大発動艇(だいはつどうてい)は、1920年代中期から1930年代初期にかけて開発・採用された大日本帝国陸軍の上陸用舟艇。通称は大発(だいはつ)。また、陸軍と同型の大発を相当数運用した海軍においては、十四米特型運貨船(じゅうよんメートルとくがたうんかせん)の名称が使用されている。
基礎データ | |
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全長 | 14.8 m |
全幅 | 3.3 m |
全高 | -m |
重量 | 9.5 t |
乗員数 | 完全武装兵員70名 |
装甲・武装 | |
備考 | 航続距離170 海里/8 kt 積載量11t(自動貨車4台分) |
機動力 | |
速度 | 9 kt(16 km/h・空荷) 8kt(14 km/h・満載時) |
エンジン | ディーゼルエンジン 60 hp |
第一次世界大戦まで、上陸戦において兵員装備の揚陸にはカッターボートや艀が使用されていたが、これらは機動力や防御力に欠けていた。第一次大戦におけるガリポリ上陸作戦でこの点が懸念され、イギリス軍で世界初の近代的な上陸用舟艇であるXライターが開発された。これは装甲付きの自走艀で、揚陸作業時には艇首から道板を繰り出せるようになっており、実用的で使用実績が良好であった事から各国に近代的上陸用舟艇の価値を認識させた。
第一次大戦終戦まもない1920年代の日本においても、ガリポリ上陸作戦の戦訓および、島国であるその地理的条件、在フィリピンのアメリカ軍(極東陸軍)を仮想敵国とする大正12年帝国国防方針によって、帝国陸軍は列強各国以上に上陸戦に対して関心が特に高かった。その為、軍隊や物資の輸送を担当する陸軍運輸部が中心となり、上陸用舟艇の開発が進められることとなった。
当初は従来使用していた艀の機走化を目指したが演習での使用実績は芳しくなく、新規に兵員専用の小発動艇(小発)および汎用の大発動艇(大発)の開発に移行した。開発が始まった1924年(大正13年)に示された訓令では、大発には主に以下のような性能が要求されている。
運輸部ではこの要求に対し、まず小発を大型化したA型を開発、次いでこれに改良を加えてB型以降(C型・D型)の量産艇を設計した。
B型以降の艇では、艇首が地面に向かって二段階に倒れるように開き、これを道板(歩板、ランプ)として使用するようになっており、揚陸作業の効率化が図られている。この歩板兼用の艇首は後の各国の上陸用舟艇に見られる設計であるが、当時としては非常に画期的なものであった。そのため日本軍は大発を重要な軍事機密として扱い、検閲により報道用写真への使用が禁じられていた。しかし、日中戦争に実戦投入した際、アメリカ軍により写真撮影されてしまっており、第二次世界大戦におけるアメリカ軍主力上陸用舟艇であるLCVP(ヒギンズ・ボート)の設計に活用されることとなった。
海岸に安定して着底するとともに、容易に離岸できるよう、船首の船底はW字状に、その後ろの船底は平面に成形されている。また船体後部には小型の錨と巻き上げ機(揚錨機)が装備されている。これは着岸の直前に錨を投げ込んで海底に固着させておき、離岸の際に巻き上げ機を操作すれば錨を引っ張る反力で船体を後退させることができ、迅速に離岸できるようにした機構であった。
完成形であるD型は主力型として、第二次大戦敗戦に至るまで数千隻を量産、陸軍のみならず海軍においては十四米特型運貨船(特型運貨船)として小発(十米特型運貨船)ともども採用され、大々的に運用された。D型は量産期間が極めて長いため一部に小改良や簡易化がなされており、また臨時に武装を施したものや(武装大発)、発展型として更に大型化したものなど多数の派生型が開発・生産されている(派生型)。
搭載機関は6気筒水冷60馬力ディーゼルエンジンが主力であるが、初期にはガソリンエンジン搭載艇もあった。なお、十四米特型運貨船(海軍使用艇)には主機を灯油を燃料とする石油エンジンとしたものもある。この石油エンジンは海軍が内火艇等で使用していたものと同等のものである。
さらに帝国陸軍においては、大発等多数の上陸用舟艇を迅速かつ安全に発進させることの出来、先進的な揚陸艦(上陸用舟艇母船)を1930年代初期に開発。1934年(昭和9年)に進水した「神州丸」と、その発展型である1941年(昭和16年)進水の「あきつ丸」は舟艇格納庫内に約30隻の大発を搭載可能であり、その舟艇運用能力の高さから数々の実戦や輸送任務で活躍した。なお、「神州丸」はカタパルトを、「あきつ丸」は全通飛行甲板を用いた航空機運用能力を有しており、上陸部隊の支援攻撃を意図したこの能力から両船は強襲揚陸艦の先駆的存在でもあった。
また、大発等の上陸用舟艇とは別に、より航洋性に優れ重量物の揚陸に適したビーチング方式の戦車揚陸艦(アメリカ軍のLST)相当の揚陸艇も1930年代後半より開発されており、これは機動艇(SS艇)として実用化されている。
陸軍が本格的な上陸用舟艇や揚陸艦艇を開発・保有した背景について、当時の海軍は戦闘艦の整備に傾注し、揚陸艦といった支援・補助艦艇の開発には極めて消極的で、近代戦において進化する上陸戦のみならず遠隔地への軍隊輸送・海上護衛(船団護衛)に対して理解が無く、揚陸艦のみならず上陸用舟艇・上陸支援艇の開発・保有は必然的に陸軍が行う必要があった事に留意しなければならない。また、陸軍が海軍とは別に揚陸や輸送を目的とする独自の船舶部隊(陸軍船舶部隊)を保有する事は、日本陸軍だけでなく同時期のアメリカ陸軍でも大々的に行われていた行為である。
制式採用された大発および小発は各演習および、実戦においてその威力を発揮し活躍した。1932年(昭和7年)の第一次上海事変では、大発等を用いて上海派遣軍の第11師団を中国国民革命軍第19路軍の背後に上陸させる七了口上陸作戦を成功させ、これにより第19路軍は撤退し日中停戦の決定打となった。
戦間期は上陸戦を意識した陸海軍合同演習において、帝国陸軍船舶部隊は上述の特殊船「神州丸」等と共に錬成を行い、支那事変では大発と「神州丸」、各軍隊輸送船をもって太沽・杭州湾・バイアス湾・海南島等における各上陸作戦を成功させた。一例として、杭州湾上陸作戦では大発81隻・小発94隻・装甲艇3隻・高速艇甲4隻・高速艇乙10隻と相当数の船舶が投入されている。太平洋戦争(大東亜戦争)においても、上陸作戦が相次いだ緒戦の南方作戦において大発や「神州丸」・「あきつ丸」は活躍し、日本軍勢力圏拡大に大いに貢献した。
大発はこれら大規模な上陸作戦のみならず、将兵や物資等の一般的な揚陸任務にも威力を発揮し、またその汎用性の高さから輸送・連絡・哨戒・偵察等にも盛んに用いられた。連合軍による輸送船団攻撃によって軍隊輸送や補給に苦心したガダルカナル島の戦いでは、大発を主力とする輸送船団が臨時編成され島伝いに移動する「舟艇機動」がなされ、以降ニューギニアの戦い・フィリピン防衛戦等でも行われた(「蟻輸送」)。また、海軍では揚陸・輸送任務の他にも、装載艇(艦載艇)・補助駆潜艇・補助掃海艇としても使用していた。
北方であるアリューシャン方面の戦いにおいても大発は活躍、「奇跡の作戦」と謳われたキスカ島撤退作戦では約5,200名の同島守備隊将兵を大発のピストン輸送により、わずか55分という短時間で迅速に収容し作戦は成功している。ペリリューの戦いではパラオ本島(バベルダオブ島)から激戦中のペリリュー島への増援として、大発等を用い1個大隊(歩兵第15連隊第2大隊)の「逆上陸」を敢行。海上機動第1旅団輸送隊によって輸送・揚陸が行われ、アメリカ軍が制海権・制空権を持つ状況下で半数近い損害を出すも、大隊長以下第2大隊は同島へ逆上陸した。
1944年(昭和19年)5月10日に公開された『日本ニュース 第206号』「緬印戦線」では、ビルマ戦線にてベンガル湾に繋がるカラダン川を遡り、前線への補給任務を行う陸軍舟艇隊と船舶兵が取材されている。本映像で舟艇隊は装甲艇以下複数の大発・小発からなり、両岸はジャングルのため草木を擬装として船体に付し、敵機(スピットファイア)飛来時には煙幕を展開し回避行動・高射姿勢の九二式重機関銃や鹵獲高射機関銃等にて対空戦闘を行う姿が映されている。
戦後、日本軍および連合軍が放出(ないし流出)した一部の大発が民間において使用されている。
日中戦争での河川域における戦闘や、太平洋戦争での南太平洋を中心とした島嶼部における戦闘では、多数の小型武装艇が必要とされたため、大発の一部は臨時に武装を施され、補助砲艇として運用された。典型的な武装としては、船首に限定射界の仮設砲座を設けて四一式山砲や九四式三十七粍砲を搭載し、中央部・後部に機関銃を搭載したもの、中央部に甲板室を仮設しその上に銃座を設けたもの等があった。
1941年(昭和16年)3月には、沿岸の敵陣地の制圧を目する応用砲艇として、小型汽艇および特大発動艇に主力野戦重砲である強力な九六式十五糎榴弾砲を搭載し射撃する研究がされている。特大発動艇には底板を補強する事で容易に搭載可能かつ、射撃も平穏な海上ではおおむね実用に適し、(甲板上の余積が少なく船首前身方向に射撃出来ない汽艇と異なり)前進方向に射撃可能であることから汽艇搭載に比して特大発搭載が有利と認められている。なお、この搭載・射撃試験時の写真は数枚現存している。
武装大発は対陸上戦や上陸部隊の支援攻撃には有効であったが、その武装は対舟艇用としてはあくまで自衛の域を出ないものであり、アメリカ軍の高速重武装な哨戒魚雷艇であるPTボートとの戦闘では、機動力が低く武装も射撃範囲が狭いなどの限界があり苦戦することが多かった。帝国陸軍は小型の戦闘艇(戦闘用舟艇)として、大発の開発と平行して1920年代後期に(上陸時の舟艇護衛・支援攻撃を目的とした)本格的な砲艇である装甲艇(AB艇)を、また上陸時の偵察を目的とした高速偵察艇として高速艇甲(HB-K)を開発・運用していたが、装甲艇は重武装ながら低速力であり、高速艇甲は日本軍艦船最速を誇る高速性を持っていたが弱武装であった。そのため、舟艇護衛のための高速小型哨戒駆潜艇であった高速艇丙を元に、対魚雷艇・対潜水艦用の重武装かつ高速な駆逐艇(カロ艇)が開発・生産される事になった。
海軍は、太平洋戦争末期の拠点防衛用に、魚雷を装備させて補助魚雷艇とした「雷装大発」を投入した。窮余の策であり、戦果を挙げることも生還も困難であったと思われる。フィリピンのルソン島やミンダナオ島で配備記録がある。
海上機動用に試作された小型の戦車揚陸艦に相当する拡大型であり、新鋭主力中戦車となるべき四式中戦車 チト(チト車)等約30tの重量物を積載可能。1945年3月に九五式軽戦車と九七式中戦車を1両ずつ搭載した運行試験を行った。
以下は『試製大型発動艇試験計画』および『設計/大型発動艇 一般配置図』における諸元。
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