遷都: 都を移すこと

遷都(せんと)は、都 (みやこ)を他所へうつす(遷す)こと、都を替えることを意味する漢字文化圏の語。日本語では古くは都遷り/都移り(みやこうつり)とも言った。反対に、かつて都であった場所に都を戻す(還す)ことは還都(かんと)と言い(cf.

関連語

新しい都は新都(しんと)、過去の都(一代前の都やそれ以前の都)は旧都(きゅうと)と言う。旧都は「古い都」を意味する古都/故都(こと)と類義ではあるが、強調点はそれぞれに異なり、前者は「過去」を、後者は「時の積み重ね」を含意する。廃された都(廃される都も同じく)、および、廃墟と化した都は、廃都(はいと)と言う。

をさだめる(める、定める)こと、都を建設することは、初であるか以前がどうであったかとは別義に、奠都(てんと)と言う。都を定めることは定都(ていと)とも言う(用例:北京定都)が、鴨長明が『方丈記』のなかで「嵯峨の御時 都定まりける(解釈:〈平安京に遷都した桓武天皇より2代後の〉嵯峨天皇治世下のこの時〈すなわち、平城還都派最後の抵抗を制圧した薬子の変の事後〉になって都は定まった。cf. #平城還都の詔)」と述べているように、法的に都が決められたり遷されたりした後も都づくりは続けられ、都として政治的に安定を見たときにようやく「都が定まる」という概念でもってこの語が用いられることもある。都を建設する、そのこと自体は建都(けんと)と言うが、「時と人が都を育んでゆく」などといった抽象的な意味を含めて「都を形づくってゆくこと」を指す場合もある(用例:平安建都1200年)。

遷都の類型

遷都や首都移転の例としては、主として以下のパターンがある。

還都の一覧

    本節における記載上の規則
    ローマ帝国のように、国によっては前身となった国家の首都も記載するが、その場合は、隅付き括弧【 】と矢印 → 、および、直前もしくは直後の1角空けによって明示する。
    ※現存する国家は現在使われている国旗を表示する。
    ※時期を示す表現として「(人物名)即位期」などとあるが、これは「その人物の即位時、もしくは、さほど間を空けないその後のいつか」という含意がある。
    ※首都は常に途切れなく存在するわけではなく、いったん滅亡した国家や首都を失った国家が数カ月後・数年後に復興するなど、首都の存在が中断している場合もある(実例:5年間滅亡状態にあった漢王朝。年が変わるまで滅亡していた晋王朝。翌年の6月まで滅亡状態にあった宋王朝)。つまり、「A市(1000-1100年) → B市(1101-1200年)」などというケースもあるので、遷都された時期に途切れがなくても「A市(1000-1100年) → B市( -1200年)」などと省略はせず、「A市(1000-1100年) → B市(1100-1200年)」と表記している。

長距離の首都移転としては、ポルトガル王国が行政首都(宮廷)をリスボンから大西洋を渡ったブラジルリオデジャネイロへ移転させた1808年の例と、その後、リオデジャネイロからリスボンに帰還した1821年の例がある(cf. #ポルトガル王国)。

紀元前11世紀以前

紀元前11世紀以前に興った著名な国家における首都の変遷。

古代ローマの歴代首都
コンスタンティノポリス東ローマ帝国時代の繁栄を描いた想像画。
ニカイアニカイア帝国の都であった頃より2世紀半後に編まれた『ニュルンベルク年代記』の木版画挿絵
メディオラヌム(現・ミラノ)/ただし、西ローマ帝国の都であった頃より11世紀後に編まれた『ニュルンベルク年代記』の木版画挿絵。
ラヴェンナ/ただし、写真の建物は15世紀頃に建造された旧ヴェネツィアーノ宮殿。

紀元前10世紀〜紀元

紀元前10世紀からキリスト紀元までに興った著名な国家における首都の変遷。

1〜4世紀

キリスト紀元から5世紀の終わりまでに興った著名な国家における首都の変遷。以下同様。

5世紀

6〜10世紀

11〜15世紀

16〜20世紀

21世紀

日本における遷都

現代の日本では、「遷都」は、「首都の移転」や「政府の場所をうつす」や「国会が開催される場所を移す」などの意味で使われることがある。ただし、日本の歴史上の「都」がそのまま、現代の「首都」と同義であるかについては議論もある。

日本遷都史

  • 飛鳥時代

古墳時代以後、『日本書紀』によれば大化元年(645年)6月、中大兄皇子らが政変を起こし、新たな政治体制が構築された(乙巳の変)。新政府は同年12月9日に難波長柄豊碕宮に遷都を行い、翌大化2年(646年)元日、孝徳天皇改新の詔を発しその第2条で「初修京師」と初めて首都を定め、難波長柄豊碕宮を日本初の首都とした。

斉明天皇元年(655年)1月、斉明天皇は難波長柄豊碕宮遷都以前の宮である板蓋宮で即位、都は飛鳥に戻った。その後、同年冬には川原宮に、翌斉明天皇2年(656年)には後飛鳥岡本宮と飛鳥の中で首都が営まれた。天智天皇は白村江の戦い敗北後の天智天皇6年(667年)、内陸部の近江大津宮に遷都を行ったが、壬申の乱の後の天武天皇元年(672年)、飛鳥浄御原宮に遷都。都は再び飛鳥に戻った。

天武天皇12年(683年)12月17日、天武天皇は「複都制の詔」を発した。まず難波長柄豊碕宮廃絶後も外交拠点として存続していた難波宮を副都とし、更に畿内信濃国に副都を設けるために使節を派遣した。しかし畿内と信濃への副都設置は実施されることなく終わった。

藤原京遷都は難産だった。『日本書紀』の藤原京遷都に関する最初の記述は天武天皇5年(676年)の「新城」建設に関するものである。その後、遷都計画は中断と再開を重ねた後、持統天皇8年(694年)12月に藤原京への遷都が行われた。

  • 奈良時代

藤原京は日本で初めて条坊を整備した画期的な都であったが、その地勢の悪さから破棄され、和銅3年(710年)3月10日、元明天皇平城京に遷都を行った。平城遷都に関しては「大宝律令」の制定を契機に、中央集権国家にふさわしい首都を建設しようとしたともされている。平城京は藤原京に続いて条坊を備えた本格的な都城として造営された。

天平12年(740年)、聖武天皇伊勢国美濃国と関東を行幸後、平城京へ帰途の途中の同年12月15日、恭仁京に遷都を行った。その後、天平16年(744年)2月26日に難波京 、更に天平17年(745年)1月には紫香楽宮へと目まぐるしく都を移転させた後、同年中に平城京へ帰還した。

延暦3年(783年)11月11日、桓武天皇長岡京遷都を行った。しかし延暦13年(794年)に6、8月と続けて水害に見舞われ同年中に平安京に都を移した。

  • 平安時代以降

延暦13年(794年)10月22日、桓武天皇は新たに平安京を都に定めた。

それから約四百年後の治承4年(1180年)6月2日、平清盛福原京遷都した。しかし福原京は短命に終わり、同年11月25日には平安京に再遷都された。その後京都は千年以上日本国の首都であり続けたが、維新政府は明治時代になって江戸を東京と改め、ここを首都とした。

日本の遷都一覧
遷都先 施行日 備考
板蓋宮 斉明天皇元年(655年)1月
川原宮 斉明天皇元年(655年)冬
後飛鳥岡本宮 斉明天皇2年(656年)
近江大津宮 天智天皇6年(667年)3月19日
飛鳥浄御原宮 天武天皇元年(672年)冬 天武天皇12年(683年)12月17日、詔により難波宮を副都とする。
藤原京 持統天皇8年(694年)12月6日
平城京 和銅3年(710年)3月10日
恭仁京 天平12年(740年)12月15日 聖武天皇「彷徨5年」の始まり。
難波京 天平16年(744年)2月26日
紫香楽宮 天平17年(745年)1月
平城京 天平17年(745年)9月11日
長岡京 延暦3年(784年)11月11日 複都制終了。
平安京 延暦13年(794年)10月28日
福原京 治承4年(1180年)6月2日
平安京 治承4年(1180年)11月25日
東京 慶応4年/明治元年(1868年)? 施行日不明。
    その他

頓挫した遷都

    • 怨霊に潰された都
      奈良時代末にあたる延暦3年(784年)、桓武天皇に従って平城京より遷都された長岡京は、全うに準備・造営された都であったが、政変に加えて氾濫疫病等の変事までもが相次いだことにより、当時の世界観では重大な政治懸案の一つであった「怨霊」から逃れるため、より実務的には「祟りの原因は天皇にが無く天子の資格が無いことにある」との評価が民衆に広まって世の乱れる元となることを怖れて、わずか9年で廃都を余儀なくされ、平安京への遷都の運びとなった。9年という期間は十分に長いとも言えるが、政治的意図は頓挫しており、変事と悪霊への怖れによって挫折に追い込まれた都市計画の代表的一例である。もっとも、天武天皇系の政権を支えてきた貴族寺院の勢力が集まる大和国から脱して未開同然の山城国に自らが属する天智天皇系の都を造るという意図は、長岡京が平安京に置き換わろうとも問題ではなく、易学的および政治的の意図から外れたとも言えないため、桓武天皇の志という意味では頓挫していない。
    • 平城還都の
      平安時代前期に当たる大同4年(810年)、時の為政者・嵯峨天皇は、藤原薬子らの介入によって平城宮に移った平城上皇と対立し、二所朝廷という憂いべき事態(最高国家権威が並立する政治情勢)に陥ったが、上皇が平城還都勅令するに及んで、その動きをいち早く押さえ込んだ。これが薬子の変の始まりであり、「平安京より遷都すべからず」との桓武天皇の勅を破って平城京への還都を画策する勢力にとっては最後の抵抗となった。
    • 受け容れられなかった都
      平安時代末期に当たる治承4年(1180年)、日宋貿易に重きを置く平氏政権が権勢を振るうなか、内陸に位置して海運を活かせない平安京から瀬戸内海に開けた福原京への遷都が平清盛によって断行されたが、院政を敷いていた高倉上皇は平安京の放棄ばかりは頑なに認めようとせず、行幸の拒絶等をもって在京の貴族と共に抵抗した。そうこうしているうちに間もなくして源氏の挙兵(反乱)があると、これを鎮めることの重要性に鑑みて清盛自らが旧都に立ち戻る。時の安徳帝内裏は須磨離宮のある神戸市須磨区に、神戸市教育委員会調べで存在するものの、強引な断行を押し進めていた清盛が病死した事によって一年を迎えず平安京へ還都。半ば頓挫という結果に終わった。

脚注

注釈

出典

関連項目

    都の種類
    都と歴史

外部リンク

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遷都 関連語遷都 の類型遷都 還都の一覧遷都 日本における遷都 頓挫した遷都 脚注遷都 関連項目遷都 外部リンク遷都wikt:遷wikt:還同義語日本語漢字文化圏現代 (時代区分)首都首都機能移転

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