武家官位(ぶけかんい)とは、主として戦国期から江戸期にかけて、武士が任官または自称した官位(官職と位階)をいう。武家官途ともいわれる。
武士団の成立には、国司や目代として下向した後土着した、旧受領層が大きく関わっている。彼らはその官位を支配のよりどころとして、自らの勢力を拡大した。武士勢力が成長すると、権力者はこれに官位を授け自らの支配下に組み込もうとした。官位は、律令制が崩壊し、実質的な意味が無くなっても権威としての威力を持っていたために、武士の序列を明確化する目的でも使用された。しかし同時に、武士に対する朝廷の支配を表すものであった。
武家政権が成立すると、源頼朝は御家人の統制のため、御家人が頼朝の許可無く任官することを禁じた。源義経が追放されたのもこの禁を破ったからである。後に武家の叙位任官は官途奉行の取り扱いのもと、幕府から朝廷へ申請する武家執奏の形式を取ることが制度化された。
南北朝時代、南朝は北朝との戦いで武士を味方に引き入れる必要があった。北畠親房、新田義興等は自陣営の武士の任官所望を吉野に申請し、恩賞という形で官途を与えていた。やがて足利尊氏・義詮も対抗すべく同様のやり方を取り入れたと考えられている。こうして、観応の擾乱を契機として、官位は恩賞としての性格を持つようになっていた。叙任形態の変化により、貞治5年(1366年)10月に吉田社成功で伊予守に任官した上杉顕定を最後に、成功任官は姿を消す。その後幕府では、恩賞沙汰で官途申請が審議され、推挙が行われた。
成功の消滅によって、一斉同時任官の契機が失われ、官途を求めるものの増大が引き起こされたため、私称官途が黙認され、横行するようになった。これは、ある一定範囲の名に関してのみ、正式な手続きを経ず、名乗る者が上位と仰ぐ存在から承認を受ければ、私的に名乗っても良いと幕府・武家社会の中で暗黙に認められたのではないかと考えられている。成功任官の消滅は、幕府の施策や叙任形態のみならず、その後の武家官位や武家社会に大きな影響を与えたと見られている。
時代は下り、3代将軍足利義満の時代になると、官途は苗字・実名と不即不離の「呼び名」「称号」に近いもの、人格・イエを体現し、室町殿との主従関係を表示する記号となっていった。
戦国時代になると、幕府の権力が衰え、大名が直接朝廷と交渉して官位を得る直奏の例が増加することになる。朝廷が資金的に窮迫すると、大名達は献金の見返りとして官位を求め、朝廷もその献金の見返りとして、その武家の家格以上の官位を発給することもあった。たとえば左京大夫は大名中でも四職家にしか許されない官であったが、戦国期には地方の小大名ですら任じられるようになり、時には複数の大名が同時期に任じられることもあった。大内義隆に至っては高額の献金を背景に、最終的には従二位・兵部卿という高い官位を得ている。官位は権威づけだけではなく、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。その主な例として、大内氏が少弐氏に対抗するために大宰大弐を求めた例、三河国の支配を正当化するために織田信秀、今川義元、徳川家康が三河守を求めた例がある。大名である織田信長が家臣の羽柴秀吉や明智光秀その他数名を朝廷に推挙して正式な手続きを経て筑前守や日向守などに任官させた例もある。
一方この時代には、朝廷からの任命を受けないまま官名を自称(僭称)する例も増加した。織田信長が初期に名乗った『上総守』や上総介もその一つである。また官途書出、受領書出といって主君から家臣に恩賞として官職名を授けるといったものまで登場した。大友宗麟が官途状を発給して家臣を右馬助に任じている例などがそれに該当する。
豊臣秀吉が公家の最高位である関白として天下統一を果たすと、豊臣氏宗家を摂関家、豊臣氏庶流および徳川・前田・上杉・毛利・宇喜多の諸氏を清華家格とする家格改革を行うなど、諸国の大名に官位を授けて律令官位体系に取り込むことで統制を行おうとした。ところが、ただでさえ公家の官位が不足気味だったところへ武家の高位への任官が相次いだために、官位の昇進体系が機能麻痺を起こしてしまう。その結果、大臣の任用要件を有する公家が不在となってしまい、秀吉が死去した際(1598年)には、内大臣徳川家康が最高位の官位保有者であるという異常事態に至った。また秀吉は同じく海外志向であった武将の亀井茲矩の申し出に対し、律令に無い官職である琉球守(現在の沖縄)や台州守(現在の中国浙江省台州市)など異例な名乗りを許している。これは厳密に言えば朝廷にとって由々しき事態であったが、秀吉の海外進出が挫折すると亀井の名乗りも国内官職へ回帰した。
徳川家康が江戸幕府を開くと、官位を武士の統制の手段として利用しつつもその制度改革に乗り出した。まず、慶長11年(1606年)に武家官位は江戸幕府の推挙によるものとした。慶長16年(1611年)には武家官位を員外官(いんがいのかん)として公家官位と切り離す方針が打ち出され、禁中並公家諸法度(第7条)により制度化された。これは将軍であっても例外ではなかった。武家と公家の官位を切り離すことによって、武士の官位保有が公家の昇進の妨げになる事態を防止した。
ただし、太政大臣については、武家官位(徳川家康・秀忠・家斉が任官)と公家官位の重複は発生しなかった。朝廷側には、徳川将軍家の太政大臣は実質を伴う公家官位である(禁中並公家諸法度が規定した武家官位にはあたらない)という考え方があったらしく、江戸時代の公家で最初の太政大臣になった近衛基熙(徳川家宣の義父でもある)も「太政大臣は東武(徳川将軍)の官になっていて摂関家や清華家は任じられない官」になっていたと記している(『基熙公記』宝永6年9月8日条)。
武家の官位の任命者は事実上将軍とし、大名家や旗本が朝廷から直接昇進推挙を受けた場合でも、改めて将軍の許可を受けねばならなかった。もっとも、将軍が大名や旗本に与える官位は、将軍が任命するだけでは足りず、幕府の奏上を受けた朝廷から勅許が下りることで初めて正式なものとなった。すなわち、将軍に任命された時点では単に「諸大夫」「四品」などに任じられて「○○守」などの名乗りを許されたという仰書・申付書が下されるだけに過ぎないが、勅許を得ることで「従五位下」「従四位下」といった正式な位階と名乗りがそのまま官途名として認められた位記・口宣案が発給された。
なお、位記・口宣案の発給には従五位下諸大夫で金10両、大納言で銀100枚といった具合に天皇に対して金子を進上することになっており、それが上皇や皇太子、女院、中宮や武家伝奏、上卿や実務にかかわる地下官人などにも配分された。武家官位の授与数は年間で3桁以上に上るため、武家官位の授与は江戸時代の天皇・皇族・公家にとっては大きな収入源になっていた。
ただし、すべての大名が武家官位を持つようになるのは、18世紀に入ってからである。江戸時代の初期には小大名の中には武家官位を授からないままの者も少なくなかった。寛文印知によって大名の格式が整備されたころから、ほとんどの大名に官位が与えられるようになり、宝永6年3月7日(1709年4月16日)に将軍徳川家宣は「今より万石以下の人々、みな叙爵あるべし」と宣言(『徳川実紀』(『文昭院殿御実紀』巻1))して官位のなかった27名の大名が一斉に叙爵されて以後、すべての大名が家督継承時(家格によってはそれ以前の段階)に武家官位が授けられることになった。これにより名目上となった武家の家格はあまり重要視されなくなった。
官職は
とした。
これらの武家官位について、伺候席席次を官位の先任順としたり、一部の伺候席を四品以上の席としたりするなどして、格差をつける。その上で、大名家により初官や昇進の早さを微妙に変えるなどして家格の差を生ぜしめた。
なお、旗本が武家官位を授けられる場合には、正六位相当の布衣に任ぜられる場合があった。江戸幕府による武家官位では、布衣がもっとも下位にあたった。また、御三家および加賀藩の家老のうち数名が幕府の推挙という形式で叙爵を受けることができた(附家老)。
ただし、以上の規定にもかかわらず、喜連川藩の藩主である喜連川氏のみは、歴代当主は幕府からの武家官位を受けずに公式には無位無官でありながら、「左兵衛督」「左馬頭」を自称し、幕府や朝廷も許容していた。これは、同氏は足利将軍家の血を引く生き残り(古河公方の末裔。「左兵衛督」「左馬頭」は歴代の鎌倉公方・古河公方の官職)であり、幕藩体制の統制下の枠組みには完全には含まれていなかった影響があるとみられている。
参考までに1712年(正徳2年)刊行の「和漢三才図会」記載の官位昇進の順序を以下に示す(ただし、左の番号は、便宜的につけたものである)。
武家官位では、「〜守」「〜頭」等の官途名乗りは官職とはされず、叙爵された者が称しているものとされた。ただし、勅許を得ることで作成される口宣案にその官途名が明記され、単なる自称とは異なる重みを持つことになった。この官途名乗りにおいても幕府の許可が必要とされていたが、原則的には名乗る当人の希望が重視された。ただし、一部の官途名に特例を設けるなどして大名統制に利用している。具体的には次のとおり。
武家官位は伝統的な律令制以来の身分体系に武家を組み込み、将軍を頂点とした序列を付け、統制を行うのに効果的な役割を果たしたが、これに対し江戸時代において全く異議が唱えられなかったわけではない。
第6代将軍家宣・第7代将軍家継の下で正徳の治を行った新井白石は、著書『読史余論』で足利義満の時代について触れた中で、義満とその臣下は君臣関係にあるが、同時に義満は天皇の臣下であるため天皇の臣下と言う点では将軍もその臣下と同じということになってしまうために(君臣共に王官をうくる時は、その実は君・臣たりといへども、その名はともに王臣也)将軍の臣下(守護大名達)は義満に心から従わず、それゆえに反乱が多かった(明徳の乱・応永の乱など)と論じた。そして、公家・武家から人民に至るまで将軍の臣下となるような独自の身分制度を作るべきだったと主張している。また荻生徂徠は第8代将軍吉宗の諮問を受けて提出した意見書『政談』で、大名の中には官位を叙任する文書は天皇から発給されるので天皇こそ真の主君だと考え、今は将軍の威勢を恐れているので家来になっているだけの者がいる、と指摘し、武家には十二段階の独自の勲等制度を設けるべきだと提言している。この指摘は、幕末になって江戸幕府の威勢が衰えると現実のものとなった。
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