神聖ローマ皇帝 コンラート2世

コンラート2世(Konrad II., 990年7月12日? - 1039年6月4日)はザーリアー朝初代国王(ドイツ王、在位:1024年 - 1039年)、イタリア王コッラード2世(戴冠:1026年3月23日)、神聖ローマ皇帝(戴冠:1027年3月26日)、さらにブルグント王を相続して自らの王位に統合(戴冠:1033年2月2日)。東フランク王コンラート1世の六世孫、オットー朝初代皇帝オットー1世大帝の弟ハインリヒの孫。フランク王国から分かれた王国においてフランス王国(西フランク)を除くすべての王となった

コンラート2世
Konrad II.
神聖ローマ皇帝
神聖ローマ皇帝 コンラート2世
在位 1024年 - 1039年(王)
戴冠式 1024年4月14日(王)
1026年3月23日(イタリア王)
1027年3月26日(神聖ローマ皇帝)
1033年2月2日(ブルグント王)

出生 990年7月12日?
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ユトレヒト
死去 1039年6月4日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国シュパイアー
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国シュパイアー大聖堂
配偶者 ギーゼラ・フォン・シュヴァーベン
子女 ハインリヒ3世
マティルデ
ベアトリクス
家名 ザーリアー家
王朝 ザーリアー朝
父親 シュパイアー伯ハインリヒ
母親 アーデルハイト・フォン・メッツ
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生涯

生い立ち

ザーリアー朝はコンラート2世の父方の高祖父に当たるヴェルナー5世を祖として、ヴォルムスガウ伯およびシュパイアーガウ伯位を持っていた。ヴェルナー5世はコンラディン家出身である東フランク王コンラート1世(若王)の娘ヒキナの婿だった。ヒキナとの間の息子コンラート(赤毛公)はオットー1世の娘のリウトガルトを娶ってロートリンゲン公となったが、義兄でオットー1世の子リウドルフの反乱に加担したため、ロートリンゲン公位を剥奪された。後のレヒフェルトの戦いアールパード朝ハンガリー王タクショニュ率いるマジャル人の軍勢に包囲されると、コンラートは岳父を救援して自身は戦死するも、ハンガリー王国の軍勢の撃退に成功した。

コンラートとリウトガルトの息子オットー1世(老公)はケルンテン公国を獲得、オットー1世の長男であるシュパイアーガウ伯ハインリヒアーデルハイトジラール家ロートリンゲンメッツ伯リシャールの娘)との間の長男として後の皇帝コンラート2世は生まれた。

ローマ教皇グレゴリウス5世、ケルンテン公コンラート1世およびシュトラスブルク大司教ヴィルヘルムは叔父で、ケルンテン公コンラート2世ヴュルツブルク大司教ブルーノ2世兄弟(叔父コンラート1世の子)は従弟である。また、母アーデルハイトはフランケン貴族と再婚し、異父弟にあたる後のレーゲンスブルク大司教ゲープハルトをもうけた。

青年期

父ハインリヒ2世は祖父のケルンテン公オットー1世に先立って990年代頃に死去し、コンラートは祖父オットー1世から家領の大部分を相続したものの、ケルンテン公位は叔父コンラート1世が継承し、コンラートはローマ帝国の国王として選出されるまで無官職であった。

1000年にヴォルムスガウ司教ブルクハルトと出会い、その教育を受けた。しかしこのような教育の機会にもかかわらず、コンラートは生涯文盲に留まった。年代記作家はコンラートがアルファベットを読めず、またラテン語の読み書きもできなかったと伝えている。

1016年の終わりまたは1017年の初めに、コンラディン家のシュヴァーベン公ヘルマン2世の娘ギーゼラと結婚した。ギーゼラはシュヴァーベン公領とブルグント王領の相続権を保持していた(母親がブルグント王コンラート3世の娘ゲルベルガ)。なお、この結婚は2人が近縁であることにより、教会法によれば不法なものであった。

選挙による国王選出

ハインリヒ2世が子を残さずして死去し、ザクセン朝は男系の血統が完全に断絶した。そのため1024年9月4日、国王選挙のための諸侯集会がオッペンハイムで開催された。この場において、満場一致でコンラートが王に選出され、ザーリアー朝初代の王となった。しかしながら、満場一致とはいえケルン大司教ピルグリム、ロートリンゲン大公ゴツェロ1世などはこの諸侯集会に臨席していなかった。そのためハインリヒ2世と同様にコンラート2世も各地を巡行して、こうした各勢力から王位の承認を得る必要に迫られた。

帝国の版図拡大

ザクセン朝が推進したイタリア政策はザーリアー朝にも引き継がれた。1026年にはイタリア遠征を敢行して、同年3月23日にミラノイタリア王の戴冠を受けた。さらに翌年の復活祭の日(3月26日)には、ローマサン・ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇ヨハネス19世から帝冠を受けて皇帝となった。この戴冠式には、東フランク(後のドイツ)イタリアの諸侯だけでなく、当時広大な北海帝国を形成していたデンマーククヌーズ2世なども臨席していた。

1032年9月6日ブルグントルドルフ3世が嗣子なく崩御し、コンラート2世は相続によってブルグント王位も手中に収め、1033年2月2日ペーターリンゲンで戴冠した。このことによって東フランク・イタリア・ブルグントという3国の王冠が一手に掌握された。この3国の領域が中世西欧における神聖ローマ帝国の範囲を規定する雛型となった。

1039年、ユトレヒトで崩御、自身が建設させたシュパイアー大聖堂に葬られた。息子のハインリヒ3世がその後継者となった。

子女

1016年頃にシュヴァーベン公ヘルマン2世の娘ギーゼラと結婚したが、ギーゼラは最初にブルノン家のブラウンシュヴァイク伯ブルーノ1世(1010年頃没)と、2度目にバーベンベルク家のシュヴァーベン公エルンスト1世(1015年没)と結婚しており、コンラートとの結婚は3度目であった。ギーゼラとの間に以下の子女をもうけた。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 菊池良生 『神聖ローマ帝国』 講談社現代新書、2003年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • 下津清太郎 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1987年
  • 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史1』 山川出版社、1997年
  • ハンス・K・シュルツェ 『西欧中世史事典Ⅲ』 ミネルヴァ書房、2013年
  • 鈴木博之 『世界遺産をもっと楽しむための西洋建築入門』 JTBパブリッシング、2013年

関連項目

外部リンク

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