榎(えのき)は日本海軍の駆逐艦。仮称4812号艦、橘型(改松型)駆逐艦として舞鶴海軍工廠で建造された。
艦歴 | |
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計画 | 1944年(昭和19年)度計画 |
建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
起工 | 1944年10月14日 |
進水 | 1945年1月27日 |
竣工 | 1945年3月31日 |
除籍 | 1945年9月30日 |
その後 | 1951年頃解体 |
要目(計画値) | |
排水量 | 基準:1,262トン 公試:1,530トン |
全長 | 100.00m |
全幅 | 9.35m |
吃水 | 3.30m |
主缶 | ロ号艦本式缶2基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 19,000馬力 |
速力 | 27.8ノット |
航続距離 | 18ノットで3,500海里 |
燃料 | 重油370トン |
乗員 | 211名/335名 |
兵装 | 40口径12.7cm単装高角砲 1基 40口径12.7cm連装高角砲 1基 25mm連装機銃 4基 25mm単装機銃 12基 61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし) 九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発) 四式水中聴音機 |
竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。4月8日に瀬戸内海西部に回航し訓練に従事する。やがて、第十一水雷戦隊は瀬戸内海への機雷投下を避けて日本海側に移動することとなる。5月27日に舞鶴に到着するも、舞鶴鎮守府から「空襲の際に刺激となる」との理由で、舞鶴以外の場所へ移動するよう要請を受ける。そこで、6月に入って小浜湾に移動することとなった。
6月26日昼過ぎ、小浜湾内の錨地に入泊した際に触雷する。小浜灯台の310度750メートル地点に曳航され、右に32度傾いた状態かつ艦尾を着底させ、艦橋の一部を水面に露出した状態で擱座した。生存者のうち負傷者は福井県立小浜中学校に収容された。榎はそのまま終戦を迎え、9月30日に駆逐艦籍から除籍された。
運輸省海運総局の資料によれば1948年(昭和23年)6月から7月1日に三菱七尾造船所で解体されたとされている。しかし実際には榎の船体はその後も解体される事なく小浜湾に残されたままとなっており、1951年(昭和26年)4月になって折からの朝鮮特需に乗ずる形で飯野産業(旧・舞鶴海軍工廠)サルベージ部門による浮揚作業が始められたとされる。同作業は8月10日頃まで行われ、その後榎は飯野産業舞鶴造船所で解体されたとみられる。
1981年6月26日遺族や生存者らにより慰霊碑が、擱坐地点を見下ろす遊歩道脇に建立された。碑文は以下のとおり。
第十一水雷戦隊駆逐艦榎此地に於て終焉す
太平洋戦争の戦局急を告ぐる昭和二十年六月二十六日米軍機の投下せる機雷に触雷 艦後部を大破浸水戦闘機能を喪失しあまた尊き殉國の友を失う 痛恨極まりなし爾来三十有余年 我々元乗組員一同相諮り慰霊碑の建設を企画せり願わくば此小碑が 駆逐艦榎 最後の地を記念し更には散華せる戦友の鎮魂の礎石として又我国の平和と繁栄を希求し萬世に亘り風光明媚な此地小浜湾の波静かならん事を願って此碑を建立す
昭和五十六年六月二十六日
※『艦長たちの軍艦史』371頁による。
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