小室 達(こむろ とおる、1899年(明治32年)8月10日 - 1953年(昭和28年)6月18日)は、日本の彫刻家。
1899年(明治32年)8月10日、宮城県柴田郡槻木村大字入間田(現・同郡柴田町。北緯38度5分41.5秒 東経140度48分12.3秒)に、小室源吾(後の槻木町長)の三男として生まれた。
1919年(大正8年)、(旧制)白石中学校(現・宮城県白石高等学校)を卒業すると、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑造部に進学した。その後、同校を首席で卒業し、研究科に進んだ。
第4回帝展(帝国美術院展覧会、現日展)に「想」を初出品すると、第5回帝展からは無鑑査となり、27歳ながら日本美術界での地位を確立した。第6回の帝展には「構想」を出品し、特選となった。
1935年(昭和10年)の伊達政宗300年祭を前に騎馬像制作の依頼を受ける(後述)。この頃は杉並区永福町に自宅を構えていた。ブロンズ像の鋳造は荒川区の業者に発注、トラクターを使用して4日がかりで仙台まで運び込んだ際には小室も同行した。
1933年(昭和8年)11月26日、「伊達政宗公三百年祭協賛会」が第30代内閣総理大臣・斎藤実(旧仙台藩・水沢伊達家の家臣の三男)を総裁として宮城県および仙台市の連合で結成された。同年、小室は宮城県青年団から政宗の銅像制作を依頼され、1601年(慶長6年)4月に仙台藩祖・伊達政宗が仙台城(青葉城)に入城した姿を写した「伊達政宗騎馬像」(伊達政宗卿像)の制作を開始した。政宗の300回忌にあたる1935年(昭和10年)5月24日を中心に、5月20日から26日まで仙台市を中心に宮城県内各地で記念事業が開催されたが、このとき「伊達政宗騎馬像」も仙台城本丸に建立された。
アジア・太平洋戦争下で日本が物資不足に陥ると、国家総動員法(1941年8月30日公布、同年9月1日施行)にもとづく金属類回収令により1944年(昭和19年)1月に供出され、仙台城から同像は姿を消した。
1950年代初頭に小野田セメントが仙台市公会堂および仙台市レジャーセンターの装飾を担当したが、同社の斡旋で柳原義達制作の平服姿の政宗のセメント立像(「伊達政宗公平和像」と呼ばれる)が1953年(昭和28年)に仙台城に建立された。
高度経済成長期になると騎馬像の復元要望が市民から上がったため、小室の地元である柴田町槻木庁舎と槻木小学校に梱包され分散保存されていた石膏原型を用いて復元されることになった。1964年(昭和39年)3月5日午前10時、石膏原型は柴田町から仙台市観光協会に引き渡された。その後、東京にある鋳造工場に運ばれ、銅像に復元された。東京オリンピック開会式の前日にあたる同年10月9日の午前11時より復元除幕式が行われ、(第2代)「伊達政宗騎馬像」が仙台城に再建された。一方、仙台城に設置されていた「伊達政宗公平和像」は同年、政宗が仙台城に移る前に居城としていた岩出山城(現・宮城県大崎市岩出山)に移設された。
「伊達政宗騎馬像」は現在、原型試作品が竹駒神社馬事博物館(宮城県岩沼市、北緯38度6分17.3秒 東経140度51分50秒)に、初代の金属供出されなかった部分を用いた胸像が仙臺緑彩館に、復元された第2代が仙台城本丸(北緯38度15分11.7秒 東経140度51分24.3秒 / 北緯38.253250度 東経140.856750度)に、各々設置されている。
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