明神 智和(みょうじん ともかず、1978年1月24日 - )は、兵庫県神戸市出身の元プロサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。元サッカー日本代表。
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名前 | ||||||
カタカナ | ミョウジン トモカズ | |||||
ラテン文字 | MYOJIN Tomokazu | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1978年1月24日(46歳) | |||||
出身地 | 兵庫県神戸市 | |||||
身長 | 174cm | |||||
体重 | 70kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1993-1995 | 柏レイソルユース | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1996-2005 | 柏レイソル | 252 | (12) | |||
2006-2015 | ガンバ大阪 | 250 | (14) | |||
2016 | 名古屋グランパス | 15 | (0) | |||
2017-2019 | AC長野パルセイロ | 38 | (0) | |||
代表歴2 | ||||||
2000 | 日本 U-20 | |||||
2000 | 日本 U-23 | |||||
2000-2003 | 日本 | 26 | (3) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2019年12月21日現在。 2. 2002年6月18日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
2歳年上の兄の影響で小学2年生の頃から、地元神戸市の木津SCでサッカーを始める。小学5年時に兵庫県から千葉県に引越し、イーグルスユナイテッドFCに編入。ジュニアユースチームでもプレーした。
イーグルスユナイテッドFCから柏レイソルユースを経て、1996年に柏レイソルへ入団。1997年にはFIFAワールドユース選手権中盤の主力として活躍を見せるとともに、長らくキャプテンを務め、1999年にはクラブ初タイトルとなるナビスコカップ優勝に貢献。2000年にはクラブ初のJリーグベストイレブンを受賞した。
2000年、当時のU-23兼日本代表監督であったフィリップ・トルシエの高い評価を受け、U-23代表、及びA代表に選出された。U-23では主にディフェンシブハーフとして、A代表では主に右サイドで起用されると、シドニーオリンピックでのベスト8進出や、アジアカップでは2得点を挙げ、日本代表のアジア制覇に貢献。堅実で勤勉なプレースタイルから、トルシエは「完璧なチームとは、8人の明神と3人のクレイジーな選手で構成される」と、組織的な日本のチームにおいて不可欠な選手であると絶賛した。 以後、トルシエジャパンのレギュラーの座を獲得、2002 FIFAワールドカップでも3試合に出場し、日本代表初の決勝トーナメント進出に貢献した。2003年には、山本昌邦監督率いるU-22日本代表のテストマッチに(アテネオリンピックのオーバーエイジ枠を見据えて)出場したが、本大会には選出されなかった。
2006年、柏のJ2降格に伴い、かつて柏を率いていた西野朗が監督を務めるガンバ大阪に加地亮、播戸竜二、マグノ・アウベス、ガンバユースから平井将生、安田理大、横谷繁らと共に移籍加入した。 その後、遠藤保仁、二川孝広、橋本英郎らと共に黄金の中盤と称されながらガンバ攻撃陣の中軸を担い、多くのタイトル獲得に貢献。2009年には当時の鹿島アントラーズ監督オズワルド・オリヴェイラからJリーグ選抜に選出され、韓国・Kリーグ選抜とのオールスターゲームJOMO CUPに出場。また、同年度の日刊スポーツ提供「黄金の脚賞」を受賞し、天皇杯決勝の名古屋グランパスエイト戦では豊富な運動量でチャンスを演出し、チームの天皇杯連覇に貢献。
2010年からは前年に松代直樹が現役引退したことで、チーム最年長選手となり、松代から主将を引き継いだ。2011年10月2日Jリーグ第28節・ガンバ大阪創立20周年記念試合において、サポーターが選ぶガンバ大阪歴代ベストイレブンに輝き、またガンバの公式応援番組『GAMBA TV〜青と黒〜』の年末特別企画『GAMBA TV アウォーズ』において、影のMVPにも選出された。
2012年、リーグ戦にて伊東輝悦、山田暢久、楢﨑正剛に続き史上4人目となるJ1通算450試合出場を達成した。1年通して大きな怪我もなく出場したが、チームは極度の不振に陥りJ2へ降格した。
2013年、チーム主将を遠藤保仁に譲った。自身初のJ2でのプレーとなったこの年、開幕当初こそスタメンで起用されたものの、怪我と若手の台頭で徐々に出場機会を減らし、シーズン終盤は右膝靭帯損傷で長期離脱となってしまった。それでも代表の遠藤・今野が不在となったFIFAコンフェデレーションズカップ期間中はチーム最年長としてチームを牽引し、無敗でリーグ戦を折り返した。その後も経験値を活かしながら要所で活躍。出場は天皇杯を含め21試合に留まったがクラブのJ2優勝、J1昇格に貢献した。
2014年、リーグ戦の出場はG大阪移籍後では最も少ない12試合に留まったが、ヤマザキナビスコカップ5試合、天皇杯4試合に出場し、試合前などチームを引き締める姿勢は指揮官の長谷川健太から絶大な信頼を寄せられた。この年、ガンバは昇格1年目にして国内三冠を達成し、自身にとってはプロ入り19年目にして初のリーグ優勝となった。
2015年シーズン終盤、G大阪から契約を更新しないことを通知されコーチ就任を打診されたが、現役続行を決断。2016年1月6日、名古屋グランパスへの完全移籍が発表された。名古屋ではリーグ戦15試合に止まり、2016年シーズン終了後に契約満了により退団。
2017年よりAC長野パルセイロへ完全移籍により加入した。
2019年シーズン限りで引退を発表。
2020年より古巣であるガンバ大阪のジュニアユースコーチに就任する事が発表された。
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1996 | 柏 | - | J | 11 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 13 | 0 |
1997 | 17 | 13 | 1 | 6 | 0 | 1 | 0 | 20 | 1 | ||
1998 | 28 | 0 | 4 | 1 | 2 | 0 | 34 | 1 | |||
1999 | J1 | 30 | 1 | 4 | 0 | 3 | 0 | 37 | 1 | ||
2000 | 7 | 29 | 2 | 2 | 0 | 2 | 0 | 33 | 2 | ||
2001 | 29 | 0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 34 | 0 | |||
2002 | 27 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 28 | 1 | |||
2003 | 29 | 1 | 4 | 0 | 2 | 1 | 35 | 2 | |||
2004 | 28 | 5 | 6 | 0 | 0 | 0 | 34 | 5 | |||
2005 | 28 | 1 | 4 | 0 | 1 | 0 | 33 | 1 | |||
2006 | G大阪 | 17 | 25 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 | 32 | 0 | |
2007 | 33 | 2 | 10 | 0 | 2 | 0 | 45 | 2 | |||
2008 | 32 | 3 | 4 | 0 | 5 | 0 | 41 | 3 | |||
2009 | 31 | 2 | 2 | 1 | 5 | 2 | 38 | 5 | |||
2010 | 29 | 4 | 1 | 0 | 3 | 0 | 33 | 4 | |||
2011 | 27 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 28 | 2 | |||
2012 | 31 | 1 | 2 | 0 | 5 | 1 | 38 | 2 | |||
2013 | J2 | 20 | 0 | - | 1 | 0 | 21 | 0 | |||
2014 | J1 | 12 | 0 | 5 | 0 | 4 | 0 | 21 | 0 | ||
2015 | 10 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 14 | 0 | |||
2016 | 名古屋 | 15 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 18 | 0 | ||
2017 | 長野 | J3 | 16 | 0 | - | 1 | 0 | 17 | 0 | ||
2018 | 14 | 0 | - | 0 | 0 | 14 | 0 | ||||
2019 | 8 | 0 | - | 2 | 0 | 10 | 0 | ||||
通算 | 日本 | J1 | 497 | 26 | 69 | 2 | 43 | 4 | 609 | 32 | |
日本 | J2 | 20 | 0 | - | 1 | 0 | 21 | 0 | |||
日本 | J3 | 38 | 0 | - | 3 | 0 | 41 | 0 | |||
総通算 | 555 | 26 | 69 | 2 | 47 | 3 | 671 | 32 |
その他の公式戦
国際大会個人成績 | FIFA | |||||
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年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
AFC | ACL | クラブW杯 | ||||
2006 | G大阪 | 17 | 3 | 0 | - | |
2008 | 11 | 1 | 3 | 0 | ||
2009 | 5 | 0 | - | |||
2010 | 6 | 0 | - | |||
2011 | 5 | 0 | - | |||
2012 | 5 | 0 | - | |||
2015 | 4 | 0 | - | |||
通算 | AFC | 39 | 1 | 3 | 0 |
その他の国際公式戦
日本代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
2000 | 9 | 2 |
2001 | 7 | 0 |
2002 | 10 | 1 |
2003 | 0 | 0 |
通算 | 26 | 3 |
# | 開催年月日 | 開催地 | スタジアム | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
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1. | 2000年10月24日 | ベイルート | カミール・シャムーン・スポーツ・シティ・スタジアム | イラク | ○4-1 | AFCアジアカップ2000 |
2. | 2000年10月26日 | 中国 | ○3-2 | |||
3. | 2002年 | 4月17日横浜 | 横浜国際総合競技場 | コスタリカ | △1-1 | キリンチャレンジカップ2002 |
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