耽羅(たんら、ちんら、とむら、朝鮮語: 탐라)は、朝鮮半島沖の済州島に古代から中世にかけて存在した王国である。百済、統一新羅、高麗に内属し、15世紀初め李氏朝鮮に完全併合された。耽牟羅(たむら)、屯羅(とんら)とも表記される。
? - 1402年 | → |
言語 | 耽羅語 | ||||
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首都 | 星主庁→済州牧満衙 | ||||
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耽羅 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 탐라、탐모라、둔라 |
漢字: | 耽羅、耽牟羅、屯羅 |
発音: | タムナ、タンモラ、トゥルラ |
日本語読み: | たんら、ちんら、たむら・たんもら、とんら |
ローマ字: | Tamna,Tammora,Dulla |
朝鮮の歴史 | ||||||||||
考古学 | 朝鮮の旧石器時代 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC 無文土器時代 1500 BC-300 BC | |||||||||
伝説 | 檀君朝鮮 | |||||||||
古朝鮮 | 箕子朝鮮 | |||||||||
燕 | ||||||||||
辰国 | 衛氏朝鮮 | |||||||||
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡 | |||||||
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 濊 貊 | 沃 沮 | ||||||
三国 | 伽耶 42- 562 | 百済 | 高句麗 | |||||||
新羅 | ||||||||||
南北国 | 唐熊津都督府・安東都護府 | |||||||||
統一新羅 鶏林州都督府 676-892 | 安東都護府 668-756 | 渤海 698 -926 | ||||||||
後三国 | 新羅 -935 | 後 百済 892 -936 | 後高句麗 901 -918 | 遼 | 女真 | |||||
統一 王朝 | 高麗 918- | 金 | ||||||||
元遼陽行省 (東寧・双城・耽羅) | ||||||||||
元朝 | ||||||||||
高麗 1356-1392 | ||||||||||
李氏朝鮮 1392-1897 | ||||||||||
大韓帝国 1897-1910 | ||||||||||
近代 | 日本統治時代の朝鮮 1910-1945 | |||||||||
現代 | 朝鮮人民共和国 1945 連合軍軍政期 1945-1948 | |||||||||
アメリカ占領区 | ソビエト占領区 | |||||||||
北朝鮮人民委員会 | ||||||||||
大韓民国 1948- | 朝鮮民主主義 人民共和国 1948- | |||||||||
Portal 朝鮮 |
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耽羅の起源については太古の昔、高・梁・夫の三兄弟が穴から吹き出してきたとする三姓神話がある。それによると、高・梁・夫の三兄弟が、東国の碧浪国(へきろうこく)から来た美しい3人の女を娶り、王国を建国したことが伝えられており、東国の碧浪国について、『高麗史』『南槎録』『耽羅志』は日本国として、日本から来た娘としている。歴史的な記録としては3世紀の中国の史書『三国志』魏志東夷伝に見える州胡が初見であり、言語は韓と同じではないと述べている。
『三国史記』では耽羅が476年に百済の文周王に朝貢し、498年に百済の東城王に服属したとあるように、498年以後は百済に朝貢していた。しかし660年百済が唐・新羅連合軍の侵攻によって突如滅亡すると、耽羅は大混乱に陥った。662年には新羅に服属したとみられるが、このとき唐から帰国する日本の遣唐使船がたまたま耽羅に寄港し、唐軍の侵攻を恐れる耽羅はしばらく日本に朝貢を送り続けたという記録が『日本書紀』にある。また、継体天皇二年(五〇八)『南海中耽羅人初通百済国』とあり、日本書紀では、百済と初めて通じたのが508年と記録されている。
当時の記録によれば、耽羅には既にピョル主または星主、王子または星子、徒内と呼ばれる支配者が存在していた。これらの称号は新羅文武王が与えたとする文献もある。いずれにせよ、耽羅支配者のこのような称号は後世まで続いた。耽羅星主が筆頭格で、これを王とする。
東シナ海の海上交通の要衝であった耽羅国は海上貿易の拠点となり、9世紀の商人張保皐(生年不明 - 846年)は新羅王の認可の下、耽羅と莞島を拠点に新羅、唐、日本の三国との貿易を盛んにし、北は日本の能登半島(石川県)や十三湊(青森県五所川原市)から南は広州、西は山東半島に及ぶ海上貿易を行い、航海安寧のために観世音菩薩を祀るための法華寺を耽羅と莞島に、赤山法華院を山東半島に建立し、この三寺院の建立によって耽羅は大乗仏教による共通の信仰と共に東亜世界と結ばれた。
935年に新羅が滅亡すると、耽羅はしばらく独立したが、938年に耽羅国の星主の高自堅は高麗に服属した。高麗は1105年に「耽羅郡」を設置し、1108年に「済州郡」に改称、ここで「耽羅国」としての歴史は途切れた。
1121年には済州と改称したが、星主、王子など旧来の支配者の称号は認めていた。高麗支配下での済州島では1168年の良守の乱など、高麗の京来官への済州島民の反乱が度々発生している。
大元ウルス(モンゴル帝国)は服属させた高麗軍と共に、1270年に済州島に逃れてきた三別抄を1273年に制圧した後(三別抄の乱)、1275年に済州島を高麗から分離させて名を耽羅に戻した上でモンゴル帝国の直轄地にし、モンゴル馬を放牧するための牧場を置いた。この大元ウルスの時代には代官ダルガチが置かれ、また、この頃から済州島は流刑地となった。元は1294年に耽羅を高麗に下賜した。
1368年に中国に明朝が成立すると、高麗は1374年に25,000人の軍隊を送って牧胡(耽羅に土着化したモンゴル人)を虐殺し直轄地にした(牧胡の乱)。
高麗に代わった李氏朝鮮は、地方制度を改革して国家の基盤を確立したが、耽羅もこのような施策に順応し、1402年に星主の高峰礼と王子の文忠世が入朝し、星主·王子の称号が分数にあふれるので改称してくれることを要請した。これに対し朝廷では星主を左都之官、王子を牛都之官に変えた。 これで耽羅王の別名だった星主が耽羅を管掌した16代464年間にわたる耽羅国の星主時代が終わった。
『三国志』『後漢書』によれば、耽羅の前身である州胡の人は言語が韓と異なり、背が低く、鮮卑(匈奴あるいは烏桓も含む)のように髪を剃った弁髪の風習を持ち、上半身に革の衣を着たが下が覆われず裸に近い。牛と猪を飼い、船で往来して韓と交易した。これは当時の韓の風俗として記されるものと大きく異なっている。
言語は耽羅語という古代朝鮮語とは異なる言葉が話されていたとされるが、詳しくはわかっていない。近世以降の済州島で話される済州方言と耽羅語の関連性もはっきりしない。
日本に来た耽羅国の使者としては、「阿波伎」、「姑如」、「椽磨」、「久麻伎」、「都羅」、「宇麻」等の名が知られている。いずれも耽羅の固有語を万葉仮名のように表したものだと思われるが、やはり意味などは分かっていない。
アレキサンダー・ボビンは済州島の古名は「tammura」であり、日本語では「谷村」「民村」と分析できると指摘している。したがって15世紀以前のある時期に朝鮮語話者に取って代わられるまでは、済州島には日本語話者が存在していたと結論づけた。
ハングル | 漢字 |
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고을라왕 | 高乙那王 |
건왕 | 建王 |
삼계왕 | 三継王 |
일망왕 | 日望王 |
도제왕 | 島済王 |
언경왕 | 彦卿王 |
보명왕 | 宝明王 |
행천왕 | 幸天王 |
환왕 | 歓王 |
식왕 | 湜王 |
욱왕 | 煜王 |
황왕 | 煌王 |
위왕 | 偉王 |
영왕 | 栄王 |
후왕 | 厚王 |
두명왕 | 斗明王 |
선주왕 | 善主王 |
지남왕 | 知南王 |
성방왕 | 聖邦王 |
문성왕 | 文星王 |
익왕 | 翼王 |
지효왕 | 之孝王 |
숙왕 | 淑王 |
현방왕 | 賢方王 |
기왕 | 璣王 |
담왕 | 聃王 |
지운왕 | 指雲王 |
서왕 | 瑞王 |
다명왕 | 多鳴王 |
담왕 | 談王 |
체삼왕 | 体参王 |
성진왕 | 声振王 |
홍왕 | 鴻王 |
처량왕 | 処良王 |
원왕 | 遠王 |
표륜왕 | 表倫王 |
형왕 | 迥王 |
치도왕 | 致道王 |
욱왕 | 勗王 |
천원왕 | 天元王 |
호공왕 | 好恭王 |
소왕 | 昭王 |
경직왕 | 敬直王 |
민왕 | 岷王 |
자견왕 | 自堅王 |
ハングル | 漢字 |
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고자견 | 高自堅 |
말로왕 | 高末老 |
고유 | 高維 |
고조기 | 高兆基 |
고정익 | 高挺益 |
고적 | 高適 |
고여림 | 高汝霖 |
고정간 | 高貞幹 |
고순 | 高巡 |
고복수 | 高福寿 |
고인단 | 高仁旦 |
고수좌 | 高秀佐 |
고석 | 高碩 |
고순량 | 高順良 |
고순원 | 高順元 |
고명걸 | 高明傑 |
고신걸 | 高臣傑 |
고봉예 | 高鳳礼 |
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