大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主 。
大内義隆像(龍福寺蔵) | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 永正4年11月15日(1507年12月18日) |
死没 | 天文20年9月1日(1551年9月30日) |
改名 | 亀童丸(幼名)→義隆 |
別名 | 受領名:周防介 尊称:大内介 |
戒名 | 竜福寺殿瑞雲珠天大居士 |
墓所 | 大寧寺(山口県長門市) |
官位 | 従五位下、従五位上、左京大夫、正五位下周防介、筑前守、従四位下、大宰大弐、左兵衛権佐、従四位上、兵部権大輔、正四位下、伊予介、従三位、侍従、正三位、兵部卿、従二位 |
幕府 | 室町幕府 周防・長門・石見・豊前・筑前守護 |
主君 | 足利義晴→義輝 |
氏族 | 大内氏 |
父母 | 父:大内義興 母:内藤弘矩の娘・東向殿 |
兄弟 | 大宮姫(姉、吉見隆頼のち吉見正頼室)、義隆、女(大友義鑑正室)、女(細川持隆正室)、女(一条房冬室)、弘興、女(足利義維正室) |
妻 | 正室:貞子(万里小路秀房の娘) 継室:小槻氏(おさいの方) 側室:内藤興盛の娘、広橋兼秀の娘・広徳院御新造、服部多門の娘・生駒夫人、大原氏 |
子 | 珠光、義尊、義教、義胤 養子:晴持、義長(晴英)、尾崎局(毛利隆元室) |
第15代当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。義隆の時代には領土的に全盛期を迎えるとともに大内文化が爛熟した。しかし、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害した。
永正4年(1507年)11月15日、周防・長門・石見・豊前4か国の太守である大内氏の第15代当主・大内義興の嫡子として大内氏館で生まれる。母は長門守護代の内藤弘矩の娘である。
幼名は亀童丸(きどうまる)というが、これは父や祖父の政弘ら歴代当主の名乗ったものである。義隆は幼少時から嫡子としての地位を明確にされ、同時に大内家で歴代に渡り家督相続時に発生した内紛を予防するために名乗らされていた。義隆は幼児期は乳母や多くの女に囲まれて成長した。少年期になると介殿様と呼ばれたが、これは周防介の略であり、大内家当主の地位として世襲されたものであり、義隆が嫡子として扱われていた証左である。なお、義隆が周防介になった年は明確ではないが、永正17年(1520年)の時点で義隆を介殿様と記していることから(『高嶺太神宮伝記』)、この頃に周防介に叙任されたと考えられている。また、その前後に将軍・足利義稙から偏諱を受けて元服し、義隆と名乗っている。
元服後の大永2年(1522年)から父に従い、大永4年(1524年)には父に従って安芸国に出陣する。この時は5月に別働隊を率いて岩国永興寺へ、6月に厳島へ入り、7月に重臣の陶興房とともに安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかし8月に尼子方として救援に赴いた毛利元就に敗退する。また山陰の尼子氏とも干戈を交えた。この頃に京都の公卿・万里小路秀房の娘・貞子を正室に迎えた。この最中の大永3年(1523年)に寧波の乱が勃発しており、その後大内氏は東シナ海の貿易を独占している。
享禄元年(1528年)12月に父が死去したため、義隆は22歳で家督を相続する。大内家では家督相続の際に一族家臣の間での内訌が起こることが常態化していたが、義隆相続の際には起こっていない。これは義隆の弟・弘興の早世による親族の欠如と、重臣の陶興房の補佐によるところが大きいとされている。
享禄2年(1529年)12月23日に従五位上に叙され、享禄3年(1530年)10月9日に父祖と同じ左京大夫に任命された。
享禄3年(1530年)からは九州に出兵し、北九州の覇権を豊後国の大友氏や筑前国の少弐氏らと争う。家臣の杉興運や陶興房らに軍を預けて少弐氏を攻めた。そして肥前国の松浦氏を従属させ、さらに北九州沿岸を平定して大陸貿易の利権を掌握した。しかし杉興運に行なわせた少弐攻めでは、少弐氏の重臣・龍造寺家兼の反攻にあって大敗を喫した(田手畷の戦い)。
天文元年(1532年)、大友氏が少弐氏と結んで侵攻してくると、義隆は長府に在陣し、北九州攻略の大義名分を得るために大宰大弐の官職を得ようと朝廷に働きかけるが失敗した。
天文3年(1534年)、龍造寺家兼を調略して少弐氏から離反させ、少弐氏の弱体化を図った。また陶興房に命じて大友氏の本拠地豊後を攻略しようとするが失敗する(勢場ヶ原の戦い)。しかし、義隆は一方で北肥前にいた九州探題・渋川義長を攻め、渋川氏を滅亡に追い込んだ。
この年、後奈良天皇の即位礼に合わせて銭2千貫を朝廷に寄進し、翌年あらためて大宰大弐への叙任を申請する。天皇は一旦許可したものの、これは1日で取り消されている。
天文5年(1536年)、ようやく大宰大弐に叙任され、北九州攻略の大義名分を得た義隆は、9月に龍造寺氏とともに肥前多久城での戦いで少弐資元を討ち滅ぼし、北九州地方の平定をほぼ完成させた。このとき龍造寺氏の本家の当主・龍造寺胤栄を肥前守護代に任じている。
天文6年(1537年)、室町幕府第12代将軍・足利義晴から幕政に加わるよう要請を受けて上洛を試みるが、山陰を統一して南下の動きを示していた尼子氏に阻まれ、領国経営に専念するためにこれを断念した。
天文7年(1538年)に将軍・義晴の仲介により宿敵・大友義鑑と和睦している。
天文8年(1539年)、父の代からの補佐役であった陶興房が病没している。
天文9年(1540年)、尼子経久の孫・詮久(のちの晴久)が安芸国へ侵攻し、大内氏の従属下にあった毛利元就の居城である吉田郡山城を舞台に戦った(吉田郡山城の戦い)。義隆は陶興房の子・隆房(後の晴賢)を総大将とした援軍を送り尼子軍を撃破する。以後は尼子氏に対して攻勢に出ることになり、天文10年(1541年)には尼子方の安芸武田氏(武田信実・信重ほか)と友田氏(友田興藤)を滅ぼして安芸国を完全に勢力下に置いた。
天文10年11月、尼子経久が死去すると、天文11年(1542年)1月に義隆自ら出雲国に遠征して尼子氏の居城月山富田城を攻囲するが、配下の国人衆の寝返りにあって晴久に大敗した(月山富田城の戦い)。従来、義隆はこの敗戦により寵愛していた養嗣子の大内晴持を失ったことを契機に領土的野心や政治的関心を失い、以後は文治派の相良武任らを重用するようになったため、武断派の陶隆房や内藤興盛らと対立するようになったとされてきた。しかしそれは現在では否定されている。月山富田城の戦いの翌年・天文12年(1543年)には姉婿の大友義鑑の次男・塩乙丸(後の大内義長)を猶子とし、大友氏との関係を改善している上、石見国では小笠原長雄を従属させ、備後国では神辺合戦や布野崩れに勝利し、大内氏の最大版図を築いている。また、相良氏は大内政弘の頃から大内氏に仕えており、敗戦とそれによる失意によって武任を重用したわけではない。
天文16年(1547年)、兵部卿に任じられ、天竜寺の策彦周良を大使に任じて最後の遣明船を派遣している。
天文17年(1548年)、龍造寺胤信と同盟する。胤信は義隆からの偏諱によって隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に隆信の家督相続に不満があった家臣たちを抑え込んだ。
天文19年(1550年)8月、山口に来たフランシスコ・ザビエルを引見したが、ザビエルが汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たないなど礼を大いに欠いていたことから義隆は立腹し、布教の許可は下さなかった。ザビエルは畿内へ旅立った。同年、陶・内藤らが謀反を起こすという情報が流れ、義隆は一時大内軍を率いて館に立て籠もったという。このときの反乱は風評に終わる。側近の冷泉隆豊は陶ら武断派の討伐を進言したが義隆はこれを受け入れなかった。
天文20年(1551年)4月下旬、ザビエルを再び引見する。ザビエルはそれまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを学んでおり、今回は一行を美麗な服装で飾り、珍しい文物を義隆に献上した。献上品には、本来なら天皇に捧呈すべく用意していたポルトガルのインド総督とゴア司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったという。義隆は、ザビエルに対して布教の許可を与え、その拠点として、大道寺を与えた。
義隆は後奈良天皇や三条公頼・二条尹房といった朝廷儀礼に通じた公卿達とともに山口遷都計画を起こしたが、天文20年(1551年)8月末、陶隆房ら(周防国守護代)が「京都の上意」を受けたとして謀反の兵を挙げた。重臣の内藤興盛(長門国守護代)もこれを黙認し、義隆を救援することはなかった。
義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしたが暴風雨のために身動きがとれず、長門深川の大寧寺までたどり着くとそこに立て籠もった。義隆に従った一門の重臣・冷泉隆豊の奮戦ぶりが目覚しかったが、所詮は多勢に無勢で、9月1日の10時頃に義隆は隆豊の介錯で自害した。享年45。辞世は「討つ者も 討たるる者も
義隆の実子の大内義尊も、9月2日に陶軍に捕らえられ殺害された。義隆・義尊の死により、周防大内氏は事実上滅亡した。 またこの時周防国に滞在していた三条公頼や二条尹房をはじめとする多くの公家たちもこの謀反に巻き込まれ殺害された。
かつては、義隆は家中や領民の動向が見抜けず、公卿的生活を尚んだ中央指向の姿勢を貫くため、国情を無視して臨時課役を増したことが悲劇につながったとされていた。しかしそれは現在の研究では否定されており、6カ国の守護であったことに加え、石見銀山や遣明船の独占など、大内氏は資金源を多数確保していたことから、領民を無視して献金をしていたとは考えられていない
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