藤村 忠寿(ふじむら ただひさ、1965年5月29日 - )は、日本のテレビディレクター、舞台俳優。北海道テレビ放送(HTB) コンテンツ事業室兼編成局クリエイティブフェロー。
ふじむら ただひさ 藤村 忠寿 | |
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生誕 | 1965年5月29日(58歳) 日本 愛知県名古屋市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 北海道大学法学部 |
職業 | テレビディレクター 舞台俳優 |
活動期間 | 1995年 - 現在 |
雇用者 | 北海道テレビ放送 |
活動拠点 | 北海道札幌市 |
テレビ番組 | 水曜どうでしょう モザイクな夜V3 |
肩書き | HTBコンテンツ事業室兼編成局クリエイティブフェロー |
愛知県出身。出生時は父の実家のある新城市に居住していた(産まれたのは名古屋市の病院)が、小学校途中から名古屋市中区千代田に転居し、母が喫茶店を営んでいた。名古屋市立表山小学校、名古屋市立御幸山中学校、名古屋市立向陽高等学校を卒業後、「(地元で進学・就職すると)自分の人生の先が全部見えちゃう感じが嫌」「地方でのんびり暮らせたらいい」という理由で地元を離れることを決め、北海道大学法学部に進学。中学から大学までラグビー部に所属しており(ポジションはフッカー)、ドラマ『相棒』などを手掛けるテレビ朝日プロデューサーの松本基弘は向陽高校ラグビー部の先輩に当たる。北大の4年生時代は主将を務めた。
4年次に卒業単位にわずかに足りずに1年留年することになるが、この時に北海道テレビ(HTB)に就職していたラグビー部の先輩の誘いを受け、報道部のカメラマン助手のアルバイトを1年半ほど務める。この時の経験から、「(仕事が)楽そうだな」と思ったのと元々テレビ好きだったのを機に、アルバイトの延長的にHTBの入社試験を受け、1990年4月にHTBに正社員として入社。元HTBアナウンサーの森田政仁、『ドラバラ鈴井の巣』元チーフディレクターの杉山順一は同期。入社後は報道部を希望していたが、東京支社編成業務部に配属され5年間勤務。東京時代の上司に、後に社長となる樋泉実がいた。
1995年、30歳の時に本社制作部に異動となり、『モザイクな夜』の制作チームに配属。何も知らない状態からテレビ番組の制作を担当していく(詳細後述)。翌1996年10月、『モザイクな夜V3』の後継番組として『水曜どうでしょう』を立ち上げ、チーフディレクターに就任。鈴井貴之・大泉洋及びカメラ担当ディレクターの嬉野雅道と共に過酷な旅を行い、地方ローカル番組としては異例の全国放送・DVD全国発売・インターネット放送・番組本、写真集発売等、様々な事業を展開するなど、同番組は大ヒットとなる。放送開始以降、レギュラー放送終了後も再放送(『どうでしょうリターンズ』『水曜どうでしょうClassic』 『水曜どうでしょうプレミア』)及びDVD販売に向けた再編集業務を手がけるとの理由から、基本的に同番組関連業務を専従で務めている。
2010年4月の人事で組織変更に伴い、HTBの製作部からコンテンツ事業室へ異動。事業室では番組制作に直接関わる部署では無いが、その後も嬉野と同様に『水曜どうでしょう』の番組制作に専従。また、自身が民放労連北海道テレビ労組のリーダーを務めていた関係で「基本的に会社に対して反抗的であったので役職付けとして昇進出来ない」と共演者である大泉に揶揄されている。
2014年から、劇団イナダ組と関わって以降、役者として舞台出演する機会が増えて行き、2015年6月に藤村源五郎一座を旗揚げし、読売テレビの西田二郎も参加している。
2016年4月1日付の人事で、HTBのコンテンツ事業室兼編成局クリエイティブフェローに就任。
2019年2月18日に嬉野と共にYouTube「藤やんうれしーの水曜どうでそうTV」を始める。
2019年10月1日付けで、母校・北海道大学の公共政策学連携研究部・教育部フェローに就任した(HTBのフェローと異なり、給料はない)。
2021年8月2日、WOWOW「電波少年W 〜あなたのテレビの記憶を集めた〜い!〜」に出演予定だったが新型コロナウイルスの陽性反応が判明し出演を見合わせ、翌日自身の公式サイトで公表した。その後、9月13日および9月20日放送の同番組で出演を果たしている。
元々報道志望だったのは、本来バラエティ番組が好きだったものの、大きな予算を使って大掛かりな番組作りが出来ないローカル局で、「現場」として出来る最もリアルな仕事が報道だったからだとのこと。
東京支社では主にCMの価格を決める営業活動等のスポットデスク業務に携わり、仕事はデスクワークばかりで嫌だったが、この5年のおかげで視聴率を重視するテレビの仕組みを学んだ。
本社制作部では『モザイクな夜』の制作担当スタッフとなるが、構成作家・タレントのコネがなかったためVTRが制作できず、初めて制作したVTRは「藤村自身が股間にゾウのぬいぐるみをつけて出演して裸で踊る」というものであった。またテレビ番組制作に関する知識も皆無だったため、同番組では「2秒の音源を1秒にしろ」と音声担当に要求して「できるわけがない」と怒鳴られるなどの失敗を重ねながらも番組制作の経験を積んでいった。
HTBスペシャルドラマ『歓喜の歌』『ミエルヒ』『チャンネルはそのまま!』の監督などHTB全社を挙げて取り組むドラマの制作にも携わっている。『ミエルヒ』は、HTBの制作番組としては初めてギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、放送文化基金賞(番組部門テレビドラマ番組賞)等その年のドラマ賞を総なめにし、『チャンネルはそのまま!』は日本民間放送連盟賞テレビ部門グランプリ(ドラマとして史上初)を受賞するなどの業績を上げている。
前述の役者としての芝居活動やYouTube制作活動を会社から「出勤扱い」にされており、北海道には月に1週間しか滞在していないという。その一方で、番組制作に携わった当初から「ローカル局としての番組作り」を意識しており、故に東京進出(独立やキー局等への転籍)は考えておらず、「(東京のキー局と)真ん中で正々堂々と殴り合うよりも、後ろからコソッと近づいて、横から殴るほうが性に合っている」と述べている。特に、ネット配信が普及した昨今ではローカル局製作番組が全国で視聴可能になる仕組みが出来つつあることを念頭に「地方の番組だから、こうあるべき」みたいな意識を持たなくていいと思っているという。
『水曜どうでしょう』を立ち上げるにあたり「視聴率が取れる番組でないと意味がない」と考え、大物タレントを呼べるような予算もない中で「ローカル局が製作した番組と思われないこと」を意識するために、『進ぬ!電波少年』の手法を参考にして、無名のタレントを起用してハプニングを期待する旅企画などを思いついた。このとき、『モザイクな夜V3』に出演していた、当時北海学園大学の一学生であった大泉洋を抜擢したが、当初は「はっきり言って出演者は誰でもよかった」としつつ、大泉独特の喋りが編集のリズムを生み出し、「どうでしょう」のスタイルができあがっていったという。
『水曜どうでしょう』ではチーフディレクターとしての仕事の他、ナレーター(後述)や、あくまでロケに同行する「しょっちゅう見切れるディレクター」として半ば出演者同様に登場する。番組内で時折顔や全身が映ることがあるが、カメラ担当ディレクターの嬉野雅道が、彼を被写体として意識的に撮っている部分はほぼない模様。しかし、大泉始め他の出演者とのやりとりや特徴的な笑い声がファンのあいだで「ヒゲの笑い袋」として番組名物として語られるようになるなど、彼の声による「出演」はもはや同行スタッフの枠を超え、番組の出演者の一人として無くてはならない存在になっている。中でも「対決列島」では「チームびっくり人間」の大将として登場(ただし前述のとおり、基本的に顔は映らない)。「甘いものに目がない」「(食物を)噛まずに飲む」という自らの特質を活かし、大食い対決では甘い菓子類が苦手な鈴井を圧倒した。その一方、梅干し等の酸味の強い食材が苦手で、梅干しや柑橘類が大好物である鈴井に逆襲を食らったりもしている。
上記の「甘いものに目がない」という特質は「対決列島」が終了して以降もファンたちの間では長きに渡って強烈なインパクトを残し続けており、「どうでそうTV」内においても視聴者から「藤やんはあんな食生活で体悪くしてないの?」という質問が届いた事がある。これに対し藤村は同じく動画内で「俺は毎日対決列島してる訳じゃねぇ」「お酒が好きになったので今は甘いものは殆ど食べない」などと回答している。
番組のアラスカロケで大泉が描いた藤村・嬉野の似顔絵が現在も番組本編やグッズで登場、「藤やん犬」なる彼の似顔絵をした犬が公式サイトの竜宮城に居ついている。「水曜どうでしょう official website」では掲示板の運営管理者でもある。日記を記すときは宣伝を怠らない。どうでしょうグッズの考案にも熱心である。
テレビ番組制作に愛を持ち、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』、『電波少年シリーズ』などをヒットさせた日本テレビの土屋敏男からも「(『水曜どうでしょう』のDVDに関する話題があがり、反響が多かったことから)この番組を作った人は、本当に愛されている」と称された。
一方、『saku saku』(テレビ神奈川)とは、ローカル局制作の人気番組同士(しかも『saku saku』は一時HTBで番組販売されていた)ということもあって何かと交流があり、何度か同番組に出演している。なお、同番組では諸事情により「じむ」の名で呼ばれることが多い(詳しくはsaku sakuの出演者、登場キャラクター#会話の話題に上がった人物を参照)。
藤村は、『水曜どうでしょう』で関わり続けている鈴井・大泉・嬉野との関係について、「たまたま同じ(ローカル番組という“小さな”)船に乗って、(全国区という)大海に漕ぎ出してしまった乗組員」と話している。数々の過酷なロケを共にし、濃密な人間関係を築いてはいるが、一方で互いは「親友」ではなく、「番組という『利害関係』で結ばれた4人」「もう抜け出すことはできないという、十字架を背負った関係であると思うのです。でもその十字架を、もう重いとは思っていません。むしろ『自分は、これさえ背負っていけばいいのだ』と清々しい気持ちでさえあります」と話している。また、視聴率を強く意識していた『水曜どうでしょう』についても、2019年には「新規(の視聴者)を増やそうと思ってないし、無理やり面白くしようとも思ってない。『どうでしょうをこれからも見たい』というお客さんの思いに応えることが一番」「(コンテンツとして大きくなりすぎて)もはや誰が何を言おうと、たとえ視聴率がどんなに悪かろうと、番組が終わることはもはやありえない」と視聴率を気にしない姿勢を述べている。
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