第一号型輸送艦(第1号型輸送艦、だいいちごうがたゆそうかん)は、日本海軍の輸送艦の艦級(クラス)。
第一号型輸送艦 | |
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第4号輸送艦(1944年6月22日) | |
基本情報 | |
種別 | 一等輸送艦 |
建造所 | 呉海軍工廠 三菱重工業横浜造船所 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
同型艦 | 21隻、未成1隻 |
計画数 | 46隻 |
建造数 | 22隻 |
要目 (特記以外は計画) | |
軽荷排水量 | 1,108.30トン |
基準排水量 | 1,500.0英トン |
公試排水量 | 1,800.00トン |
満載排水量 | 1,965.0トン、または1,965.40トン |
全長 | 96.0 m |
水線長 | 94.00 m、または93.0 m |
垂線間長 | 89.00 m |
最大幅 | 10.20 m |
水線幅 | 10.20 m |
深さ | 6.50 m |
吃水 | 公試平均:3.60 m 満載平均:3.80 m |
ボイラー | ロ号艦本式缶(空気余熱器付) 2基 |
主機 | 艦本式タービン)(高中低圧) 1基 |
推進器 | 1軸 × 400 rpm 直径2.800 m、ピッチ2.220 m |
出力 | 9,500馬力 |
速力 | 22ノット |
航続距離 | 3,700カイリ / 18ノット |
燃料 | 重油:415トン |
搭載能力 | 14 m特型運貨船(大発) 4隻(45.00トン) 大発用燃料 5.00トン 大発搭載貨物 40.00トン 補給貨物 220.00トン 合計 310.00トン(または300トン) 5トン揚貨機(蒸気D) 4基 5トン・デリック 4本、同13トン 1本 |
乗員 | 計画乗員:148名 定員:149名(1944年3月20日-) 定員:148名(1944年9月5日-) |
兵装 | 40口径12.7 cm連装高角砲 1基、砲弾200発/門 計画:25 mm機銃 3連装3基、銃弾1,200発/挺 第1号竣工時:25 mm機銃 3連装3基、連装1基、単装4基 1943年時計画:25 mm機銃 3連装3基、連装1基、単装15挺。13 mm機銃 5挺 計画:爆雷投下軌道 1条、仮称二式爆雷改二 18個 竣工後:爆雷投下軌道1条、手動投下台4基、爆雷34個(約50個) 須式75 cm四型探照灯改一 1基 |
搭載艇 | 6 mカッター2隻、13 m特型運貨船(中発)1隻 |
レーダー | 22号電探 1基 電波探知機(逆探) 1基 1945年:13号電探 1基 |
ソナー | 計画 九三式探信儀一型 1組 九三式水中聴音機二型甲小艦艇用 1組 1943年 三式探信儀 1組 四式水中聴音機 1組 |
第一号型輸送艦は、日本海軍が太平洋戦争中に開発・運用した輸送艦。昭和19年度(1944年)に完成した強行輸送艦で、一等輸送艦に分類された。
計画当初は特務艦として計画され「特務艦特型」(「特務艦(特)」)、略して「特々」と呼ばれていた。 なお、一等輸送艦に分類された艦級が他に無いため、単に一等輸送艦と呼ばれることも多い。 日本海軍の公式分類は種別「輸送艦」、等級「一等」、艦型名「第一號型」、
艦名は「第○號輸送艦」である。
日本海軍で最初にブロック工法を導入した艦型とされる。
マル戦計画(昭和19、20年度臨時軍事費予算)により46隻が計画され、呉海軍工廠と三菱重工業横浜造船所の2カ所で建造、 21隻が竣工、 横浜の1隻(第22号)が進水済みだったが未成に終わった。
太平洋戦争後半の強行輸送作戦(硫黄島や小笠原諸島方面輸送作戦、多号作戦、沖縄戦時の南西諸島方面輸送作戦など)に従事し、次々に撃沈された。 大戦中に16隻を喪失、終戦を迎えたのは5隻だけで、終戦後に1隻(第20号)が座礁沈没した。 残った4隻は復員輸送や捕鯨任務に使用後に 賠償艦として引き渡され、うち2隻は解体された。
日本海軍は太平洋戦争におけるガダルカナルの戦いやニュージョージア島の戦いなどソロモン諸島の戦いにおいて航空優勢の獲得に失敗し、敵制空権下に海上輸送を行うこととなった。
低速の輸送船は航空攻撃を受けて容易に撃退されてしまい(第二次ソロモン海戦等)、高速駆逐艦を用いた輸送(鼠輸送)では大量の物資を運ぶことができなかった。そのため、敵勢力圏下で高速大量の輸送ができる新型輸送艦の開発と配備が、各方面から求められていた。
例えば、1943年(昭和18年)3月3日のビスマルク海海戦で駆逐艦「時津風」以下護衛駆逐艦4隻・輸送船8隻を撃沈された第八艦隊は戦闘詳報の中で 『高速小型輸送船(差當リ駆逐艦巡洋艦ノ改装ニ依リ)ニ依リ輸送力強化ヲ要ス』 と訴えている。
これらの要望に応える形で、「敵制空権下で最前線に高速補給を行う」ことを主任務とする本型が登場した。また同様の経緯で、日本陸軍と共同使用を前提としたSB艇(二等輸送艦)も開発され、最前線に投入されている。
なお、ある程度の戦闘力を備えた高速小型の舟艇母艦という性格の艦艇は、第一号型輸送艦の登場以前に存在していた。日本海軍では、戦前に旧式化した駆逐艦の一部を改装し「哨戒艇(第一号型哨戒艇、第三十一号型哨戒艇)」と称していたが、その多くには太平洋戦争開始直前に再度の改装が行われ、後部にスロープが設置されて陸戦隊上陸用の大発が搭載可能となっていた。大戦中盤以降の睦月型駆逐艦や神風型駆逐艦も、艦尾をスロープ状にして大発動艇運用能力を高めた艦があった(卯月、夕凪など)。アメリカ海軍でも、旧式駆逐艦や護衛駆逐艦を改装して上陸用舟艇を搭載した高速輸送艦(APD)を建造している。
本型は1943年(昭和18年)から設計に入っている。 上記の背景により同年4月に軍令部から高速補給艦について協議があり、以下の要求が行われた。
これは丁型駆逐艦(松型駆逐艦)の主機械を1軸に減らし、空いた部分に物資を搭載することを念頭に置いた要求だった。 この計画では非常に効率が悪い艦型になってしまうため、 輸送能力を強化した新艦型を設計することになった。 本来の任務たる急速補給任務に加え、大発動艇と水陸両用戦車を搭載しての攻撃的運用も追加要求されたため、艦尾に発進のためのスロープを設けることになった。
1943年7月中旬から8月上旬にかけて打ち合わせを行って基本計画の概案が固まり、同年9月上旬(または9月29日)に艦型が決定した。 開発と建造は呉海軍工廠が主導した。 同地では海岸に本型の実物大模型を製造し、各種の試験や実験をおこなった。
基本計画番号J37。
船体はブロック建造方式を採用し、生産性も考慮されていた。 つまり、船殻構造はブロック建造に合う構造にし、電気溶接を広範囲に採用した。 艦尾スロープ部分は複雑になってしまう分、船体形状は丙型や丁型海防艦同様の簡易線図を用いた。 海軍技術研究所の大水槽での実験で巡航時、最高速時の両方に抵抗の少ない線図が得られた。 また戦訓に基づいて防水区画は大区画とし、隔壁は最小限とした。 艦尾区画は乾舷が小さいため大区画にはしなかった。 呉海軍工廠で建造された第一号型は、大和型戦艦1番艦「大和」を建造した船渠で2隻ずつまとめて建造され、船台工程約1ヶ月での完成を目指したという。
艦首の形状は呉での建造艦と三菱の建造艦で異なっていた。 呉で建造の艦は艦首側面形状が水線上(下部ナックル付近)で折れ曲がっており、 三菱で建造の艦の艦首側面形状は艦底付近まで直線となっている。
任務上、軽荷状態での復原性能も留意された。 復原性能は公試状態でレンジ87度、軽荷状態で80.7度だが、軽荷補填状態(海水補填126トン)で87.9度と計画された。 また使用鋼材節減のために船体強度が抑えられた。 船体強度の更なる検討で鋼材削減の余地はまだあった、と戦後に記述されている。
急速整備を考慮して、機関は松型駆逐艦の1軸分とした。 ボイラーはロ号艦本式ボイラー2基、蒸気圧力30 kg/cm2、蒸気温度350 ℃。 主機は艦本式タービン1基で、出力は前進9,500馬力、後進2,000馬力となった。 工事簡易化上、1軸推進は仕方の無かった面があるが、被害対策上は好ましく無かった。 短期間に半数以上が失われた(大戦後半に21隻中16隻喪失)原因の一つと推測される。
兵装も必要最小限として極力簡易化を図った。
砲熕兵装は、主砲として自衛用の40口径12.7 cm連装高角砲 1基を装備した。九七式2 m高角測距儀 1基を艦橋トップに装備した。 機銃は基本計画時で25 mm 3連装機銃 3基を装備、探照灯台両舷に機銃台を設けて各1基、煙突後方中央に機銃台を設けて1基が装備された。 第一号輸送艦竣工時には25 mm連装機銃 1基(艦橋前面に機銃台を設置)、同単装 4挺(後部上甲板上)が追加装備された。 その後に当時の戦況を考慮して25 mm単装機銃 11挺、13 mm単装機銃 5挺(第二号、第五号、第七号輸送艦)も追加装備された。1945年5月に竣工した第十九号輸送艦の場合、25 mm単装機銃 10基以上の増備が認められる。この時期の単装機銃は移動式が多く、はっきりした装備数は不明であるが、銃座のみを含めて最大28基程度の装備と思われる。
水雷兵装として爆雷投下軌道1条を装備、仮称二式爆雷18個の搭載を計画した。 こちらも後に手動投下台4基を追加、爆雷も約50個(資料によっては34個)に増やされた。 対潜装備として(水中)探信儀や水中聴音機も装備され、 輸送船団と行動を共にする場合、護衛艦としての任務も兼ねることが出来た。計画では、九三式水中探信儀と九三式水中聴音機を各1組装備し、後期艦には三式探信儀と四式水中聴音機も装備されるなど、対潜兵装は強化されている。
レーダーは、仮称二号電波探信儀二型(22号電探)1基を艦橋上の後方に架台を設けて装備、逆探1基も前部マスト上に装備された。後に、デリック・ポスト上に三式一号電波探信儀三型(13号電探)が追加装備された。
無線兵装は九七式特五号送信機1基、九二式特受信機改四2基、無線電話装置は二号話送一型1基、九二式特受改四1基、九〇式改四1基を装備した。
探照灯は須式75 cm四型探照灯改一を1基、 前後船倉の間に探照灯台を設けて装備された。 その他に20 cm信号用探照灯 1基、2 kW信号灯 1基を装備した。
発電機は135 kVA・220 Vタービン発電機 1基、55 kVAディーゼル発電機 1基を装備、その他12 kW・105 V発電機1基、0.5 kW・22 V発電機1基を装備した。
艤装も簡易化が図られた。
舵は面積6.7 m2の平衡舵1枚(舵面積比1/45)、 舵取機械は電動油圧式1基、 操舵装置はテレモーター式を装備した。
主錨は1.4 tを2丁、副錨は0.35 tを1丁、主錨鎖は⌀36×12節 (300 m) を2連装備、 揚錨機は蒸気式1基だった。
本艦型の一番の主眼として荷役設備等の艤装が設計された。 搭載量は14 m特型運貨船(大発動艇、大発)4隻(燃料を含め50トン)、補給物件260トン(船倉内220トン+大発搭載40トン)、計310トンの搭載を可能としている (大発+補給物件300トンとする資料もある)。 艦橋と缶室の間の船体に前後に2個の艙口が設けられ、船倉は合計1,025 m3の容積があった。 船倉内にはチェーン・コンベア式の揚貨装置も装備された。 荷役用に5トン・デリック4本、13トン・デリック1本、5トン蒸気式揚貨機4台を装備した。
両舷の上甲板、缶室付近から艦尾に向かってローラー付の軌道が1組ずつ設けられ、大発を左右2隻ずつ搭載、 艦尾はスロープになっており、取り外し式のブルワークが設置された。 揚陸作業の際はブルワークを取り外し、スロープから大発を発進させる。 大発を搭載しない場合、特二式内火艇(水陸両用戦車)7輌の搭載と洋上発進(自力での発進)も可能だった。
1944年8月17日、8月5日に竣工したばかりの第五号輸送艦で甲標的の発進実験が行われた。この実験で速力10ノット程度ならば甲標的の洋上発進可能と判明したため、太平洋戦争末期には甲標的2隻を搭載してフィリピン、沖縄方面の甲標的輸送に使用された。また回天は6隻が搭載可能で、実際に搭載・輸送した艦もあった。
ネームシップの第一号輸送艦は昭和18年11月5日に起工、1944年(昭和19年)2月5日、一等輸送艦・第一号型という艦種が制定。2月8日に進水、5月10日に竣工した。完成後、僅かな訓練時間を経て戦地に投入され、その作戦性格上、強行輸送に従事。二等輸送艦と共に殆どの艦が失われた。乗組員がジャイロコンパスの修理を依頼したところ、海軍工廠側から「出撃してすぐ沈むから、修理の必要なし」と言われ騒動になったこともある。 フィリピンの戦い(レイテ島の戦い)に伴う多号作戦では、第1号型輸送艦と第101号型輸送艦(SB艇)は輸送作戦の主力となって活躍したが、同作戦に参加した駆逐艦、駆潜艇、輸送船と共に多数の輸送艦が沈没した。また、敗戦時の軍部の内部文書焼却で、沈没位置や最後の様子、正確な乗員の名簿、乗員の構成すら残っていないものも多い。
戦後、特別輸送艦の指定を受けた艦は「輸第何号」と改称のうえ復員輸送や捕鯨に従事した。
第二次世界大戦後の一時期、残存艦船の一部は艦尾のスロープを利用し、船倉に冷蔵庫を増設、中部甲板に鯨油採取のためのプレスボイラーを設置し、捕鯨母船への改装が施された。そして民間の大洋漁業株式会社(マルハ旧称)と極洋捕鯨に貸し出され、小笠原近海捕鯨に従事している。第三次にわたる戦後日本最初の捕鯨活動業績は以下の通り。なお各艦は捕鯨業務中に運搬船と合流、燃料・真水・生鮮食品を受け取るかわりに鯨肉を移載しているので、下記の全頭の鯨肉を艦内に積載したわけではない。
竣工日(建造所)。戦歴と喪失原因(喪失場所)日時。もしくは戦後の様子。
建造所は三菱横浜=三菱重工業横浜造船所、呉=呉海軍工廠。
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