清水郁太郎: 日本の医学者、産婦人科医

清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日(1857年11月29日) - 明治18年2月26日(1885年))は、日本の医学者、産婦人科医。医学博士第1号。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。広島県吉津村(現・福山市)生まれ。

来歴・人物

慶応元年(1865年)、藩校誠之館(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学、早くからその穎才を認められ明治2年(1869年)には、全国各藩の俊才数十名が選抜された東京遊学に、16歳から20歳という年齢制限が有るにもかかわらず12歳にして選ばれる。

明治4年(1871年)、大学南校(現・東京大学)入学、独学を専攻。翌明治5年(1872年)、大学東校(現・東京大学医学部)に転入。大学東校は第一大学医学校、東京医学校、明治10年(1877年)には東京大学医学部と名称を変え新発足したが、郁太郎はその本科1回生を首席で卒業し、現在の医学博士に相当する医学士の称号を受ける。

また文部省はこの時、卒業生の中で特に成績優秀なものをドイツの大学に留学させ、将来傭外人教授に代わらせることを企図し、郁太郎はこれに選ばれ他2名と明治11年(1879年)渡欧した。ドイツではベルリン大学ウィーン大学で当時最も高名な多くの教授に学び、婦人科学のみならず医学各科の基礎、臨床学習に励み3年後の明治16年(1883年)帰国。外人教授に代わり産婦人科外来の診察、及び臨床講義を実施。翌明治17年(1884年)、日本人初の東大教授に任ぜられた(28歳)。清水は初代の東京大学医学部産婦人科学教授であり、したがって日本最初の産科学婦人科学担当大学教授に当たる。

当時まだ漢方医学の影響が強かった産婦人科にあって臨床診療中心のドイツ産婦人科学を導入、診療講義、臨床講義、産科模型実習等のほか、病室および教場の整備を行う。また穿頭術、卵巣嚢腫に対する手術も敢行。共に当時は驚異とされていたものであった。他に漆塗子宮鏡ペッサリーを発明し、ロンドンへ出品する等、日本のドイツ流医学新体制実現へ心血を注いだが病に倒れた。明治18年(1885年)、肺結核により29歳で死去、在職はわずか8ヶ月であった。

参考文献・ウェブサイト

関連項目

外部リンク

Tags:

清水郁太郎 来歴・人物清水郁太郎 参考文献・ウェブサイト清水郁太郎 関連項目清水郁太郎 外部リンク清水郁太郎10月13日 (旧暦)11月29日1857年1885年2月26日医学医学博士安政広島県明治東京大学産婦人科学福山市

🔥 Trending searches on Wiki 日本語:

天海祐希木村拓哉高橋和也わたしの幸せな結婚もういっぽん!SEVENTEEN (音楽グループ)らんまんクリスティーナ・リッチゆり香神戸連続児童殺傷事件東京ヤクルトスワローズ65/シックスティ・ファイブYes!プリキュア5ロサンゼルス・ドジャースメジャー (アニメ)水卜田中希実THE TIME,大川隆法井川遥小保方晴子ペルソナの密告 3つの顔をもつ容疑者日本調教馬の日本国外への遠征女子高生コンクリート詰め殺人事件子安武人和田アキ子衛藤美彩小澤征悦すとぷり安重根ハメス・ロドリゲス札幌ドーム岩田明子 (ジャーナリスト)東日本大震災シルヴェスター・スタローン豊臣秀吉菅谷梨沙子SSSS.GRIDMAN第一次世界大戦油彩菊地姫奈宮城大弥とよ田みのる坂田藤十郎 (4代目)半分、青い。進撃の巨人東レ湯浅京己内閣総理大臣の一覧霧島一博松岡禎丞戸谷菊之介野呂佳代森下翔太BABYMETALポール・ゴールドシュミット佐々木朗希ぽかぽかジャニーズ事務所筒香嘉智川島海荷仮面ライダー山村健吉岡里帆山本徳郁文化庁横山裕東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件鎌倉殿の13人女王の教室平野紫耀成田昭次めざましテレビ菅野智之平野レミダ・カーポしませんか?🡆 More