柳 さく子または柳 咲子。(やなぎ さくこ、1902年11月3日 - 1963年3月20日)は、日本の女優。本名(出生名)は畔柳(くろやなぎ) 千代子。
やなぎ さくこ 柳 さく子 | |
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1920年代 | |
本名 | 畔柳 千代子 |
別名義 | 市川 左久江、柳 咲子 |
生年月日 | 1902年11月3日 |
没年月日 | 1963年3月20日(60歳没) |
出生地 | 日本 東京市浅草区二長町(現・東京都台東区台東) |
死没地 | 日本 京都府京都市 |
職業 | 女優 |
ジャンル | 劇映画(時代劇・現代劇、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1922年 - 1942年頃、1959年 - 1960年 |
主な作品 | |
『女と海賊』 『大尉の娘』 『お伝地獄』 『十六夜清心』 |
1920年代に、松竹映画の数多くの作品でヒロインをつとめた。
畔柳(くろやなぎ) 千代子として、東京市浅草区二長町(現・東京都台東区台東一丁目)に生まれる。生後間もなく実父を失い、実母も千代子が5歳の時に死去。孤児となった千代子は、同区芝崎町に住む叔母夫婦に引き取られることになった。養父は昔気質で腕のいい袋物師だったが、世渡りが下手で生活は苦しかった。だが、子供の無かった養父母は千代子を大変可愛がり、幼時から常盤津・長唄・日本舞踊などの芸事を教え込む。これらの芸が、その後の千代子の身を助けることになった。
10歳の時、家計を助けるために、地元の劇場「アウル館」を拠点にしていた一座「少女歌舞伎」に入る。この一座は後に横浜へ拠点を移すが、千代子は座長で高名な三味線師でもあった竹澤龍造に認められ、「市川左久江」の芸名を名乗り看板女優として活躍する。1921年頃、「少女歌舞伎」が解散。
生活の糧を求めた千代子は、地元浅草で映画俳優の斡旋をしていた山田という女性の紹介で、国活映画の『涙の親子』にエキストラとして出演する。さらに1922年1月、山田の夫が勤めていた松竹蒲田撮影所に大部屋女優として入社し、本格的に映画女優の道へと踏み出すことになった。
入社早々、池田義臣(のち義信)監督に見出され、同監督の『不如帰』(1922年3月公開)で、主演の栗島すみ子演じる浪子の恋敵・豊子の大役に抜擢される。芸名も「市川左久江」から「柳さく子」となり、映画女優として幸運なスタートを切る。
当時栗島・川田芳子・五月信子の3人がトップ女優として君臨し、さく子はこの3人に次ぐ若手女優として、梅村蓉子・英百合子・東栄子とともに期待された。以後は栗島主演の『母の心』、『祇園夜話』、『想夫憐』(1922年)、『船頭小唄』、『死に行く妻』(1923年)、川田主演の『夫として妻として』、『清水次郎長』(1922年)、五月主演の『剃刀』(1923年)などの作品に助演。
さく子は、非常に小柄(身長140cm台前半)で愛らしい顔立ちの持ち主ながら、どこか芯の強さを感じさせるキャラクターと、舞台で鍛えた堅実な演技力で頭角をあらわし、1歳下の梅村とともに、次第にトップ3に迫る人気を集めるようになる。
1923年4月、野村芳亭監督(当時蒲田撮影所所長も兼務していた)の『なすな恋』で栗島すみ子と共演。栗島とともに清元「保名」を踊り、特技の日本舞踊の腕前を披露する。同年7月の野村監督『女と海賊』では、川田芳子とともに主演の勝見庸太郎の相手役をつとめる。伊藤大輔が脚本を手がけ、剣戟映画の草分けとして知られる同作品はヒットし、さく子は一躍大スターの地位に上り詰めた。
それから間もなくして起こった関東大震災により、蒲田撮影所は京都の下加茂に一時移転する。この頃から主演級に抜擢され、『山中小唄』、『南の漁村』などの作品でヒロインをつとめる。翌1924年1月に撮影所が蒲田に戻ると、恒例の昇格式で梅村蓉子とともに幹部に昇格する。
名実ともにスター女優となったさく子は、『はたちの頃・第一話』、『感じの好い映画集 《猫》』、『踊りの夜』などに主演した後、菊池寛原作で新派の当たり狂言であった『大尉の娘』(野村芳亭監督)で藤野秀夫とコンビで主演する。また、この頃から撮影所内外で、野村との親密な関係が噂される様になる。
1924年9月、野村が下加茂撮影所(当時蒲田の現代劇に対し、時代劇を製作していた)の所長に異動すると、さく子も河村黎吉・志賀靖郎・小川国松・双葉くみ子などの俳優、大久保忠素・清水宏などの監督とともに行動を共にする。
下加茂では看板女優として、いずれも野村監督の『元禄女』、『雷お新』、『城木屋お駒』、『三日月お六』前後編、『お伝地獄』前中後編、『復活』(トルストイの同名作品の翻案)や、清水監督の『恋より舞台』などに主演し、特に『お伝地獄』の演技は高い評価を受けた。だが興行面では全体的に伸び悩み、結果として撮影所は1925年6月に一時閉鎖となる(翌年再開)。スタッフ・俳優は全員蒲田に引き上げることとなった。
蒲田に戻ったさく子は、女優活動を一時休業していたが、1925年10月に重宗務監督の時代劇『村正小町』で復帰。当時の蒲田では、監督と俳優を組み合わせて、グループ別の編成を行っていたが、さく子は重宗とともに「時代劇竹班」の所属となり、以後1930年までの6年間に、『上野の鐘』(1925年)、『お初吉之助』、『八百屋お七』、『妖婦五人女 第一篇 弁天おさく』(1926年)、『艶魔』、『狂恋のマリア』(1927年)、『さらば故郷よ』(1928年)、『都鳥』、『浪花小唄』(1929年)、『新編 愛恋序曲』、『黎明の世界』(1930年)など、実に22本の重宗監督の時代劇・現代劇作品で主演をつとめることになった。この間重宗作品以外では、野村芳亭監督の大作『白虎隊』、清水宏監督の現代劇『幼なじみ』、五所平之助監督の『夜ひらく』などに出演している。
以上のように、柳さく子は時代劇で長期に渡って主演をつとめて来たが、これは男優の主演が相場となっている時代劇においては非常に稀有なケースと言える。当時の映画ジャーナリズムでも、さく子を阪東妻三郎と並ぶ集客力のある時代劇スターとして評価する意見もあり、全盛期の人気のほどを伺うことができる。1929年には、舞踊の名手であった彼女の記録映画『柳さく子十八番舞踊集』が製作されているが、これも映画女優としては異例のことであった。
同じ1929年、松竹に新しく大幹部制が敷かれると、さく子は井上正夫、岩田祐吉、藤野秀夫、川田芳子、栗島すみ子とともに、大幹部に推された。
1931年、松竹下加茂撮影所に移籍。以後は男性スターの相手役が増え、同年の犬塚稔監督『十六夜清心』では林長二郎の清心に対し十六夜、続く尾上栄五郎入社第一作『馬頭の銭』前後編ではおさやとお作の二役、長二郎主演の『投げ節弥之助』前後編では、飯塚敏子演じる妹に恋を譲る姉お千代を演じた。1932年に入ると、坂東好太郎の入社第一作『世直し大明神』で好太郎扮する吉五郎の情婦お波を演じ、続く犬塚稔監督『怪談 ゆうなぎ草紙』では、主役を演じた。
翌1933年には市川右太衛門プロダクションに招かれ、『いざよひ帳』で右太衛門の相手役小菊を演じるが、この頃から新人飯塚敏子の台頭などもあり、脇に回る機会が多くなる。衣笠貞之助監督『忠臣蔵』前後編(1932年)では戸田局(川崎弘子が演じた瑤泉院の侍女)を演じ、『鈴木新内』(1935年)では飯塚、『鳥辺心中 お染半九郎』(1936年)では長二郎のそれぞれ母親役を演じた。以後は『新版六花撰』(1936年)などの主演作はあるものの、中年役・老け役が中心となり、長二郎主演『番町皿屋敷』(1937年)、坂東好太郎主演『流転』前後編(1937年)、『尊王祇園会』(1938年)、『美女桜』前後編(1940年)、高田浩吉主演『初姿お神楽半次』(1938年)、『月夜鴉』、『股旅八景 三ツ角段平』(1939年)、川浪良太郎主演『夢の市郎兵衛』(1939年)などに出演した。
1942年、太平洋戦争の激化による製作数減少のため松竹を退社。以後は、川浪良太郎・伏見信子・深水藤子らとともに、「新大衆劇団」を結成し、各地で巡演を行った。
戦後は健康を害して映画界復帰の機会を失い、経済的にも困窮する。京都府下の施療院(慈善病院)に入院していた1956年、彼女の窮状を知った地元京都の映画人有志によって「救済世話人会」が結成され、彼らの尽力により、さく子は余生を養老院で過ごす事になった。身寄りもなく病気がちの彼女は、晩年生活保護を受ける境遇であったと言われるが、一方で下加茂撮影所のOB会「下賀茂会」に招かれて昔の映画仲間と旧交を温めたり、古巣松竹の作品に脇役・エキストラとして顔を見せることもあった(人物・エピソード欄も参照)。
1963年3月20日、肺水腫で死去。享年60(満年齢)。天涯孤独のさく子は、無縁仏となるところを、偶然その死を伝え聞いた下加茂時代の俳優仲間・武井龍三の斡旋により、武井の菩提寺で京都・鷹ヶ峰にある吟松寺に葬られた。戒名は「映月妙香禅定尼」。翌1964年11月に武井も亡くなり、2人の墓は背中合わせに立っている。
没後9年経った1972年9月、活動弁士で映画サークル「無声映画鑑賞会」会長・松田春翠(マツダ映画社創業者)らが発起人となり、墓標の代わりとして「柳咲子地蔵尊」が建立された。その開眼供養御前祭には、デビュー作『不如帰』で共演した栗島すみ子らも参列した。地蔵尊の碑文には、彼女の一生が次のように記されている。
柳咲子は、大正の末から昭和の初めへかけての、無声映画の最盛期に、松竹キネマのスターとして銀幕上に活躍しました。小柄な容姿と明眸(めいぼう。美しく澄んだ瞳の意)の持ち主で多くの時代劇、現代劇で純情型ヒロインを演じ、ファンを魅了しましたが、引退後、病んで身寄りなく、昭和三十八年三月二十日その生涯を京都で閉じました。六十二歳、不遇と孤独の晩年でした
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