モーリス・パンゲ(仏語: Maurice Pinguet、1929年5月5日 - 1991年4月16日)は、フランスの哲学者、文化人類学者、日本学者。
自殺、文学、日本に焦点を当てた文化人類学の研究で知られる。また、フランスの知識人に日本を紹介する役割を担った。
フランスの中部モンリュソンで生まれる。高等師範学校を出て1958年来日し、東京大学で教鞭を執り、1963年から1969年まで東京日仏学院院長も務める。パンゲはこの間、親友であり元より日本に興味を示していたロラン・バルトを日本に招き、1966年と1967年の二度に亘る滞在を通して日本という対象に強い関心と愛着を抱くにいたったバルトは、最終的に『表徴の帝国』を完成することになる。
1968年、一旦帰国、パリ大学のフランス文学の専任講師となるも、1979年再度来日し、再び東京大学にて教える。1989年、59歳の時、東大を定年の一年前に辞め帰国。なお、1968年の1回目の辞職の際、ミシェル・フーコーはパンゲの後任として東京大学への赴任することを望んだが、叶わなかった。
原題はLa mort volontaire au Japon「日本における意志的な死」。パリ大学で教えていた時、パンゲは高等研究実習院 の教授を務めていたバルトに、日本を主題とした講義を要請され、西欧の著作に現れた日本に関する言説の主要な特徴は何かということを、 イエズス会 宣教師 の手紙にまで遡って調べるというテーマを選び、そこでほとんど全ての著作で日本社会が「意志的な死」に寛容であることを嘆いていることに気付く。このことに触発されたパンゲは文化と文化の間を隔てる意義深い差異を明らかにしうる問題として「意志的な死」の問題を正面から考えることにする。この作業にあたり、数多くの資料をパンゲに提供したのはパリ第七大学・日本学教授だったジャクリーヌ・ピジョーであった。この研究を経て後、パンゲは再来日したが、この研究の内容を本の形にまとめてほしいというピジョーの説得に従い、日本における1981年から1984年に亘る40箇月の執筆期間を経て完成されたのが本書である。献辞は「ロラン・バルトの思い出に」、題辞はポール・エリュアールから「かくも難く、かくもかろき死」。
だからわたしは、過去の日本、現在の日本の大きな広がりのなかで、できるかぎり多様なケースを考察してみようと思った。それはニーチェが言っているあの国、「真実に実在した、真実に生きられた道徳の国、広大な、遥かな、隠された道徳の国」〈『道徳の系譜』〉序 を探検するためである
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