アラビア語文学(アラビアごぶんがく、アラビア語: الأدب العربي、al-Adab al-ʿArabī )とは、アラビア語の文芸、及びそれらの作品や作家を研究する学問を指す。
イスラーム以前を表すジャーヒリーヤ時代から、アラブの遊牧諸部族には多くの優れた詩人が活躍した。詩人たちは慕情、旅の苦労、名誉や事績の称賛、部族間の戦い、敵への誹謗などを題材とし、優れた詩は口承によって伝えられた。
6世紀には詩人(アル=)ムハルヒルによりカスィーダ体という詩形が創られて盛況となった。押韻を強調する文体であるサジュウ体も、この時代に原型があるとされる。
のちに記録され文字となった古詩は、詩人、部族、階級などを基準にまとめられた。その中でも有名な名詩選に、七大詩人の長詩をまとめたムアッラカートやムファッダリーヤートがある。押韻の韻律は十六種類あるとされる。
イスラームの広まりにより、クルアーンはアラビア語面においても優れた聖典として読まれ、さまざまな民族がアラビア語を使うようになった。また、クルアーンを正しく読解するためにバスラやクーファではアラビア語の研究も行われた。正統カリフとウマイヤ朝の時代を通じてアラビア語圏はペルシアやエジプトにも拡大し、アフリカへと浸透する。ウマイヤ朝の時代は遊牧民時代の表現を守っていたが、アッバース朝になると都市化がすすみ、詩をはじめとして文芸のジャンルが増加した。散文の世界には諷刺的な観察眼をもつ(アル=)ジャーヒズが登場し、博物誌的な大著から『けちんぼどもの書』のような批評まで旺盛に執筆した。また、コルドバのウマイヤ朝によってイベリア半島でもアラビア語の文芸が活発になり、アンダルスと呼ばれた地域ではイブン・ザイドゥーンなどが活躍した。
アラビア語は語彙や音楽的な抑揚が韻を踏むのに適しており、早くから韻律が発達し、ジャーヒリーヤ時代からも多くを受け継いでいる。古典アラビア語詩は、数十行やときには百行を超える多数の行からなり、各行は前半と後半に分かれて対句をなす。各句は開音節と閉音節で構成され、その組み合わせで基本型が定められ、やがて応用型も生まれて発展していった。詩のジャンルには、悲歌(リサー)、諷刺詩(ヒジャー)、賞賛詩(マディーフ)、武勇詩(ハマーサ)、恋愛抒情詩(ナスィーブ)、恋愛詩(ガザル)、叙景詩(ワスフ)、酒楽詩(ハムリーヤート)などがある。
ウマイヤ朝を代表する詩人としては、メッカ生まれで恋愛詩を創造したウマル・イブン・アビー・ラビーアのほか、慕情詩で名高い(アル=)ファラズダク、諷刺詩人のジャリール、キリスト教徒のアル=アフタルの三大詩人がいる。
アッバース朝になると、当時は世界最大級の都市だったバグダードを中心に多数の詩人が活動し、アブー・ヌワース、アブー・アル=アターヒヤ、(アル=)ムタナッビーなどの大詩人が現れた。こうして生みだされる膨大な詩を編纂する者もまた多く、文人(アッ=)サアーリビーは、注目すべき詩人とその詩風を『ヤティーマト・アッ=ダフル』で紹介し、詩や会話に出てくる故事や伝説を『心の果実』にまとめた。また、アブー・アル=ファラジュ・アル=イスファハーニーは詩や歌謡、音楽にまつわる大著『歌の書』を残した。これらの文献により、10世紀までの詩や詩人たちが記録されている。
アンダルスの詩人としては、イブン・アブドラッビヒ、ワッラーダとの間に多くの相聞歌を残した宮廷詩人イブン・ザイドゥーン、諸国を放浪した詩人イブン・クズマーン、恋愛論の名著『鳩の頸飾り』を残した法学者イブン・ハズムなどが知られる。アンダルスのアラビア語文芸はヘブライ語にも影響を与え、アラビア語詩の韻律を取り入れたドゥーナシュ・ベン・ラブラートや、アラビア語を参考にしてヘブライ語の叙事詩を再興したシュムエル・イブン・ナグレーラ、『ハザールの書』でも知られるイェフダ・ハレヴィらが活動した。
アンダルスでは、古典アラビア語詩をもとにしたムワッシャハという詩形も生まれた。この名はアラビア語で「飾り輪」や「飾り帯」を指すウィシャーフに由来しており、それまで単一の韻律だった詩を連節に分解してリフレインで構成した。詩形を指すムワッシャハは、やがて音楽や舞踏をともなう表現を意味するようになり、その歌い手はキヤーンと呼ばれた。バグダードの音楽家マウスィリーに破門された歌手のズィルヤーブは、アンダルスに東方の音楽を伝え、さらに独自の音楽文化を編み出した。ウードの弦を4弦から5弦に変え、のちのリュートの原型ともなっている。
近代以降の詩人としては、アラビア語詩に影響を受けつつアメリカへ移住したハリール・ジブラーン(ハリール・ジュブラーン)、イラクで自由詩運動を唱えたナーズィク・アル=マラーイカ、パレスチナを代表する詩人マフムード・ダルウィーシュ、シリア出身でレバノンやフランスでも活動するアドニス(アドーニース)などが知られる。政治や社会に対して問題提起をする詩も多く書かれるようになった。
クルアーン読解のためのアラビア語研究によってバスラ派とクーファ派の文法学派が盛んになり、修辞学も発達して文学上の成果もあらわれる。文法学者としては、最初期の重要人物に『文法書』の著者シーバワイヒがいるほか、『格変化の概念』の著者イブン・ヒシャーム、『修辞の秘密』の著者(アル=)ジュルジャーニー、全文が詩で書かれた文法書『アルフィーヤ』の著者イブン・マーリクなどが知られている。
詩学においては、イブン・クタイバが初の詩論を展開し、アル=ハリール・イブン・アフマド・アル=ファラーヒーディーが韻律学を確立した。動物寓話『カリーラとディムナ』でも知られるイブン・ムカッファ(イブン・アル=ムカッファウ)は、『アル=アダブ』という論考でアラビア語散文の確立にも貢献した。バスラ派のもとで学んだアル=ハリーリーは、修辞の技巧を尽くして散文ジャンルであるマカーマの様式を完成させた。
出版事情を知る文献目録としては、9世紀のバグダードで書店を営んでいたイブン・(アン=)ナディームのカタログ『フィフリスト(目録書)』や、17世紀のオスマン帝国の文人キャーティプ・チェレビーの『書誌総覧』が貴重な史料とされている。
アラビア語圏が拡がり、イスラーム諸王朝のもとで交通網が整備された。またアッバース朝のバグダードでは知恵の館が建設されて古代ギリシア文献が翻訳され、天文学や地理学が発達する。こうした要因もあり、地理書や紀行が盛んになった。9世紀の地理学者としては『歴史』や『諸国誌』の著者ヤアクービーや、『諸道と諸国の書』の著者イブン・フルダーズベがいる。10世紀の『黄金の牧場と宝石の鉱山』を著した(アル=)マスウーディーは歴史家としても優れた視点を持ち、「アラブのヘロドトス」と呼ばれる。11世紀のアンダルスからは、(アル=)バクリーを輩出した。バクリーの地理書はガーナ帝国の貴重な情報を含む。
各地での見聞をまとめた紀行も生まれ、『ヴォルガ・ブルガール旅行記』を書いたイブン・ファドラーン、グラナダやシチリアを巡ったイブン・ジュバイルといった旅行家たちがいる。特にイブン・バットゥータは、法官としてインド、セイロン、アンダルス、マグリブを半生をかけてまわり、その広大な旅程の記録を『リフラ』として残した。
古くからカーッスやラーウィと呼ばれる講釈師や物語師がおり、クルアーンにまつわる物語やジャーヒリーヤ時代の説話を街頭で口演して人々を楽しませた。戦記物でもある『デルヘンマ物語』や『バイバルス物語』、『アンタラ物語』、悲恋物語の『ライラとマジュヌーン』(マジュヌーン・ライラー、ライラーとマジュヌーン、ライラーとカイス)などもレパートリーだった。
説話集としては、(アッ=)タヌーヒーが茶飲み話の形でみずからの見聞を『座談の糧』にまとめており、(アッ=)サアーリビーも『知識のラターイフ』を編んだ。(アル=)ハマザーニーは説教や説話を取り入れた散文のジャンル「マカーマ」を生み出し、マカーマは近代にいたるまでシリアやエジプトなどで創作が続いた。アンダルスでは、法学者イブン・ハズムが恋愛にまつわる逸話を集めた『鳩の頸飾り』を残している。
アラビア語圏の広がりによって『パンチャタントラ』などの各地の説話もアラビア語へと翻訳され、これらを取り入れた集大成として『千夜一夜物語』が生まれる。『千夜一夜物語』は民衆のあいだで長く伝えられ、やがてアラビア語圏を超えて広く読まれるようになった。
小説形式の先駆としては、12世紀の哲学者イブン・トファイルが著した『ヤクザーンの子ハイイの物語』があげられる。一人で島に住む人物を中心に社会、宗教、哲学を論じたもので、小説形式の哲学書だった。アラビア語による現代的な小説は、アル=ナフダ(アラビア語発音:アン=ナフダ)と呼ばれたエジプトの文芸復興運動に端を発しており、ムハンマド・フサイン・ハイカルの『ザイナブ』(1914年)が長編小説の先駆といわれる。短編小説は、ムハンマド・タイムールの『列車にて』(1917年)で形式が生まれた。
アンダルスではロマンス語のアラビア文字表記も広まり、レコンキスタの終了後は、モリスコによるアルハミヤー文学が生まれた。セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』には、物語の原文はアラブの歴史家によって書かれたという設定があり、セルバンテスが原文を解読するためにモリスコをさがすという場面がある。
散文のジャンルとして自伝や自伝小説がある。古いものとしては、哲学者(アル=)ガザーリーの『迷いから救うもの』や、地理学者(アル=)マスウーディーが学究生活を追想した『通告と訂正の書』などがある。ファーティマ朝の兵士として十字軍と戦ったウサーマ・イブン・ムンキズは、体験をもとに『回想録』を書き残した。近代エジプトには3つの自伝と呼ばれる作品があり、作家ターハー・フセインの『日々』(1929年)、ジャーナリストサラーマ・ムーサの『サラーマ・ムーサの受けし教育』(1947年)、歴史家アフマド・アミーンの『わが生涯』(1950年)である。フセインの『日々』は自伝的な内容の三人称小説で、ヨーロッパでも読まれた。
ナギーブ・マフフーズはカイロを舞台とするカイロ三部作を書き、のちにノーベル文学賞を受賞した。この他、パレスチナ解放闘争で活動したガッサーン・カナファーニー、女性の視点で多くの短編を書いたアリーファ・リファアト、トゥアレグ族の出身で砂漠を舞台とするイブラヒーム・アル=コーニーなどが知られる。
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