『川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴアリエイシヨン』(かわばたやすなり だいよんたんぺんしゅう「しんじゅう」をしゅだいとせるヴァリエイション)は、梶井基次郎の批評・感想を含んだ短編作品。川端康成が1926年(大正15年)4月に発表した神秘的作風の掌の小説『心中』に魅了された梶井がその3か月後に、実験的にその掌編に補足説明や独自の感覚の解釈を書き加えたオマージュ的なヴァリエーション作品である。
川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴアリエイシヨン | |
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作者 | 梶井基次郎 |
国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
ジャンル | 批評・感想、短編小説 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
初出情報 | |
初出 | 『青空』1926年7月1日発行7月号(第2巻第7号・通巻17号) |
刊本情報 | |
収録 | 『梶井基次郎全集下巻』 |
出版元 | 六蜂書房 |
出版年月日 | 1934年6月26日 |
装幀 | 清水蓼作 梅原勝次郎(染色者) |
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川端の掌の小説への最初の本格的な言及として意義のある作品で、川端文学に対する梶井の「共振」や両者の文学の「類縁性」、あるいは差異が垣間見られる作品となっている。
初出は1926年(大正15年)の同人雑誌『青空』7月号(第2巻第7号・通巻17号)に「小説」のカテゴリーとして掲載された。
全集収録は、梶井の死から2年後の1934年(昭和9年)6月26日に六蜂書房より500部限定で刊行の『梶井基次郎全集下巻』に収録され、その後は1947年(昭和22年)12月20日に高桐書院より刊行の『梶井基次郎全集第2巻』や、1959年(昭和34年)5月30日に筑摩書房より刊行の『梶井基次郎全集第2巻』などに収録された。
なお、タイトル中の「ヴアリエイシヨン」は、1966年(昭和41年)再発行の筑摩書房の全集までは原題のまま「ヴアリエイシヨン」であるが、現代仮名遣いを採用している収録本では「ヴァリエイション」と表記され、青空文庫などでは「ヴァリエイシヨン」とも表記されている。
彼が妻と7歳の娘を置き去りにし他郷へ出奔してから2年が経つが、その間にも彼の心の中に雲蔭のように暗く過ぎるは娘のことだった。ちょうど娘と同じ年頃の娘たちが幸福そうに学校に通いながら、歌を歌ったりゴム毬をついたりする姿を見ていると、父親に捨てられた幼い者の姿が「とんとん、とんとん」と毬をつく音が彼の耳に聞えてくる。生きているか死んでいるか分からず、あるいは、自分がそんな娘を持ったことがあったのかどうかも時々定かでなくなる彼であったが、その「とんとん、とんとん」という音の響きが「不幸な生存」を彼に伝えてくる。その音に彼は苦しむが、そんな自分をどうすることも出来なかった。
「子供にゴム毬をつかせるな。その音が聞えて来るのだ。その音が俺の心臓を叩くのだ」と彼は思いあまって手紙を書く。封筒に宛先の住所だけを書くと、そんな町が存在したのかどうかも疑わしく思いながらも投函し、別の地へ移動した。その後、ゴム毬をつく音は聞えてこなくなったが、しばらくすると、いじらしい登校姿を心象に伴って娘の靴の音が聞えてきた。心が重くなった彼は、旅館の蒲団の上で、その靴に心臓を踏まれ苦しむ。
「子供を靴で学校を通わせるな。その音が聞えて来るのだ。その音が心臓を踏むのだ」と彼はまた手紙に書いて投函した。次の第三の手紙はそれからほどない1か月後に投函された。娘の発する音も、次々小さく、だんだん質が固く冷たい音になってくる。「子供に瀬戸物の茶碗で飯を食わせるな。その音が聞えてくるのだ。その音が俺の心臓を破るのだ」
彼女は自分が夫を気遣っていることや、自分達の上に願っていることなどが、夫の手紙に一筆も触れられてないことに、昔と変らない夫の冷酷を感じたが、第三の手紙には夫の強い苦しみや不自然の老いが察せられた。そして夫の短い手紙の不思議な厳かな力によって、彼女は夫の命令に従い続けた。夫の今にも破れそうな心臓を預かっているという意識の重さを感じながらも彼女は、夫はもう死んでいるのかもしれない、あるいは、かつてそんな夫を持っていたことさえ定かではないような気もしてくる。
ふと気づくと、娘が勝手に自分の茶碗を取り出してきている。「いけない!」と彼女はとっさにそれを奪い取って庭石に投げた。夫の心臓の破れる音。突然彼女は眉毛を逆立て自分の茶碗も石に投げつけた。この音こそ夫の心臓が破れる音ではないのか? と思った彼女は、食卓を庭に突き飛ばす。さらに、壁に全身をぶつけ拳で叩いたり、襖を槍のように破り抜けたりしてみて、「この音は?」と試す。娘が泣きながら「かあさん、かあさん、かあさん」と駆け寄ってくると、彼女は娘の頬をぴしゃりと平手打ちする。「おお、この音を聞け」。
その音に呼応する木魂のように、新たな遠くの土地からの夫の手紙が来た。夫の心臓が破れなかったことに、彼女は高い喜びと同時に深い苦痛も感じた。今度の手紙には「お前達は一切の音を立てるな。戸障子の明け閉めもするな。呼吸もするな。お前達の家の時計も音を立ててはならぬ」とある。彼女は「お前達の家」と書かれたその手紙を読んで「お前達」と口に出して呟いてみた。その言葉は己れと己れらを愛しむ響きを持ち、その言葉に託した夫からの切々たる愛情が感じられた。彼女は「お前達、お前達よ」と呟きながらぽろぽろと涙を落とした。
それから、母と娘は一切の音を立てなくなった。死んだのだ。彼女達の立てる物音が即ち彼女たちの存在であった。そして夫なる者の生命も同時に消えてしまった。不思議にも、彼女達と枕を並べて死んでいたという彼は、彼女達の死とともに動かなくなった陰翳のことではなかったのだろうか。
「心中」の話を私はそういう風にきいている。
※梶井基次郎の作品や随筆・書簡内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。
梶井基次郎が同人誌『青空』に作品を掲載していた当時、梶井と年齢の近い川端康成や横光利一を代表とする新感覚派と呼ばれている若手作家たちが、同人誌『文藝時代』や菊池寛主宰の『文藝春秋』に短編小説を掲載して文壇で活躍していた。
梶井の『青空』の同人にも新感覚派に影響を受けた小説を発表する者もいて、梶井自身も習作「太郎と街」(1924年)で新感覚派的な短文の連続によるスピード感のある文体の模倣とみられる試みをしたこともあった。
しかしながら、梶井は新感覚派の作家たち全般を認めておらず、唯一の例外として川端康成だけを認めていた。
新感覚派の中で例外的に尊敬していた川端が1926年(大正15年)4月に掌編『心中』を発表すると、梶井はこの作品に非常に注目し、独自の感覚の解釈の創作部分を付け加えた実験的なヴァリエーション作品を同年6月19日に執筆して『青空』7月号に発表した。梶井はこの時点ではまだ川端と面識がなかった。
川端の作品を通じて抱いた親近感から梶井はその後、持病の結核の療養も兼ねて同年の大晦日に川端のいる湯ヶ島温泉に向い、その地で初めて面識を持つことになる。川端から長逗留できる宿泊宿「湯川屋」を紹介してもらった梶井は、その後も川端が滞在している「湯本館」に足しげく通って交流し、湯ヶ島滞在時に川端の短編集『伊豆の踊子』の校正を手伝うことになる。
その時の梶井は「静かに、注意深く、楽しげに」校正に没頭し、誤植や川端の字癖などの細かい注意をして川端を少なからず狼狽させるが、「作品のごまかし」をすっかり読み取り、さらには川端自身が当初は収録するつもりもなく忘れていた『十六歳の日記』をぜひ入れるべきだと強く勧め、収録が実現する。川端は後年そのことを感謝し、「底知れない程の人のいい親切さと、懐かしく深い人柄」の梶井から、「植物や動物の頓狂な話」を興味深く聞いた思い出も述懐し、そうした植物・動物など、梶井の自然の見方を「冬の日射しのやうな――そしてそこに、ユウモアと厳しい深さとがまじつてゐた」と語っている。
梶井は湯ヶ島滞在中の翌1927年(昭和2年)4月、東京にいる淀野隆三へ川端の掌編の新作「第五短編集」群と同時期の短編『梅の雄蕊』に対する感想を、〈梅の雄蕊いゝね、姉妹四人でねるところとてもよかつた〉と伝え、〈僕は此の頃益々川端氏のものを愛すると共にますます厳しい批判をしてゆき度いと思つてゐる〉とも書き送っている。
梶井と川端に共通するものとしては、その鋭敏な感覚、幻視・幻聴・幻覚などが作品に取り入れられている点があり、共に「幻視者」だったことが挙げられている。
『川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴアリエイシヨン』において、原作の行間を埋めるという試みの〈契機〉について梶井は、〈私は川端氏のこの神秘的な作品を、或程度私の感覚的な経験で裏づけることの出来るのを感じたのだ〉としている。
題がどうも白痴威しであるが、兎に角題の様なものを作る意図でこれは試みたのである。私は川端氏のこの神秘的な作品を、或程度私の感覚的な経験で裏づけることの出来るのを感じたのだ。そこにこの試みの契機がある。 — 梶井基次郎「川端康成第四短篇集『心中』を主題とせるヴアリエイシヨン」
しかし、やってみると〈神秘は平凡化〉されてしまったと梶井は自嘲し、原作『心中』に感じられる〈音〉の推移を〈素晴らしい響きの芸術である〉と賞讃している。
若しこれが成功したならば、畸形ながらにも、原作に対するある解釈と私自身の創作が、同時に読者に示せると思つてゐたのだつたが、それに必要な頭の透徹と時間の贅沢が与へられなかつたため、どうも強引でものにしたやうな傾きがある。原作の匂ひや陰影は充分かき乱され、神秘は平凡化され、引き緊つた文体がルーズになつてしまつた。然しそのある程度はこんな試みとして避け難い。
妻が茶碗をぶつつけるあたりから、おゝこの音を聞け、の辺までは原作と文字通り同様である。原作に於て、この部分は、実に霹靂を聞く如き大音響をたてる所である。毬をつく音、靴の響き、飯を食ふ茶碗の音、次にこの大音響、そして永遠に微かな音も立てなくなる、この推移は、素晴らしい響きの芸術である。 — 梶井基次郎「川端康成第四短篇集『心中』を主題とせるヴアリエイシヨン」
※梶井基次郎の作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。
登場人物の心理を書き加えて分量が増した梶井の『川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴアリエイシヨン』では、前半が夫の視点、後半は妻の視点で心理が描き分けられており、原作のもつニュアンスを敷衍しながら、別離している2人の「屈折した心のやりとり」が解析されている。
梶井が付け加えたその解釈の特徴として、以下の点が挙げられている。
3番目に関しては、原作の最後の一文に対し梶井独自の〈陰影〉という解釈がなされており、川端特有の「心霊的な物の見方」とは異なる結部になっている。
※梶井基次郎の作品や随筆・書簡内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。
梶井のこのヴァリエーション作品が、初出の『青空』第17号に掲載された際に、当時東京商科大学予科3年だった田中西二郎が読んで感心していたという評価がある。
後年の評価としては、元の川端の『心中』の作品評の賞讃の高さや作品研究の多さに比べると、総じて低めの評価がなされている。その一方で、川端の掌の小説の1篇に対する最初の本格的な言及としての意義もあり、一定の評価がなされている。
丸谷才一は、川端と梶井の両者の性質に共通する「放棄的な生への関心とあこがれ、病的なほど鋭利な感覚、詩と短篇小説との混同」と、その根底にある「極度に抒情的・情感的な人生への態度」といった類似性を見つつも、梶井が川端の『心中』に惹かれ敬意を示したのは、自分には無い川端の「想像力」の魅せられたからだとして以下のように考察しながら、梶井のヴァリエーション作品を「きわめて野心的な試みというべきかもしれないが、結果としてはみじめな失敗作にすぎ」なかったとしている。
しかし、言うまでもないことだが、文学者は自己との類似によってのみ、他の文学者に敬意を献ずるものではない。彼はむしろ、おのれに欠除しているものを敏感に嗅ぎとり、まずそれによって魅せられるのである。このような役割を果たしたものは、梶井の場合には、川端氏の想像力であったろうし、それは彼にとって、奔放で華麗で甘美なもの、いや悪魔的なものとしてさえ見えたに違いない。なぜなら想像力によって架空の世界を構築するための才能が、彼にはまったくなかったから。 — 丸谷才一「梶井基次郎についての覚え書」
林武志は、梶井自らが反省の弁を言っているように「失敗作」に終ったとしつつも、「一流の詩魂を持つ作者をしてかかる作品を書かしめた掌の小説の魅力とそれへの作者の惚れ込みようが推し測れよう」と述べて、「解釈と創作とを同時に目指した特異な作品」のその意義を評価している。
長谷川泉は、梶井のヴァリエーション作品の意義を「梶井の機知であり、川端親炙の果ての、切ないまなざしが注がれた作品である」と評価し、梶井が川端文学の本質を洞察した言として〈匂ひ〉〈陰翳〉〈神秘〉〈引き緊つた文体〉という言葉を挙げて、この当時として「この批評は梶井の驚くべき正確な予見であった」と讃辞しながらも、梶井の試みの方は「『心中』の凝縮した、含蓄のある、緊張した文体とは違って、平明で叙述的な、平叙の文章」で、「〈神秘〉は消し去られ、説明的であり、梶井の言葉をかりれば、〈解釈〉がつけ加えられている」として、「〈匂ひ〉〈陰翳〉、そして不可知の事象は、そのヴェールをはがれて、解釈と説明がつくように記されている」と捉えている。
川端康成の『心中』が非現実的な心霊現象的な記述に傾斜し、表現が散文詩的に飛翔し、短文で凝縮しているのに対し、梶井のヴァリエーションでは現実的な解釈を中心として写実的である。(中略)自己評価については〈原作の匂ひや陰翳は充分かき乱され、神秘は平凡化され、引き緊つた文体はルーズになつてしまつた。〉としるしている。まさに梶井の自己評価の通りである。 — 長谷川泉「心中」
森晴雄も長谷川泉と同様の評価をし、「創作の形式をとった作家、梶井の一篇の作品に対する感想である」として、梶井自らが〈神秘は平凡化され、引き緊つた文体はルーズになつてしまつた〉と記していたことを敷衍して、「『心中』一篇のもつ幻想的な味わいを、あまりに現実のものとして説明しているものであった」と低評価している。
古閑章は、同じジャンルで、感性に類縁のあるヴァリエーションの試みをすることは挑戦者に分が悪いのは当然なため、川端の原作と梶井のヴァリエーション作品を比べれば、長谷川泉の評価は妥当としながらも、梶井が自身の試みの動機を〈私は川端氏のこの神秘的な作品を、或程度私の感覚的な経験で裏づけることの出来るのを感じたのだ〉と語っていたように、梶井のヴァリエーション作品には、川端文学に対する「共振の内実」や、この時期の梶井文学の「ライトモチーフ」が看取できることを指摘している。古閑は『檸檬』(1925年)の先行作品の習作『瀬山の話』(1924年)以来、梶井文学にみられる「感覚の神秘性や幻想性」が、「心霊現象や仏教における輪廻転生」を取り入れた川端文学に通じる要素を持つ点に触れ、両者の文学の「共振運動」「共振関係」の最初の具体例としての意義を論考している。
ここには川端文学に対する梶井の共振の内実を、ほかならぬ幻視や幻聴・幻覚・ドッペルゲンガーなどの五感の不思議を通して文学化していくメカニズムが露呈していると言ってよかった。「心中」の夫が妻と娘の死の床に並んで死んでいた不可思議を「彼女達の死と共に動かなくなつた陰影のことではなかつたのだらうか。」と解釈する背後には、この時期の梶井文学のライトモチーフが図らずも語られることになっている。(中略)夢や幻想、幻覚や幻聴、幻視やドッペルゲンガーなどの梶井特有の文学要素は、現実基盤を動かしたり改変したりする際の重要な起爆剤となる。この点、川端の「心中」に具体化された魂の不思議は、夫と妻と娘とを結びつけている愛情の絆が、異常に鋭敏な感覚の交感を通して描かれた手法の見事さに起因するものであったから、梶井がそうした側面に敏感に反応したのは至極当然のことと言わなければならない。梶井のヴァリエーションは、その極北の姿に共振すべく試みられた習作にほかならず、この場合その水準が原作の価値に遠く及ばなかったこと自体、むしろ両者の感性の質が同心円を描く関係にあることを背理的に物語っていた。 — 古閑章「梶井基次郎――“文学的共振関係”を視座として――」
そして古閑は、その後に対面した梶井と川端が交流を重ねる中で、川端の短編集の単行本『伊豆の踊子』の校正を手伝い、祖父の介護について綴られていた川端の処女作『十六歳の日記』をその本に収録するよう勧めたというエピソードに触れて、「梶井が川端文学の才華に誰よりも注目していたのは、こうした醜を美に転換していく言葉の把握力に対してだった」とし、それは梶井の『檸檬』の中の〈見すぼらしくて美しいもの〉という「相反した言葉の葛藤から新たに焼き直される美の構造」と、川端の『文学的自叙伝』(1934年)の中で「抒情的」で惹かれるものとして語られる浅草や貧民窟などの「きたない美しさ」といった感覚の構造が、「共に醜から美を掴み出す思想の錬磨に根拠を委ねるものだったから」だと考察している。
醜に対する並外れた関心や興味こそ、美に対する強烈な志向の原動力になる。それは最終的には醜に極みとも言える「死」へのスタンスの取り方に関わってくる。梶井における「闇」の問題が川端における「虚無」の問題にクロスし、それが醜を昇華した美の問題に個々の作品を通して演繹されるとき、両者の文学は意外に近い位相に立っていることが判明するのである。 — 古閑章「梶井基次郎――“文学的共振関係”を視座として――」
柏倉康夫は、「川端作品のもつ象徴性」が梶井の中で「強い共鳴」を呼び「創作意欲を刺激した」このヴァリエーション作品について、「原作を充分に味読し、平明な叙述によって、原作にそいつつ新しい作品をつくりだすのに成功している」と評価し、「『心中』の一篇の鍵が、次第に高まる音響にあるという梶井の洞察は鋭い」と解説している。そして、結末の部分では川端と梶井の資質の違いが如実に表れているとして、3人が一緒に死んでいる原作の最後の一行をそのまま肯定することができなかった梶井が、夫の姿を〈陰影〉と解釈したのは、第三高等学校理科に入り一時はエンジニアを目指したことのある梶井にとって「心霊的な物の見方」は受容できなかったからで、梶井が「一種の異常な感覚者」であっても、それがイコール「超現実を信じること」を意味するわけではないとしている。
梶井の鋭い感性は、現実のわずかな位相のうちに、常態ではうかがいしれぬ美を見いだす質のものである。その幻視、幻聴、幻覚はあくまで異常に鋭くなった感覚がもたらすもので、梶井という肉体にむすびついている。それだからこそ、そこから生まれるイマージュは異様に生々しくもあるのだ。こうした梶井にとって、夫妻と娘の三人が最後の瞬間に枕を並べて死んでいる姿をそのまま肯定することはどうしてもできない。(中略)
川端作品についてなにか書こうとした「心組みが、幾屈折して」できあがった、いささか「畸形な」作品は、二人の想像力のあり方の差異、文学の本質的なちがいをはからずも証明するものとなった。 — 柏倉康夫「第二部 第四章 それぞれの道――新感覚派・大胆な試み」
原善は、川端が『心中』の自作解題で語った「愛のかなしさを突いたつもりだつた」の「愛のかなしさ」が誰の「かなしさ」なのかを論じ、『心中』の先行評価の伊藤整や森晴雄をはじめとして、〈夫〉の哀しさや苦悩ばかりに焦点が当てられてきたことに異議を唱え、起承転結で展開されている作品を虚心に読めば、〈夫〉からの手紙で初めて〈お前達よ〉と呼ばれ喜びの涙を流す〈彼女〉(妻/母)の「愛のかなしさ」の方に『心中』の焦点があることは自明だとして、いち早く正しい読みの解釈をしていた上で前半に〈彼〉(夫)の視点を加え、後半の〈彼女〉(妻)の視点と合わせて2人の内面を描き分けていた梶井の卓見さに触れている。
そして原は、〈夫〉の哀しさばかりを焦点にしていた研究者の「偏った読み」と同じような流れで、梶井のヴァリエーション作品への不当な低評価がなされてきた流れがあるとし、その原因として彼らが梶井の自作解題における「謙遜の言葉」を真に受けてしまったことと、川端の作品を賞揚しがちな川端研究者たちが、「後進」の梶井のヴァリエーション作品の方を低く見る偏見があったことを指摘している。
梶井は、自らの作品の後半を「心中」的に、すなわちオマージュを捧げる作品と同じ焦点化で後半を書きつつ、それを長い「ヴアリエイシヨン」にするとき、前半を敢えてオマージュ対象作品とは異なる夫の視点にしようとしたのである。こうした意図的な作為を押さえれば、それ以降の研究史の流れとは異なって、梶井がきちんと「心中」を読めていたということがわかろう。すなわちそれは、後書き部分で〈原作に対するある解釈と私自身の創作が、同時に読者に示せると思つてゐたのだつた〉と述べていることの全き実現であったのだが、川端研究の歴史はその梶井の成した〈ある解釈〉の正しさを見落としただけでなく不当に貶めたあげく、偏った読み方を続けてきてしまっていたことを大いに反省すべきなのである。 — 原善「オマージュ作品の照らし出す川端康成:恩田陸と梶井基次郎」
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