年)、淡谷のり子が歌詞を変更して「日暮の窓で」の曲名でカバーしたがヒットせず。戦後、1954年(昭和29年)に山路えり子が原曲の歌詞でカバーするがヒットせず。しかし、1960年(昭和35年)にロカビリー歌手の井上ひろしがカバーすると関のオリジナルを凌ぐ約100万枚の大ヒットとなる。このとき2番と3番の歌詞を誤って歌ったことも話題になった。オリジナルの関、リバイバルヒットとなった井上共にB面吹き込みである。その後、1967年(昭和42年)に三島敏夫がカバーし、1969年(昭和44年)に淡谷が原曲の歌詞で再吹き込みし、1972年(昭和47年)にぴんからトリオが、1975年(昭和50年)に美空ひばりがカバーし、さらに石原裕次郎と大月みやこが自身のアルバムに収録した。1991年(平成3年)に青江三奈と山口蘭子(山口盤は関の原曲をカップリングに収録)の競作でCDシングルとして発売し、1991年11月時点で2種合計で7万枚近くを売り上げている。1990年製作(日本公開は1991年)のアメリカ映画『愛と哀しみの旅路』では、関の歌う原曲が挿入歌として使用された。
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