『公事方御定書』(くじかたおさだめがき、くじがたおさだめがき、くじがたおさだめがき)は、江戸幕府の基本法典。享保の改革を推進した8代将軍・徳川吉宗の下で作成された。上巻・下巻の2巻からなる。上巻は警察や行刑に関する基本法令81通を、下巻は旧来の判例を抽象化・条文化した刑事法令などを収録した。特に下巻は『御定書百箇条』(おさだめがきひゃっかじょう)と呼ばれている。
編纂は老中の松平乗邑を主任に、勘定奉行、寺社奉行、江戸町奉行の石河政朝の三奉行が中心となる。年表などでは寛保2年(1742年)成立とされるが、改訂作業が続けられており最終的に確定したのは宝暦4年(1754年)である。
奥書には「奉行中之外不可有他見者也」と記され、本来は幕府の司法中枢にあった者のみが閲覧できる文書だった。それは「民は由らしむべし、知らしむべからず」という儒教的政治理念だけでなく、吉宗の政策が刑の軽減を図るものだったため公開しないほうが威嚇効果を維持できると考えられたためとされる。また、下巻は刑法典の体裁をとってはいるが、あくまでも裁判や科刑の標準を示す重要判例集のようなもので制定法というよりも法曹法的な性格が強く、罪刑法定主義の考え方もなかったため条文の類推解釈や拡張解釈も裁量で行われていた。
公事方御定書は三奉行と京都所司代、大坂城代のみが閲覧を許される秘法(罰則あり)であったが、評定所では奉行の下で天保12年(1841年)に『棠蔭秘鑑』という写本が作られ、裁判審理の場で利用されていた。
また極秘裏に諸藩でも写本が流布し、その内容を把握して自藩の法令制定の参照とした。その為、本来幕府領内でのみ効力を有する法が、ある種、日本国内統一法のようなものでもあったが、次第に「祖法」化し、御定書制定の翌年1743年(寛保3年)には実質的に廃止されたはずの田畑永代売買禁止令が、御定書に載せられていたために有効な法律とされ、1871年(明治4年)まで存続するなどの弊害もあった。
これができる前は基本的に刑罰は死刑か、追放刑と乱暴なもので、この法典ははじめて明文化してかつ更生の概念を取り入れた。
なお、松平定信の寛政の改革で公事方御定書を修訂した「寛政刑典」が制定されたという説があったが、同書は公事方御定書の流布本であり写本の過程で「寛保」を「寛政」に変えて定信によるものと仮託されたものと考えられている。
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