株式会社ポピーは、かつて存在したバンダイナムコグループの玩具メーカーである。
全日本家庭教育研究会の関連会社で教材集「ポピー」を発売する同名会社とは人材・資本とも一切の関連を持っていない。
バンダイと合併し現在のブランドトイ企画部となった旧ポピーと新正工業(シンセイ)、ユタカを経てポピーとなった新ポピーについてここで記述する。
1971年、バンダイグループで駄菓子屋などの一般の玩具流通以外で売られる玩具「雑玩」を販売する会社として発足。同社の設立メンバーである杉浦幸昌(バンダイ元会長)によると雑玩「カチカチクラッカー」のヒットがきっかけで設立された。その後、児童向けのテレビ番組と連動したキャラクター玩具類(当時の言葉ではマスコミ玩具)を製造・販売するための会社になる。
社長こそバンダイ本社と同じ山科直治(バンダイ創業者・元会長)だったが、実質的には専務の森と常務の杉浦に業務を任されていた。山科誠によると、行き詰まりを見せるバンダイで山科直治と度々議論になった結果、杉浦と森がバンダイを出ていった。
発足の際に山科直治から出された条件は「バンダイと同じ分野の商品は作るな」「バンダイと同じ売り先は駄目」「バンダイと同じ工場は駄目」の三つで商品開発でも販路でも生産でも新規開拓を要求された。さらに「赤字は1ヶ月だって許さない」という厳しさで、手間のかからないぬいぐるみなどを売って何とかクリアしていた。
杉浦が長男にタカトクトイスの仮面ライダー変身ベルトを買い与えた際、劇中のように回って光らないことに長男が不満を持った。そこで知り合いの工場の人に頼んでタカトクのベルトを改造し、回って光るようになったベルトを長男が近所で遊び回り、大きな評判を呼ぶ。杉浦は「これは売れるんじゃないか」と判断し、商品化を企画。今日のキャラクター商品は品目別に許諾するのが一般的だが、当時は価格帯別が一般的であり、東映も価格帯別に商品化を許諾していた。そのため、タカトクの500円の変身ベルトより高額な1,500円の変身ベルトとなる。杉浦は1,500円の付加価値としては回って光るだけでは不十分と判断し、水野プロによる劇中よりも派手なデザインに変更。この変身ベルトが大ヒットしバージョン違いを含め380万個を売る。ポピーはこれ以降他社より高額高付加価値のキャラクター玩具を主力とするようになる。なお原作者の石ノ森章太郎はポピーの変身ベルトを「こんな高いのが売れるのかなぁ」と考えていた。
また、イギリスの特撮作品『キャプテンスカーレット』の失敗によりキャラクター玩具には懲りていた山科直治の「あんなリスクの高いものを本社でやるとおかしくなるから子会社でやれ」という判断もあって、ポピーはキャラクター玩具専業の会社となる。ただしポピー設立以前からバンダイが強かった水物や模型などのキャラクター商品は本社が扱った。また、この過程で販路はバンダイに依存するようになり、雑玩からは遠のく。
1974年にアニメ『マジンガーZ』のキャラクターフィギュアをダイカスト技術を駆使して製造し発売。当初の商品名は「ダイカスト マジンガーZ」の予定だったが杉浦の発案で[要検証 ]「超合金」の名前が付けられ、パッケージの「ダイカスト」の上に「超合金」のシールが貼られて「超合金マジンガーZ」として発売された。これが大人気を博し、一躍脚光を浴び、以後、超合金ブランドでアニメ・特撮作品のキャラクターフィギュアが続々と発売された。
初年度の1972年2月期には12億5,000万円だった売上は、1976年2月期には146億円を突破、親会社のバンダイのみならず、トミーをも抜き、わずか5年で玩具業界トップに立つ。
1974年より「ポピーちゃん」という女児向けのキャラクターを手がけていたが、1976年、男児向けキャラクターが飽和状態に達したことから『キャンディ・キャンディ』を切り口に女児向けキャラクター玩具へ本格進出。『キャンディ・キャンディ』は大ヒットし、翌年はスーパーカーに客を奪われた男児キャラクターの不振を補った。
その一方で、やはり1976年放送開始の『超電磁ロボ コン・バトラーV』に企画・デザイン段階から参加し、アニメ本編と同様に合体できる玩具を販売した。この手法は他のスーパーロボット・アニメだけでなく、スーパー戦隊シリーズでも引き継がれている。
1981年にアニメ『タイガーマスク二世』から現実のプロレス界に派生した新日本プロレスのタイガーマスクのマスクやコスチュームを、初期のみ作成した。
1983年に株式上場を目的としたバンダイグループの再編に伴いバンダイ本社に吸収合併され、同社のポピー事業部に再編された。なお合併直前の1982年度2月期は模型が本社扱いだったことから、ガンプラの大ヒットによりバンダイ本社の売上がポピーを抜き返している。
1977年頃からサブブランド、「ビクトラー」、「あんそにい」を設立。ビクトラーは吸収合併後も1985年頃までバンダイの低価格帯玩具ブランドとして継続していた。
この当時のテレビ番組協賛スポンサーとしての提供クレジット読みには2種類があり、戦隊ものなど男児向けのものは「お子様に夢と勇気をと願うポピー」、少女漫画など女児向けには「小さな心にロマンと夢をと願うポピー」というアナウンスがなされた。合併年の1983年に放送された「科学戦隊ダイナマン」の玩具CMはポピーとBANDAIのダブルネームであったが翌年放送された「超電子バイオマン」はBANDAIのみとなっている。
合併後、バンダイ本社のキャラクター玩具ではない普通の玩具である「純玩具」派との対立もあったものの、ポピーのキャラクター玩具派が主流になり、バンダイはキャラクター路線で統一された。
ポピーが扱っていた女児キャラクターはレミー事業部が扱うことになり、ポピー事業部は男児キャラクターのみを扱うことになった。さらに1986年のバンダイの東証2部上場を機に事業部制を廃止。開発・海外営業・国内営業・管理・生産の5本部制になりポピー事業部は解体、開発本部第1部に継承される。
後に事業部制が復活し玩具第1事業部、キャラクタートイ事業部などを経て、現在のボーイズトイ事業部に継承。前述のように女児キャラクターを扱わなくなり、男児向けの純玩具を扱うようになるなど、純粋にポピーを継承しているわけではなかったが、2019年7月の組織改変で男女の区別なくキャラクター玩具を扱うブランドデザイン部となった。
ポピーの親会社に頼らない「独立自営」の精神は、今日のバンダイグループ各社にも受け継がれている。
2003年、「新正工業」を源流とするバンダイの子会社「ユタカ」がバンダイホビー事業部のガレージキット部門B-CLUBと併合し、商号を「ポピー」に変更。バンダイミュージアムの運営なども行っていた。2007年、バンダイナムコグループの事業再編に伴い、プレックスを存続会社として合併した。
合併後も続いたシリーズは、バンダイが継承している。
なお「ポピーちゃん」は、講談社の月刊少女雑誌『なかよし』に宣伝的漫画を掲載した事があり、最初は「原作:名木田恵子、作画:原ちえこ」名義の『うたえ!ポピーちゃん』を1974年10月号から1975年9月号まで連載、続いて「原作:加津綾子(名木田恵子)、作画:峡塚のん」名義の『あいLOVEポピーちゃん』を1975年10月号から1976年9月号まで連載、いずれも劇中に実在の芸能人(主に玩具化された歌手)が登場、『あいLOVE』には西城秀樹・ずうとるび・せんだみつおといった玩具化されていない芸能人も登場した。漫画は『あいLOVE』だけが講談社から単行本化された。
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