前田 利鎌(まえだ とがま、1898年(明治31年)1月22日 - 1931年(昭和6年)1月17日)は、日本の哲学者。大正教養主義の時代に荘子・禅・スピノザ・ニーチェなどを論じた。32歳の若さで病没した。主著に『臨済・荘子』。
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“芥川賞作家・諏訪哲史さんの推薦! 『禅と浪漫の哲学者・前田利鎌』|じんぶん堂”. じんぶん堂. 2023年7月1日閲覧。 | |
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1898年(明治31年)熊本県玉名郡小天村にて、名士の前田案山子(当時70歳)と妾・林ハナの第2子として生まれ、戸籍上は正妻・キヨとの第9子(末子)となる。
利鎌誕生の1年前、夏目漱石が前田家を訪れ、前田家がモデルとして登場する小説『草枕』の着想を得ていた。漱石はその後も数度来訪し、前田卓に抱かれた赤子の利鎌を、漱石が撫でたこともあった。
1904年(明治37年)案山子が没すると前田家は没落しはじめ、貧困と転居生活のなかで少年期を過ごす。熊本の小天小学校から東京の富士見小学校・金富小学校に転校後、郁文館中学に入学。中学時代の1914年(大正3年)、卓に連れられ漱石と再会する。
1915年(大正4年)第一高等学校に入学。同年、卓の養子となる(当時利鎌17歳・卓47歳で、中国同盟会の黄興が提案した縁組だった)。1916年(大正5年)4月から、漱石の末弟子となり木曜会等に参加。同年12月に漱石が没した後も漱石山房に通い、漱石の蔵書を耽読したり夏目鏡子・伸六ら遺族と親交したりする。
1919年(大正8年)東京帝大文学部哲学科に進学。卒業論文『ファウストの哲学的考察』は、桑木厳翼から公刊を提案されるほど賞賛された。
一高時代から帝大時代、先輩かつ漱石兄弟子の松岡譲と友人になり、二人で富士登山したり『カンディード』の共訳を試みたりする。また松岡を介して居士禅者の下川芳太郎・岡夢堂と出会い、禅に傾倒しはじめる。また帝大時代、家庭教師先の平塚孝子(平塚らいてうの姉で大本信徒の既婚者)と親交し、不倫に近い関係となる。また剣道や謡曲も嗜んでいた。
1922年(大正11年)東京帝大卒業。同年から東京高等工業学校(現・東京工業大学)講師となり、1924年(大正13年)から東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)講師を兼任。1925年(大正14年)から、著作活動や、他大生も参加する自宅での哲学講義、埼玉県平林寺の峰尾大休のもとでの参禅を始める。1930年(昭和5年)東工大専任教授となる。1931年(昭和6年)、腸チフスにより急逝、享年32。
臨済・荘子・スピノザ・ニーチェをはじめとする古今東西の思想家・宗教家から、ゲーテ『ファウスト』、マルクス主義まで広範に論じている。利鎌が活動した時代は、大正教養主義や大正ロマンの時代であると同時に、藤村操や芥川龍之介の自殺に象徴される近代的不安や、西洋と東洋の文化的対立が問題になっている時代だった。利鎌はその中で、臨済や荘子に真の「自由」すなわち「自らに由って立つ」確固とした自我を見出した。禅への傾倒は、師の夏目漱石や同時代の西田幾多郎と同様だが、著作中に二人への言及はない。
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