ジョルジュ・ブラッサンス(Georges Charles Brassens、フランス語発音: 、オック語: 、1921年10月22日-1981年10月29日)はフランスのシンガーソングライター、詩人である。
ジョルジュ・ブラッサンス Georges Brassens | |
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1966年9月から10月の国立民衆劇場でのコンサートでのジョルジュ・ブラッサンス | |
基本情報 | |
出生名 | ジョルジュ・シャルル・ブラッサンス(Georges Charles Brassens) |
生誕 | 1921年10月22日 フランス セット |
出身地 | フランス |
死没 | 1981年10月29日(60歳没) フランス サン=ジェリー=デュ=フェス |
ジャンル | |
職業 | シンガーソングライター |
担当楽器 | アコースティック・ギター、ピアノ、オルガン、バンジョー、ドラムス |
活動期間 | 1951–1981 |
日本では仏映画『リラの門』(1957年 ルネ・クレール監督)の準主役の楽士役を演じたことと、同じシャンソンでもイヴ・モンタンやエディット・ピアフの様なショー的なエンターテイナーではなく、ギター一本を基本とし、時折ベーシストやアコーディオン弾きを率いて少数で奏でて歌うスタイルと、セールス的には受け入れられない、フランス国内の反体制的な風刺の効いた歌詞の内容が持ち味のために、ごくわずかな日本版のレコードしか発売されなかったせいか、あまり、シャンソンファン以外には知られていなかった。
だが、フランス本国では没後数十年を経ても存命中から国民的人気を誇る吟遊詩人として、彼の曲は歌い継がれ聴かれている。
また、ジョルジュ・ムスタキやセルジュ・ゲンズブールにも影響を与えたことで知られる。
フランスの象徴的な人物として、ブラッサンスは歌声とギターのハーモニーが複雑な楽曲と、明瞭で多彩な歌詞を備えたエレガントな歌で名声を博した。また、戦後フランスで最高の詩人の一人ともみなされている。ブラッサンスはルイ・アラゴン(Il n'y a pas d'amour heureux)、ヴィクトル・ユーゴー(La Légende de la Nonne、Gastibelza)、ポール・ヴェルレーヌ、ジャン・リシュパン、フランソワ・ヴィヨン(La Ballade des Dames du Temps Jadis)、アントワーヌ・ポル(Les Passantes)といった、有名詩人から比較的無名な詩人までの詩に曲をつけている。
第二次世界大戦中、ドイツ軍によってドイツ・ベルリン近郊バスドルフのBMW航空機エンジン工場内の労働収容所で強制労働を強いられた(1943年3月)。ここでブラッサンスは「岩のようにどっしりしている」ことから「ジブラルタル」と呼んだピエール・オンテニエンテなどの将来の友人たちと出会った。彼らは後に親友となる。
フランスでの10日間の病気休暇を与えられたあと、ブラッサンスは労働収容所には戻らない決心をした。パリ14区の人気地区であるフロリモン通りと呼ばれる袋小路に隠れ、叔母の友人だった家主のジャンヌ・プランシュと数年暮らした。プランシュは夫のマルセルとともに、ガス、水道、電気なしの比較的貧しい暮らしを送っていた。ブラッサンスは5ヶ月後の終戦までそこに隠れ、その後も結局22年間滞在した。プランシュはブラッサンスの「ジャンヌ」という歌にインスピレーションを与えた。
ブラッサンスはギターを引きながら100以上の詩を書き、歌った。1952年から1976年にかけて、Les copains d'abord、Chanson pour l'Auvergnat、La mauvaise réputation、Mourir pour des idées といった人気曲を含む14枚のアルバムを録音した。彼の文章はほとんどがブラックユーモアを帯びており、多くの場合にアナキスト的な思想が盛り込まれている
1967年にアカデミー・フランセーズのグランプリ・ド・ポエジー(詩大賞)を授与された。
パリとセットの他に、クレスピエール(パリ近郊)およびレザルドリュー(ブルターニュ)にも居住した。
ブラッサンスは、オクシタニー地域圏エロー県 セットでフランス人の父親とマルシコ・ヌオーヴォ(南イタリアのポテンツァ県)出身のイタリア人の母親との間に生まれた。
ブラッサンスはセットで母親エルヴィラ・ダグローザ、父親ジャン=ルイ、異父姉シモーヌ(エルヴィラと、第一次世界大戦で死亡した最初の夫との娘)、父方の祖父ジュールとともに暮らす家で育った。ブラッサンスが「歌の伝道師」(militante de la chanson)と呼んだ母親は音楽を愛していた。
1943年3月、ブラッサンスはドイツの強制労働組織STO(Service du travail obligatoire)に徴用された。時間を見つけて Bonhomme や Pauvre Martin などの100以上の曲を書いたが、完成形(Le Mauvais sujet repenti)になるまえに焼き捨てたり、頻繁に修正したりした。また、最初の小説 Lalie Kakamou の冒頭部分を執筆した。ドイツで、「岩のようにどっしりしている」ことから「ジブラルタル」とあだ名されたピエール・オンテニエンテなどの親友数名と知り合った。オンテニエンテは後にブラッサンスの右腕となり、個人秘書も務めた。
バスドルフに来て1年後に10日間の一時帰休が認められた。ブラッサンスと友人たちにとって、彼が戻ってこないことは明白だった。パリで隠れ家を探さなければならなかったが、知り合いはほとんど居なかった。最終的にジャンヌ・プランシュが手助けを申し出て、必要な限り滞在させてくれると申し出た。ジャンヌは夫のマルセルとフロリモン通り9番地の、ガスも水道も電気もない掘っ立て小屋に住んでいた。ブラッサンスは申し出を受け入れ、22年間滞在した。一度ラジオで「あそこはいい場所で、それ以来例外的な不快を持ち続けている」と語ったことがある。ピエール・オンテニエンテによれば「ジャンヌはジョルジュに首ったけだったけど、朝の8時には酔っ払っていたマルセルはなんにも気がついていなかった」とのことである。
ジャンヌ・プランシュの家に引き取られたブラッサンスは、終戦まで5ヶ月隠れていなければならなかった。詩と歌を書き続けた。リズムを刻むための「私のドラム」と呼んだ小さな家具を唯一の楽器として作曲した。バスドルフで書き始めた小説の執筆を再開し、有名な作家としてのキャリアを夢見た。第二次世界大戦が終わり、突然自由が戻ってきても図書館カードを取り戻し、詩の勉強を再開した以外はあまり習慣に変化はなかった。
戦争の終結はバスドルフからの友人たちの帰国を意味しており、ブラッサンスは彼らとともにアナーキスト志向の新聞『ル・クリ・デ・グー』(Le Cri des Gueux、「悪党の叫び」)の創刊を目論んだが、資金不足のために初版で発行が中止された。同じ頃、エミール・ミラモン(古代の大型牛の一種オーロックスの角を意味する「コルヌ・ドーロック」とあだ名されたサッテ以来の友人)とアンドレ・ラルー(バスドルフでの知り合い)とともに、より慎ましい生活様式への回帰を主張する「先史党」を立ち上げたが、その主な目的は他の政党を嘲笑することだった。『ル・クリ・デ・グー』の失敗ののち、ブラッサンスはアナーキスト連盟に加わり、同連盟の機関紙『ル・リベルテール』(Le Libertaire)に毒々しく、ブラックユーモアに富んだ記事をいくつか書いた。しかしながら、未来のソングライターの無節制は誰の好みに合わず、遺恨なしに連盟を離れることになった。
ブラッサンスはインタビューで「アナーキストと、警官と議論するのが嫌で横断歩道を几帳面に渡る人のことだ」と語っている。また、「私は法律があまり好きではない。レオトーが言うように、私は法律なしでもやっていけるだろう……ほとんどの人はそれができないと思うが」とも延べている。
ブラッサンスの曲を聞いて気に入った友人たちは、キャバレーやカフェ、コンサートホールで曲を試すように進めたが、ブラッサンスは内気で人前で演奏するのが苦手だった。当初、自分の曲をレ・フレール・ジャックといった有名歌手に売り込みたかったが、カフェのオーナーはブラッサンスの曲は自分が求めているタイプとは違うと告げた。しかし、あるとき有名なカフェ、レ・トロワ・ボーデ(三匹のロバ)で歌手のパタシューと出会い、彼女がブラッサンスを音楽業界に引き入れた。ジャック・ブレルやレオ・フェレなどの何人かの有名な歌手がこうして音楽業界に紹介された。その後、ブルーノ・コカトリックスをマネージャーとして、オランピアに出演し、ボビノミュージックホールにも出演した。
ブラッサンスは、後に Avec Brassens(『ブラッサンスとともに』、クリスチャン・パロー版、1999年、ISBN 2-86808-129-0)と題した回想録を書くことになるピエール・ルーキとともにツアーを行った。1952年以降、ブラッサンスがフランスを離れることはほとんどなく、ベルギーとスイスに数回旅行し、1970年と1973年のウェールズでのコンサート(カーディフ)以外でのフランス国外のツアーはカナダでの1ヶ月(1961年、録音素材は2011年にCD化)と北アフリカでの1ヶ月だけだった。1973年にカーディフのシャーマン・シアターで行われたコンサートでは、ぶらっサンズの大ファンであるジェイク・サッカレイがオープニングアクトをつとめた。
ブラッサンスはアコースティック・ギターで弾き語りした。大抵の場合は友人のピエール・ニコラがダブルベースで伴奏に加わり、時にはセカンドギター(バーテレミー・ロッソ、ジョエル・ファヴローが加わった。
ブラッサンスの歌は、当時の保守的なフランス社会、特に宗教家、富裕層、法執行機関の人々の偽善と独善を避難するものが多かったが、批判の多くは間接的であり、対照的に他人の善行や無実に焦点を当てている。彼の華やかな言葉のエレガントな使い方とダークなユーモアは、弾むようなリズムとともに最も凄惨な歌詞であってもしばし陽気な雰囲気を与えた。
著名な楽曲の一部としては
ブラッサンスは長年健康上の問題を抱え、1981年にサン=ジェリー=デュ=フェスで癌のために死亡し、セットのル・ピ墓地に埋葬された。
日本、イスラエル、ロシア、米国(ジョルジュ・ブラッサンスのファンクラブがある)、イタリア、スペインなどの多くのアーティストがブラッサンスの曲をカバーしている。ブラッサンスの曲はエスペラントを含む20ヵ国語以上に翻訳されている。
多くの歌手がブラッサンスの歌詞を別の言語でカバーしており、例えばピエール・ド・ガイヤンドはブラッサンスの歌を英語に翻訳して演奏しており、ルイス・シリアはポルトガル語、越路吹雪は日本語で歌い、その他にもファブリツィオ・デ・アンドレ、アルベルト・パトルッコ(イタリア語)、ナンニ・スヴァンパ(イタリア語とミラノ語)、グレアム・オールライトとジェイク・サックレイ(英語)、サム・アルファ(アンティル・クレオール)、ヨシ・バナイ(ヘブライ語)アルセン・デディッチ(クロアチア語)イリー・ジェデチェク(チェコ語)マルク・フリードキン(ロシア語)ロキーヨ、ホアキン・サビーナ、パコ・イバニェス、ハビエル・クラーエ、ホアキン・カーボネル、エデュアルド・ペラルタ(スペイン語)、ジャック・イヴァール(エスペラント)、フランツ・ヨーゼフ・デゲンハルトとラルフ・タウフマン(ドイツ語)、マニ・マッター(ベルン方言)、Zespół Reprezentacyjny(2枚のブラッサンスの歌のポーランド語版CDをリリースしている)とピオトル・マハリツァ(ポーランド語)、コルネリス・フレースヴェーク(スウェーデン語)、トゥウラ・アンベルラ(フィンランド語)、ミケル・プハードとドゥミング(カタルーニャ語)などがある。ベルギー系ドイツ人の歌手で、フランス系ドイツ人のギタリスト、ステファン・バジールとステファン&ディデエというコンビ名で公開コンサートで共演しているディーター・カイザーは、ブラッサンスの19曲をドイツ語に翻訳し冊子にまとめた。また、フランスの現代詩人ルイ・アラゴンの詩「幸せな愛はない」(Il n'y a pas d'amour heureux)なども翻訳している。フランス系カメルーン人歌手のクリスト・ヌンピュビーは歌詞はオリジナルのフランス語のままだが、さまざまアフリカのリズムで演奏したカバーアルバムをリリースしている。
ジョルジュ・ブラッサンスの ファンの国際協会が存在し、ベルリン= バスドルフにもファンクラブがあり、毎年9月にブラッサンス・フェスティバルを開催している。
ブラッサンスは約250曲を作曲し、そのうち200曲が録音され、残りの50曲は未完成のまま残った。
ケベック語話者の重要な歌手であるルネ・クロードは、ブラッサンスに捧げるトリビュート・アルバム『J'ai rendez-vous avec vous』を1993年にリリースした。
1998 年にフランスで最も興行収入を上げた映画『奇人たちの晩餐会』では、オープニングタイトル音楽としてブラッサンスの「老若に問うバラード」(Le Temps Ne Fait Rien a l'Affaire)が使用された。
彼の歌は、マキシム・ル・フォレスティエ、ルノー、ベナバールなど、数世代にわたる多くのフランスの歌手に大きな影響を与えている。
2008年、イギリスのフォーク歌手レオン・ロセルソンは、アルバム『A Proper State』に「The Ghost of Georges Brassens」(「ジョルジュ・ブラッサンスの亡霊」)というブラッサンスへのトリビュート曲を収録した。
ジャン・フェラのアルバム『Ferrat』の曲「À Brassens」(「ブラッサンスへ」)はブラッサンスに捧げられた。 The song "À Brassens" ("To Brassens") from Jean Ferrat's album Ferrat was dedicated to Brassens.
2014年、オーストラリアとフランスのデュオ、マウンテン・メンはライブ・トリビュート・アルバム『Mountain Men chante Georges Brassens』(『マウンテン・メン ブラッサンスを歌う』)をリリースした。
「6587 Brassens」は1984年に発見された小惑星で、フランスの詩人兼ソングライターにちなんで名付けられた。
多くの学校、劇場、公園、公共庭園、公共の場所がジョルジュ・ブラッサンスと彼の作品に捧げられていまる。
1953年から1976年までアルバムを発表している。
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