佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争(させぼエンタープライズきこうそしとうそう)は、1968年1月にアメリカ海軍の原子力空母エンタープライズの寄港(米軍佐世保基地への入港)に対して発生した革新政党・団体・住民を中心とした反対運動のこと。一部では暴動も起こった。エンプラ騒動やエンプラ事件ともいわれている。
1967年9月、アメリカ政府は日本政府(佐藤栄作首相)に対して「原子力空母エンタープライズの寄港」の申し出を行い、佐藤内閣は11月2日に閣議決定した。
そして、翌年1968年1月19日、ミサイル巡洋艦トラクスタン(USS Truxtun, DLGN-35)とハルゼー(USS Halsey, DLG-23)を伴って佐世保港に入港した。
反代々木派学生らを中心とした寄港反対派は、この寄港を「佐世保港が、ベトナム戦争の出撃基地になる」と位置づけ、大々的な反対運動を展開した。反戦運動と反核運動の両方の性格を持ち、反米運動ともみなされた(詳細後述)。
一方警察側では羽田事件で大きな被害を出した反省から、後藤田正晴警察庁次長の指示を受け、羽田事件の映像を長崎県警の部隊に視せて学習させ、川島廣守の現地指揮のもとエンタープライズ入港期間中の干潮時の水深や気象条件を下調べした上で、学生らの排除時には催涙ガスを混ぜて放水する方策が取られた。
新左翼を中心とした運動であったが、攘夷的ナショナリズムを醸し出してアメリカ軍に対して実力で立ち向かったことに対してはそれにとどまらない反応があった。当時学生として参加した島泰三は、佐世保からの帰路、催涙ガスまみれで乗った列車の車掌から「ご苦労様です」と声をかけられたり九州大学へ向かう西鉄福岡市内線の車内で乗客に席を譲られたこと、右翼の学生から「礼を言いたい。エンタープライズの入港は、本心を言えばわれわれも反対だ。三派全学連はよくやったと思っている」と言われたことを記している。
保守派の論客である猪木正道は、三島由紀夫らとの対談で、右翼らしい老人から「米軍基地に突入していく学生の姿を見て日本人はまだ死んでいないことを知った」という手紙をもらったことに触れ、「主権と独立の精神を発揮してみせたことでも、功績はあるかもしれない」と述べている。一水会を創設した鈴木邦男も、「(阻止闘争を行う)学生たちが太平洋戦争でアメリカに立ち向かって敗れた日本兵とだぶってみえた」と語った市民の言葉を紹介しながら「あのとき日本を背負って闘ったのは、全共闘だったかもしれない。つまり彼らが日本のナショナリズムを代行したのではないかと。右翼がしたかったことをやつらがやったとも思うんです」としている。
いわゆる「ゲバヘル」がセクトごとに色分け絵されるようになったのは、この闘争で社青同解放派が青ヘルメットを着用し、他のブント系の学生たちがそれを真似たことに始まるとされる。
三里塚闘争を率いた北原鉱治は、著書で「機動隊と勇ましく衝突して血を流しているのを見て反対同盟はすっかり感激してしまいました。」と振り返っている。翌月の2月26日には、成田市内で反対同盟と合同で開催した集会に参加していた三派全学連の学生らが機動隊と激しく衝突している(成田デモ事件)。
佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争に絡んで、最高裁判所において数々の判例となる判決が出た。
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