伊藤仁斎: 日本の儒学者

伊藤 仁斎(いとう じんさい、寛永4年7月20日(1627年8月30日) - 宝永2年3月12日(1705年4月5日))は、江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家。京都の生まれ。日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求して提示した。

伊藤仁斎: 生涯, 学説と思想, 校注著作
伊藤仁斎、堀川門人による肖像

は、はじめ維貞、のち維禎。仮名 (通称)は、源吉、源佐、源七。屋号は、鶴屋七右衛門。仁斎はであり、号は古学先生。『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と尊重した。 初めは朱子学者であったが、後に反朱子学となり、孔子・孟子の原義に立ち返る「古義」を標榜した。

生涯

  • 寛永4年7月20日(1627年8月30日) 京都で誕生。
  • 1662年 京都の堀川に古義堂(堀川学校)を開く。堀川を隔てた対岸に、山崎闇斎の闇斎塾があった。
  • 宝永2年3月12日(1705年4月5日) 死没。

家庭

  • 40歳を過ぎてから結婚し1男2女をもうけたが、52歳のときに妻に先立たれ、その数年後に再婚し、更に4男1女をもうけた。末子で五男の蘭嵎(らんぐう)が生まれたのは仁斎68歳の時である。5人の男子は皆、優れた儒学者となった。東涯(原蔵)・梅宇(重蔵)・介亭(正蔵)・竹里(平蔵)・蘭嵎(才蔵)で、世上「伊藤の五蔵」と称された。

学説と思想

論語』を「最上至極宇宙第一の書」と称した。

古義学古学)を提唱し、主著に『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』『童子問』『古学先生文集』などが挙げられるが、生前は講義と著述の整理・推敲に尽力し、著作を公刊することはなかった。

仁斎の学問手法は、当時支配的だった朱子学経典解釈を廃し、直接テクストを検討するというものである。朱子学は学問体系としては非常に整ってはいたが、その成立過程に流入した禅学や老荘思想といった非儒教的な思想のために経書の解釈において偏りがあった。仁斎はそのような要素を儒学にとって不純なものとみなし、いわば実証主義的な方法を用いた。このような傾向は同時代の儒学研究に共通にみられるものである。仁斎は朱子学の「理」の思想に反して、「情」を極的に価値づけした。客観的でよそよそしい理屈よりも人間的で血液の通った心情を信頼している。四端の心や性善説を唱えた。

校注著作

参考文献

解説書

脚注

関連項目

外部リンク

Tags:

伊藤仁斎 生涯伊藤仁斎 学説と思想伊藤仁斎 校注著作伊藤仁斎 参考文献伊藤仁斎 解説書伊藤仁斎 脚注伊藤仁斎 関連項目伊藤仁斎 外部リンク伊藤仁斎1627年1705年3月12日 (旧暦)4月5日7月20日 (旧暦)8月30日京都人間儒学者宝永寛永思想家江戸時代道徳

🔥 Trending searches on Wiki 日本語:

川人博Aespaちいかわ なんか小さくてかわいいやつユヴェントスFC秋吉久美子汚言症松平定信雨穴ようこそ実力至上主義の教室への登場人物長谷川岳ジョー・バイデン藤咲凪テレビ東京片桐仁真野響子馬渕磨理子MUTEKI新垣結衣奈緒月が導く異世界道中INIキュートアグレッションペレ間下このみアイナ・ジ・エンド麻生太郎桜田門外の変柴咲コウ釘宮理恵中村嶺亜村上虹郎西脇亨輔薬屋のひとりごと長濱ねる水上恒司ONE PIECE大塚剛央影山優佳趣里大石昌良晴山紋音ウィル・スミス (捕手)ジェットスター航空NHKニュース7カネミ油症事件岡本健一松本人志柄本佑菊池風磨髙嶋政伸あさま山荘事件小林千晃石川恋アドルフ・ヒトラーエンプロ (芸能プロダクション)原千晶 (アナウンサー)麻原彰晃尾澤るな内田有紀徳川治休バツイチ福島県立大野病院事件村上浩爾橋本龍太郎搗宮姫奈溝口勇児アダルトビデオエドワード8世の退位東日本大震災国井雅比古俺だけレベルアップな件草彅剛広瀬すず聖者の行進 (テレビドラマ)🡆 More