宝福寺(ほうふくじ)は、岡山県総社市井尻野にある臨済宗東福寺派の寺院である。山号は井山(いやま)。本尊は虚空蔵菩薩。宝福禅寺とも呼ばれる。
宝福寺 | |
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境内 | |
所在地 | 岡山県総社市井尻野1968 |
位置 | 北緯34度41分28.7秒 東経133度44分2.3秒 / 北緯34.691306度 東経133.733972度 東経133度44分2.3秒 / 北緯34.691306度 東経133.733972度 |
山号 | 井山(いやま) |
宗派 | 臨済宗東福寺派 |
寺格 | 中本山 |
本尊 | 虚空蔵菩薩 |
開基 | 日輪 |
正式名 | 井山 宝福禅寺 |
札所等 | 備中西国第25番札所(般若院) |
文化財 | 三重塔、絹本著色地蔵菩薩像、絹本著色十王像(重要文化財) 方丈、方丈土塀、玄関及び食堂ほか(登録有形文化財) 梵鐘ほか(県重文) |
法人番号 | 4260005004652 |
創建の年代は不明であるが天台宗の僧・日輪によって開かれたとされ、元来は天台宗の寺院であった。鎌倉時代の貞永元年(1232年)に備中国真壁(現在の総社市真壁)出身の禅僧・鈍庵慧總によって禅寺に改められた。
当時の天皇であった四条天皇は病気となっていた。鈍庵が天皇の病気平癒のために祈祷を行ったところ、壇前に客星が落ち、天皇の病気は平癒したという。星が落ちた場所に井戸を掘り「千尺井」と名付けた。これが山号「井山」の由来となった。その後、寺院は天皇の勅願寺となり発展した。一時は塔頭・学院55、末寺300寺を数えるほどの巨刹となり隆盛を誇った。
戦国時代に起こった備中兵乱では地元の戦国大名三村氏に味方し、天正3年(1575年)に三重塔を残し伽藍のことごとくを戦火により失った。その後、江戸時代に至るまでの間は荒廃していたが、江戸時代初期に復興され、再び山門・仏殿・方丈・庫裏・禅堂・鐘楼・経蔵の禅宗様式七堂伽藍を備える本格的な禅寺となった。本堂にあたる仏殿は享保20年(1735年)に再建されている。
秋は紅葉の名所として有名である。
室町時代、備中国赤浜(現在の総社市赤浜)に生まれた雪舟は、少年時代ここで修行を行った。幼少より絵が上手であった雪舟のエピソードとして鼠の絵の話が残されている。
絵を描くことが好きであった雪舟少年は、修行もそこそこに絵ばかり描いていた。修行に身を入れさせようと、禅師は雪舟を柱に縛り付けて反省を促した。夕刻、様子を見に来た禅師は逃げようとする1匹の鼠を見つけ、捕まえようとしたが動かなかった。よく見るとそれは、雪舟が流した涙を足の親指で描いたものであったという。それ以来、禅師は雪舟の絵をとがめなくなったといわれている。
現在この時の床板は、取り外されている。
以上、平成21年(2009年)1月8日および同年4月28日登録。各建物は江戸時代中期から明治時代にかけての建立である。
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