金沢 庄三郎(かなざわ しょうざぶろう、明治5年5月7日(1872年6月12日) - 昭和42年(1967年)6月2日)は、日本の言語学者、国語学者。本来の名前は金澤 庄三郎である。雅号は濯足(たくそく)で、その出典は屈原の詩集『楚辞』の中の「漁夫」である。
大阪生まれ、東京帝国大学卒。アジアの各言語の比較研究を行った。北海道(アイヌ語)、大韓帝国(朝鮮語)、琉球、シベリア(ロシア語)、満州(満州語、蒙古語)などでフィールドワークを行い、さらに中国語も修めた。また、國學院大學教授を務め、東京帝国大学、東京外国語学校、駒澤大学にも出講した。
日本語と朝鮮語を対象とした、「日韓両国語同系論」(1910年(明治43年))や「日鮮同祖論」(1929年(昭和4年))は、朝鮮半島併合を理論的に正当化するため、併合推進者が頻繁に引用した。
また第二次世界大戦前の代表的国語辞典のひとつ、三省堂の『辭林』(1907年(明治40年))『廣辭林』(1925年(大正14年))などの監修をつとめた。特に廣辭林は、見出し語のうち、字音語に現代仮名遣いに近い表記を採用したため、ほとんどの中学生が使用したといわれる。なお、『広辞林』第五版(1973年(昭和48年))以降の版数は、『辭林』を初版とみなしたものである。
石川遼子は、多くの著者が金沢の性格を次の様に評していると記載した。「頑固」「一徹」「梃子でも動かない」「妥協しない」「いちず」「自説を曲げない」「人にへつらわない」「清潔」「社交下手」「学問一筋」「ケチ」「人目をかまわない」など。ケチに関しては石川は文献収集のためと弁護したが、金沢は大阪弁を変えようとはしなかったという。また、植民地支配の片棒をかついで、おこぼれをもらうようなことはまず考えられないとしている。
1929年、金沢は言語学に基づき『日鮮同祖論』を刊行した。朝鮮研究の日本人の冷淡さを知っている金沢としてはそれなりの覚悟と挑戦をこめて、この書名をつけたと思われる。しかし、色々な批判に晒される。特に戦後、1963年金容しよう(当時ソウル大学校師範大学助教授)は、韓国史の研究から日鮮同祖論を批判している。日本の旗田巍も批判している。戦前、金沢は政治的な利用はまったく考えなかったが、同化政策には積極的であった。
父親は金沢源三郎、母親は(旧姓)島智恵子である。長女みち、次女さき、長男庄三郎、次男源之助であるが、庄三郎は生来虚弱であり、今でいえば小児麻痺をわずらったので、2歳下の弟が米穀商を継ぐことになっていた。しかし、父の代で倒産したが売掛金があり勉学は続けられた。庄三郎は特に母の勧めで勉学の道に進んだ。庄三郎は大西多喜と結婚したが、子をなさなかった。庄三郎の脚の不自由さは続いたが、特に大病はせず、庄三郎は96歳、妻は89歳まで生きた。父は87歳、弟は94歳で他界した。
詳しい著作目録が石川遼子の『地と民と語とは相分かつべからず 金沢庄三郎』の391ページから419ページにある。
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