レインボー(英語: Rainbow)は、イングランド出身のハードロック・バンド。
レインボー Rainbow | |
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基本情報 | |
別名 |
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出身地 | ハートフォード |
ジャンル | |
活動期間 | |
レーベル | |
メンバー |
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旧メンバー | 後述 |
ディープ・パープルのギタリストだったリッチー・ブラックモアが1975年に脱退して結成した。HR/HMサウンドのバンドの代表格として後発のアーティストに多大な影響を与えた。1984年にディープ・パープルが再結成されたことによって活動を停止したが、ブラックモアが1993年にディープ・パープルを再び脱退して再始動。2024年現在に至るまで断続的に活動を行っている。
ディープ・パープルのギタリストとして既に音楽的にも商業的にも世界的な成功を収めていたブラックモアが、在籍中に水面下で開始したソロ活動を発展させる為に1975年にディープ・パープルを脱退してリッチー・ブラックモアズ・レインボー(Ritchie Blackmore's Rainbow)を結成して、同名のデビュー・アルバムを発表したのが始まりだった。彼はメンバーを一新してバンドとしての体裁を強め、セカンド・アルバムではブラックモアズ・レインボー(Blackmore's Rainbow)、サード・アルバム以降はレインボー(Rainbow)の名を用いた。1995年に再結成された時はリッチー・ブラックモアズ・レインボーに回帰したが、2015年にはレインボーとして再結成された。
レインボーの音楽の主な特徴は、ブラックモアがディープ・パープル在籍中に培った『ブルースを基調としたハードロック』にバロック音楽の構成を融合させた様式美的スタイルである。彼等は1980年代以降にみられるリフやメロディを主軸としたHR/HMサウンドの基礎を築き上げたとされている。初代ボーカリストで在籍中のオリジナル曲の殆ど全てをブラックモアと共作したロニー・ジェイムス・ディオは、後年「(レインボーは)ゴシックメタルの先駆者だった」と述べている。
リーダーのブラックモアがイングランド出身であるので、一般にはブリティッシュ・ロック・バンドと見なされてきた。しかしリッチー・ブラックモアズ・レインボーはアメリカのハード・ロック・バンドのエルフを母体にして結成され、ブラックモア以外のメンバーはディオを含めて全員がアメリカ北東部出身だった。メンバーはブラックモアの方針に合わせてアルバム毎に代わっていったが、歴代メンバーはイギリス人、アメリカ人、カナダ人、オーストラリア人と多岐に渡る。
結成のきっかけは、1974年7月に録音が開始された第3期ディープ・パープルの2作目のアルバム『嵐の使者』の制作中に、ブラックモアと他のメンバーとの音楽的な対立が表面化したことであるとされている。彼は第3期からメンバーになったデイヴィッド・カヴァデールとグレン・ヒューズが前作『紫の炎』にも増して、ソウル・ミュージックやファンキー・ミュージックの要素を持ち込むことに不満を抱いた。そして旧友のミック・アンダーウッドが結成したクォーターマスが取り上げた「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」(Black Sheep Of The Family)という曲を録音することを提案したが、オリジナル曲に執着するメンバーにカバー曲だからなどの理由で反対された。
『嵐の使者』の録音後に予定されていたアメリカ・ツアーが中止となって時間的な余裕が生じたため、ブラックモアは、アメリカのバンドであるエルフのボーカリストで、かねてより気に入っていたロニー・ジェイムス・ディオを起用して「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」を録音して、ソロ・シングルとして発表することにした。彼はディオと「16世紀のグリーンスリーヴス」(Sixteenth Century Greensleeves)を共作し、エルフのクレイグ・グルーバー(ベース)、ミッキー・リー・ソウル(キーボード)、ゲイリー・ドリスコール(ドラム)を招聘して2曲を録音した。彼は出来の良さに大変満足して、ソロ・シングルを発表するのではなく、ディオらと新しいバンドを結成することを企図した。
ブラックモアは1975年2月20日から3月14日まで、ミュンヘンのミュージックランド・スタジオにディープ・パープルのプロデューサーのマーティン・バーチを迎えて、ディオらとデビュー・アルバムを制作した。そして彼は4月7日のパリ公演を最後にディープ・パープルを脱退した。
RAINBOW#1(1975年5月 - 1975年9月)
RAINBOW#2(1975年9月 - 1977年2月)
RAINBOW#3(1977年5月 - 1977年7月)
RAINBOW#4(1977年7月 - 1978年11月)
RAINBOW#6(1980年8月 - 1980年11月)
RAINBOW#7(1980年11月 - 1981年11月)
RAINBOW#8(1981年11月 - 1983年6月)
RAINBOW#9(1983年6月 - 1984年3月)
RAINBOW#10-#12(1994年4月- 1997年5月)
RAINBOW#13(2016年6月- )
ブラックモアはディープ・パープルを脱退してディオらエルフのメンバー4名とバンドを結成した時、音楽誌のインタビューなどで度々「自分はバンドの1/5に過ぎない」と強調していた。だがリッチー・ブラックモアズ・レインボーというバンド名とアルバム名から、周囲やファンの多くは、このバンドの活動を彼のソロ・プロジェクトの延長と捉えた。
しかしバンド名をブラックモアズ・レインボーとしたセカンド・アルバムでは、ディオのヴォーカルに加えてパウエルのパワフルなドラミングを得て、彼の当初の理想だった「中世様式美系ハードロック」がある程度完成したとされ、その結果レインボーは、彼のワンマンバンドではなく3人の強力なメンバーを擁したバンドと見なされるようになった。この『三頭時代』に発表された2作のスタジオ・アルバム、1作のライヴ・アルバム、後年に発表されたビデオ『Live in Munich 1977』は、いずれも高品質の作品として評価され、日本やヨーロッパでは高い人気を博した。
しかし最大の市場であるアメリカでの売上は、それなりの成果はあったものの、ブラックモア自身が思い描いていた事とは程遠かった。そこでブラックモアはアメリカ人の嗜好に合った、より現代的でストレートなハードロック路線への転換を主張。同意できなかったディオは脱退した。新たなヴォーカリストにはキャラクターも音楽性も異なるボネットが加入。プロデュースと曲作りに招いたグローヴァーをベーシストとしてメンバーに迎えて入れ、ポップセンスを効かせた佳曲揃いのアルバム『ダウン・トゥ・アース』を発表。ヒット曲も生まれてアメリカでの人気がいくぶん盛り上がった。が、パウエルが音楽性の変質に不満を抱いて脱退。友人の脱退に触発されてボネットも後に脱退した。
ボネットの後任にアメリカ人のターナーを迎え、よりアメリカ市場を意識してポップセンスをさらに先鋭化させた『アイ・サレンダー』を発表。音楽性の変化には賛否両論があり、肝腎のアメリカでの売上も期待された程には伸びなかったが、日本では発売から約半年後の来日時に発売元のポリドールによってゴールドディスクに認定され、従来の高い人気を保っていた。アルバムツアー終了後、エイリーが方向性の相違から脱退。
1984年、ブラックモアはグローヴァーと共にディープ・パープルの再結成に参加。レインボーは7作目のアルバム『ストリート・オブ・ドリームス』と同年3月の日本公演を最後に活動を停止、解散する。
ブラックモアはその後約10年にわたりディープ・パープルで活動するが1993年に脱退し、ホワイトなど新たなメンバーでバンドを結成。グループ名を「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」と名乗った。しかしアメリカでは全く話題にすらならなかったアルバムを1作発表しただけで再び自然消滅的な形で解散した。
2015年7月、ブラックモアズ・ナイトで活動中だったブラックモアは、翌年6月にレインボー名義でツアーを開催すると明言。同11月、オフィシャル・ラインナップを公表。
2016年6月、ドイツと本国イングランドで全3回のライブを実施。ブラックモアは「反応次第では継続する可能性がある」と含みを残した。そして実際に継続が実現し、2017年7月に英国ツアー、2018年には東欧ツアーを開催。20数年ぶりのオリジナル曲も発表した。
ギタリストは全時期を通じてリッチー・ブラックモア。それ以外のメンバーは以下の様に変遷している。
時期 | ボーカル | ベース | キーボード | ドラムス |
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#1 1975/5-1975/9 | ロニー・ジェイムス・ディオ | クレイグ・グルーバー | ミッキー・リー・ソウル | ゲイリー・ドリスコール |
#2 1975/9-1977/2 | ↓ | ジミー・ベイン | トニー・カレイ | コージー・パウエル |
#3 1977/5-1977/7 | ↓ | マーク・クラーク | ↓ | ↓ |
#4 1977/7-1978/11 | ↓ | ボブ・デイズリー | デヴィッド・ストーン | ↓ |
#5 1979/4-1980/8 | グラハム・ボネット | ロジャー・グローヴァー | ドン・エイリー | ↓ |
#6 1980/8-1980/11 | ↓ | ↓ | ↓ | ボビー・ロンディネリ |
#7 1980/11-1981/11 | ジョー・リン・ターナー | ↓ | ↓ | ↓ |
#8 1981/11-1983/6 | ↓ | ↓ | デイヴ・ローゼンタール | ↓ |
#9 1983/6-1984/3 | ↓ | ↓ | ↓ | チャック・バーギ |
解散 1984/4-1994/3 | ※ | ※ | ※ | ※ |
#10 1994/4-1995/9 | ドゥギー・ホワイト | グレッグ・スミス | ポール・モリス | ジョン・オライリィ |
#11 1995/9-1997/2 | ↓ | ↓ | ↓ | チャック・バーギ |
#12 1997/2-1997/5 | ↓ | ↓ | ↓ | ジョン・ミセリ |
#13 2016/6- | ロニー・ロメロ | ボブ・ヌーボー | イェンス・ヨハンソン | デヴィッド・キース |
1st.『銀嶺の覇者』 - RITCHIE BLACKMORE'S RAINBOW
2nd.『虹を翔る覇者』 - RAINBOW RISING
3rd.『バビロンの城門』 - LONG LIVE ROCK'N'ROLL
4th.『ダウン・トゥ・アース』 - DOWN TO EARTH
5th.『アイ・サレンダー』 - DIFFICULT TO CURE
6th.『闇からの一撃』 - STRAIGHT BETWEEN THE EYES
7th.『ストリート・オブ・ドリームス』 - BENT OUT OF SHAPE
1995年 『孤高のストレンジャー』 - STRANGER IN US ALL
デビュー当時の彼等の呼び物の一つに、虹をかたどった照明システム(以後、『虹』と記す)があった。ブラックモアはディープ・パープルに在籍していた時から、このような照明のアイデアを持っていたと言われ、電飾こそ施されていないが似た装飾が1974年のカリフォルニア・ジャムでのコンサートで使われたのが映像で確認できる。
約10万ドルの費用で制作された『虹』は、高さ29ft(約9m)、幅40ft(約12m)という巨大なもので、約3,000個の電球を使用し、4分割して輸送できるようになっていた。コンピュータによって光の流れ、色合いを制御し、ステージ演出に大きな効果を生んだ。
一方、輸送費やコンピュータ制御の技術者(オペレーター)の人件費など、『虹』の必要経費の総額は膨大で、1976年のRISINGツアーの以前のアメリカを中心に行われたツアーは赤字続きだったという。また『虹』を点滅させると楽器の音にノイズが発生し易くなるといった悪影響があり、特にその影響を受けるメロトロンが使用される曲では、カレイらキーボーディストの抗議に応じて『虹』への電力が抑えられていた。
『虹』はボネットが加入した後の1979年9月に行なわれたアメリカ・ツアーから引退。理由は観客の多くがステージ上のメンバーではなく『虹』を観ていることにブラックモアが気付いて『虹』に対して脅威を感じたから。1982年頃のライヴからは、『闇からの一撃』のジャケットアートをイメージした、闇に浮かぶ巨大な電光の眼が使われるようになった。
コンサートの開演ではBGMとしてエドワード・エルガーの威風堂々第1番が流された後、映画『オズの魔法使い』の台詞"We must be over the rainbow..."が流れてブラックモアが主題歌「虹の彼方に」の一節のフレーズを弾き出すのが定番となっていた。終演ではジュディ・ガーランドの歌う「虹の彼方に」が流された。
1979年1月27日にNHK総合テレビジョンで放送されたドラマ『阿修羅のごとく』(原作・脚本向田邦子)の第4話で、「バビロンの城門」が挿入曲として使用された。
1978年1月27日、彼等の2度目の日本公演の際、札幌市の中島スポーツセンターで行われたコンサートで観客が死亡する事故が発生した。約5,000人の聴衆が詰め掛けていた同会場で、前座の四人囃子の演奏が終わった約1時間後にレインボーが登場すると、開演時間の遅れに痺れを切らしていた聴衆がステージ前方に殺到。将棋倒しが起こり、下敷きとなった当時19歳の女子大生が胸部圧迫のため死亡した。現場は大混乱となったが、警察からバンド側への演奏一時中止の要請は届かなかったという。
後日、ブラックモアは遺族に500万円の見舞金を送った。
当時の日本のロック・コンサートでは、指定席の観客でもステージに向かって駆け出したり前の方に詰めかけたりすることが許されていた。この事故は当時大きくニュースで取り上げられ、警備体制を大きく変更する契機になった。
※日本盤シングルのみ
※1月27日の札幌公演では開演直後に観客席で将棋倒しが発生して大学生1人が死亡した。
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