中浜 哲(なかはま てつ、1897年1月1日 - 1926年4月15日)は、大正時代の無政府主義者。本名富岡誓。中浜鉄と書いたこともある。
福岡県企救郡東郷村の漁師の家に生まれる。早稲田大学文科を中退、帰郷して新聞記者をする。再度上京して加藤一夫の「自由人連盟」に加わる。詩歌、戯曲、小説などを発表。1922年2月、埼玉県蓮田の「小作人社」に加わる。富川町や三河町の人市に出て懸命に働く。8月、立ちん坊を集め「自由労働者同盟」を結成。朝鮮人の同志や社会主義団体に頼まれ単身2週間信濃川朝鮮人土工虐殺事件を調べに行き、9月7日、神田青年会館での真相発表演説会に出席したが、12日間拘留。
関東大震災に乗じて大杉栄が虐殺されると、中浜は以下の詩を霊前に捧げて復讐を誓う。
「杉よ! 眼の男よ!/俺は今 骸骨の前に起(た)って呼びかける/慈愛の眼 情熱の眼/沈毅の眼 果断の眼/すべてが闘争の器に盛られた/信念の眼!/女の魂を攫(つか)む眼/それ以上に男を惑わした眼/彼の眼は太陽だった/遊星はために吸いよせられた/彼の死には瞑目がない 太陽だもの/杉よ! 眼の男よ!/更生の霊よ/大地は黒く 汝のために香る」(『杉よ!眼の男よ!』・抄)
1923年10月4日朝、三重県松阪市路上で田中勇之進とともに登校中の甘粕正彦の弟照仁(中学生・17歳)襲撃を図るが果たせず、田中は尾行刑事に取り押さえられ殺人未遂の現行犯で逮捕。16日には資金獲得を目的として大阪府下布施の十五銀行小坂支店を襲撃、誤って銀行員を刺殺した主犯古田大次郎はその場から逃亡して地下に潜伏、従犯の河合康左右、小西次郎、小川義雄、内田源太郎は逮捕され、中浜は恐喝殺人未遂で指名手配となる。1924年4月、「実業同志会」の武藤山治から革命資金提供の約束を取り付けていた中浜は倉地啓司と大阪の「実業同志会」のビルに赴くが、単身ビルに入ったところを駆けつけたトラック2台分の巡査によってがんじがらめに縛り上げられて逮捕される。
1925年(大正14年)5月28日、大阪地方裁判所は、中浜ら6人に無期懲役を言い渡した(分離裁判で古田は死刑、控訴せず)。1926年(大正15年)3月6日の控訴審では、6人のうち減刑された者もいたが、中浜には死刑の判決が言い渡された。判決後、中浜は上訴権を放棄、一日も早く死刑にするよう主張。同年4月15日、大阪刑務所内で死刑が執行された。
享年29。最も過激で無頼と言われたが、
「手を執りてあい笑(え)まん日はいつならむ 親よ悲しき子を持てるかな」
という辞世を遺した。
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