彦主人王(ひこうしのおう/ひこうしのおおきみ、生没年不詳)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
彦主人王 | |
---|---|
配偶者 | 振媛 |
子女 | 継体天皇 |
父親 | 乎非王 |
母親 | 久留比売命 |
『上宮記』逸文に基づく系図(抜粋)
伊久牟尼利比古大王 (11 垂仁天皇) | |||||||||||||
伊波都久和希 (磐衝別命) | |||||||||||||
伊波智和希 (磐城別) | |||||||||||||
凡牟都和希王 (15 応神天皇) | 伊波己里和気 | ||||||||||||
若野毛二俣王 | 麻和加介 | ||||||||||||
大郎子 (意富富等王) | 阿加波智君 | ||||||||||||
乎非王 | 乎波智君 | ||||||||||||
汗斯王 (彦主人王) | 布利比弥命 (振媛) | ||||||||||||
乎富等大公王 (26 継体天皇) | |||||||||||||
『釈日本紀』所引の『上宮記』逸文によれば、汙斯王(彦主人王)は応神天皇(第15代)の四世孫である。父は乎非王(おひのおおきみ)で、母は牟義都国造伊自牟良君の女の久留比弥命。
『上宮記』逸文と『日本書紀』によれば、妃は垂仁天皇七世孫の振媛(ふりひめ、布利比弥命)で、その間の子に継体天皇(第26代)がいる。
10 崇神天皇 | 彦坐王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊城入彦命 | 11 垂仁天皇 | 丹波道主命 | 山代之大筒木真若王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔上毛野氏〕 〔下毛野氏〕 | 12 景行天皇 | 倭姫命 | 迦邇米雷王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武尊 | 13 成務天皇 | 息長宿禰王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14 仲哀天皇 | 神功皇后 (仲哀天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16 仁徳天皇 | 菟道稚郎子 | 稚野毛二派皇子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17 履中天皇 | 18 反正天皇 | 19 允恭天皇 | 意富富杼王 | 忍坂大中姫 (允恭天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐皇子 | 木梨軽皇子 | 20 安康天皇 | 21 雄略天皇 | 乎非王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯豊青皇女 | 24 仁賢天皇 | 23 顕宗天皇 | 22 清寧天皇 | 春日大娘皇女 (仁賢天皇后) | 彦主人王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手白香皇女 (継体天皇后) | 25 武烈天皇 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『日本書紀』継体天皇即位前条によると、彦主人王は近江国高島郡の「三尾之別業」(現在の滋賀県高島市の安曇川以南域)におり、越前三国の坂中井(さかない:現在の福井県坂井市の旧三国町域)の振媛を娶った。
その後振媛は男大迹王(のちの継体天皇)を生んだが、その幼少のうちに彦主人王は死去。そのため振媛は高向村(現在の福井県坂井市の旧丸岡町域)に帰郷して、男大迹王を養育したという。
彦主人王の母は牟義都国造の女というから、後の美濃国武儀郡の豪族の出身であり、武儀の地は近江の息長とそれ程離れてはいない。そのため、乎非王の本拠地は不明だが、近江・美濃の間にあったと考えられる。そうなれば、乎非王の婚姻は近江・美濃あたりの豪族同士の婚姻ということになり、その間に生まれた彦主人王が、恐らく美濃あたりを本居としながらも、近江の高嶋の三尾に別業を持ち、さらにそこから越前の豪族の女牲に求婚した事情も、当時の豪族が隣接する国々をその通婚圏としたという想定のもとに理解することができる。
三尾別業(みおのなりどころ、三尾之別業)は、彦主人王が拠点とした三尾にあったとされる別業。継体天皇の出生地ともされ、近江国高島郡三尾郷(現在の滋賀県高島市の安曇川以南域)と見られるが、具体的な比定地は未詳。
この「三尾」の地について『上宮記』では「弥乎国」と見えるほか、『延喜式』では兵部省条に「三尾駅」が、『和名抄』では高島郡に「三尾郷」が見える。現在も水尾神社や「三尾里」の地名が残ることから、「三尾」とは高島市の鴨川下流域一帯を指す地名とされる。現在、同地には継体天皇出生に関する数々の伝承地が残っている。
そのほか、同地にある田中王塚古墳(彦主人王墓伝承地)と稲荷山古墳は5世紀中頃から6世紀前半の首長墓と見られており、豪族の三尾君(みおのきみ、三尾氏)との関係も指摘される。
彦主人王に関して、宮内庁による治定墓はない。ただし、滋賀県高島市安曇川町にある宮内庁の安曇陵墓参考地(あどりょうぼさんこうち、北緯35度20分24.57秒 東経136度0分24.07秒 / 北緯35.3401583度 東経136.0066861度)では、彦主人王が被葬候補者に想定されている。遺跡名は「田中王塚古墳」。直径約58m・高さ約10mの円墳(または帆立貝形古墳)で、5世紀後半の築造とされる。俗称は「ウシ塚」。
陵墓参考地のため詳細な調査は行われていないが、推定築造時期の合致から考古学的にも彦主人王の墓とする説が有力視される。また、三尾では滋賀県高島市鴨の稲荷山古墳(前方後円墳、墳丘長45メートル、北緯35度19分1.46秒 東経136度0分51.3秒)が彦主人王の墓であるとも伝えるが、こちらは現在では安曇川以南の豪族・三尾氏の首長墓と考えられている。
そのほか、彦主人王および三尾氏のかつての本拠地は越前であったが5世紀後半頃に近江に移したとする立場(三尾氏移動説)から、二本松山古墳(福井県吉田郡永平寺町)と関連付ける説もある。この説では、二本松山古墳が時期の異なる(5世紀後半頃と6世紀初頭頃か)2つの石棺を持ち、片方(古相)には人骨がないことを基に、古墳を彦主人王の空墓と振媛の墓と推測する。
注釈
原典
出典
This article uses material from the Wikipedia 日本語 article 彦主人王, which is released under the Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 license ("CC BY-SA 3.0"); additional terms may apply (view authors). コンテンツは、特に記載されていない限り、CC BY-SA 4.0のもとで利用可能です。 Images, videos and audio are available under their respective licenses.
®Wikipedia is a registered trademark of the Wiki Foundation, Inc. Wiki 日本語 (DUHOCTRUNGQUOC.VN) is an independent company and has no affiliation with Wiki Foundation.