第2師団(だいにしだん)は、大日本帝国陸軍の師団のひとつ。1888年(明治21年)5月14日に仙台鎮台を改編して宮城県仙台区(翌年より仙台市)に設立された。1945年(昭和20年)の陸軍解体まで、日本の主要な戦争に参加した。
第2師団 | |
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創設 | 1888年(明治21年)5月14日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵科 | 歩兵 |
所在地 | 仙台-満州-北支-ソロモン諸島-マレー半島-ビルマ |
編成地 | 仙台 |
通称号/略称 | 勇 |
愛称 | 夜襲の仙台師団 |
補充担任 | 第2師管・仙台師管・仙台師管区 |
最終上級単位 | 第38軍 |
最終位置 | サイゴン |
主な戦歴 | 日清-日露-満洲事変-日中戦争-ガダルカナル-ビルマ |
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初代師団長は最後の仙台鎮台司令官佐久間左馬太。仙台の歩兵第4連隊、青森の歩兵第5連隊、新潟県新発田の歩兵第16連隊、仙台の歩兵第17連隊の4個歩兵連隊を基幹とし、野砲兵第2連隊、騎兵第2大隊、工兵第2大隊、輜重兵第2大隊などで構成された。
第2師団の管轄範囲、すなわち第2師管は、東北地方と新潟県、北海道だったが、北海道で徴兵を実施したのは函館・江差・福山に限られた。
日清戦争直後の1896年(明治29年)に決定をみた軍備増強計画により、北海道に第7師団、弘前に第8師団が置かれることになり、第2師管は福島県、新潟県、宮城県の登米郡・本吉郡・栗原郡を除く中部以南に縮小した。
これにともない、青森の歩兵第5連隊は1897年(明治30年)10月に第8師団に所属変更した。歩兵第17連隊は1898年(明治31年)に仙台から秋田に移って第8師団の隷下に入り、連隊営の跡地には新設の歩兵第29連隊が置かれた。また、新潟県新津にも新設の歩兵第30連隊が置かれた。騎兵第2大隊は騎兵第2連隊に拡充した。第4連隊と第29連隊は歩兵第3旅団、第16連隊と第30連隊は歩兵第15旅団に属し、師団はこの2個旅団のほかに騎兵第2連隊、野戦砲兵第2連隊、それに第2工兵大隊、第2輜重兵大隊、佐渡の警備隊で構成された。
日露戦争の後、1907年に、第13師団が新潟県の高田に置かれることになった。これにともなって歩兵第16連隊と同第30連隊は第13師団に移管した。第2師団には新設の歩兵第65連隊が加わり、第8師団から譲られた歩兵第32連隊が秋田から山形に移った。このうち第29連隊と第65連隊が第3歩兵旅団に、第4連隊と第16連隊が第15歩兵旅団に属した。師団にはこの2個旅団のほかに、騎兵第2連隊、野砲兵第2連隊、山砲兵第1大隊、第2工兵大隊、第2輜重兵大隊が属した。
第2師管は新潟県を第13師管に譲り、替わりに山形県と宮城県北部を第8師管から譲られて、宮城・山形・福島3県となった。
第13師団が1925年の宇垣軍縮で廃止されると、第2師団は、歩兵第16連隊と同30連隊を取り戻し、同32連隊を山形に置いたまま第8師団に返した。歩兵第65連隊は廃止になった。第4連隊と第29連隊は第3歩兵旅団に、第16連隊と第30連隊は第15歩兵旅団に属した。師団はこの2個旅団のほかに、騎兵第2連隊、野砲兵第2連隊、それに工兵第2大隊、輜重兵第2大隊、それに新潟県高田に置かれた独立第1山砲兵連隊を擁した。
第2師管は新潟県をあわせ、山形県を第8師管に返し、宮城・福島・新潟3県となった。
日清戦争の威海衛攻略に参加。続いて、講和条約で日本に割譲された台湾で起きた抵抗の鎮圧にあたった。
日露戦争では黒木為楨率いる第1軍隷下で九連城攻撃・遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦に参加した。遼陽会戦では弓張嶺の夜襲と呼ばれる師団規模の夜襲を敢行、(ただし、これは師団長の独断で行われた作戦で、命令違反だった。)以後、「夜襲の仙台師団」の異名を取った。
1910年(明治43年)4月8日、師団司令部は韓国駐箚のため仙台を経ち、同日、師団司令部留守部を設置。1912年(明治45年)4月24日、師団司令部が朝鮮より仙台に帰着し留守部を閉鎖。1918年8月22日、兵器部が師団司令部内に移転し事務を開始。
1931年(昭和6年)からは満洲に駐屯し、以後満洲事変・盧溝橋事件に参戦し、日中戦争ではチャハル作戦・徐州会戦にあたる。太平洋戦争では南方に投入され、緒戦は蘭印で快勝するがガダルカナルでは7000名を越す損害を出す。その後マレー・シンガポール方面の警備を担当、1944年(昭和19年)からはビルマ戦線に参戦した。
師団司令部は仙台市川内(かわうち)の旧仙台城二の丸(現東北大学川内キャンパス)に、射撃場は仙台市台原(旧警察学校~台原小学校)に設置された。
仙台鎮台時代の司令部は二の丸の殿舎であったが、1882年(明治15年)に花火事故で焼失したため、1884年(明治17年)に木造2階の建物を新築した。瓦葺で漆喰の白い壁、正面玄関に柱を立てたポーチを設け、三角の破風を持つルネサンス風の和洋折衷建築であった。これが師団司令部にも引き継がれたが、1945年(昭和20年)7月10日の仙台空襲で失われた。
創設の半年前にあたる1887年(明治20年)12月15日、日本鉄道第三区線(現JR東北本線)の仙台駅や塩竈駅(後の塩釜線・塩釜港駅)が開業し、仙台区(現仙台市)は外港である塩釜港、あるいは、東京府(現東京都)と鉄道で結ばれ、出兵の際の輸送路が確保された。日清戦争では、仙台駅の南に長町停車場を仮に設け、そこから将兵を送り出した。
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